一 ミルフィーユ
あるカフェの一角。店の大きなガラス窓からキラキラと光が照りつける。
「お待たせしました。春のいちごのミルフィーユです」
店員の朗々とした声が聞こえた。ちいさな小皿に乗った、ピンク色のミルフィーユには、赤色の食欲をそそる苺ジャムが今にもこぼれ落ちそうなほどにかかっている。「わぁ!」と私は思わず感嘆する。スプーンを口に運ぶと、甘くて、しょっぱくて、とろけるようなその味に感動してしまった。
「仕事の時とは違うね」
「黙ってください先輩。」
私はそう言い放つ。
「うわぁ、おいひいっ!」
私がスイーツを食べていると、必ずこいつは茶々を入れる。
「魅麗、そのミルフィーユ、誰の奢りかわかってる?味わって食べなよ」
奢り……ミルフィーユ。
「先輩。」
なんだよ、と碧波が怪訝そうに言う。
「あたしはこの店でミルフィーユを奢っていただいたことがあります」
「そうかい。」
碧波は、コーヒーを少し口に含んだ。終始無言。コーヒーを啜る音だけが響き渡る。
「実を言うと、入学前のことなのですが」
「君の入学前?ふぅん、でも君の家からこの店遠いだろ?なんでここに。」
大きな窓の外を見るが、まだ螺鈿先輩は来そうにない。ああ、自らで決めたことだが……「この学校に行こうと以前から考えていたからです。」
ふぅん、とコーヒーの出す湯気よりもか細い声が聞こえた。やはり碧波は興味なさそうに窓の外を見ている。気まずいというのが実情だった。普段、校内であれば三人一緒に行動する風紀委員会の仲間であるが、やはり喫茶店となると雰囲気がかなり変わってくるからだろう。
「螺鈿先輩まだかなぁ。」
碧波がうそぶいた。
ミルフィーユを口に運ぶと、頬が痛くなるほどに美味だった。
「おいしいっ!」
私が甘いものを食べている時だけ、なぜかこの人は、というかどんな人も手を止めて、こちらへ向き直る。
「なんで、みんなあたしが甘いもの食べてる時だけこっち見るんですか?」
「口調が柔らかいからかな。」
やはり甘いものがない時の私は、冷たいのだろうか。
「やっぱり先輩も甘いもの食べてない時のあたしは、苦手ですか。」
碧波はコーヒーの皿を置いた。ガシャンと音がする。隣のテーブルの子連れの夫婦がこちらをチラリと見た。
「人間は扱いにくいから嫌い。冷たい方が、分かりやすいから、そっちがいいな。」
初めて聞いた、意見だ。 碧波はやはり他の人と違う。
「やはり先輩は、他の方とは違うのですね。」
ミルフィーユのひとつひとつのパイの層が、食欲を誘う。スプーン一杯分、口に運ぶ。
「君に言われたくないよ。」
即答。あたしはテーブルにフォークを即座に置いた。
「なんでふって!」
「魅麗、食べながら喋るな。」
「すみまふぇん」
碧波は、いつも通り侮辱するような目で私を見ると、それからコーヒーをちびちびと飲んだ。この人はこういう目なのだろうか、それとも故意に私をこんな蔑むような目で見ているのだろうか。
ミルフィーユをすくうたび、昔のことを思い出す。螺鈿先輩とくだらない話をしたこと。碧波と一緒に示談したというのに教諭から馬鹿にされて愚痴を言い合ったこと。
なんというか、このいちごのミルフィーユは、春色をしていた。鮮やかな、ピンク色ではない。着色料非使用の名に恥じない、そのままの色なのだ。 風紀委員として寒い中正門前で立ち続けたこと。螺鈿先輩に連れられて資料室へやってきたこと。色んなことがあった。
ふと、私は聞いた。
「先輩、大学受験は……」
碧波は、さあ、とだけ答えた。やはり進路も決まってないらしい。彼らしいといえばそうだが。
「ミルフィーユ、早く食べなよ。」
碧波に促されて、一口だけミルフィーユを食べる。甘かった。
「食べるたびに、思い起こされるのです。色んな思い出が。」
そうか、と碧波は言う。
「色んなことが、あったよね。」
その通りだ。
「でも今日で、その思い出に終止符を打つのですよね」
違う、碧波が言う。
「まだまだじゃないか。」
さあ、どうでしょう。 思い起こせば、螺鈿《らでん》占星歌《せいか》との出会いも、碧波《あおなみ》琉奏《るか》との出会いも、運命的だった。
二 鳥籠に住まうこと
風紀委員会副委員長桃畑魅麗。そんな名を、入学直後つけられた。迷惑な話だ。クラス議会でなぜいきなり私を副委員長に推薦するのだ?
風紀委員会の路端《ろばた》菓《このみ》先生は、とても厳しい人だった。
「なんで開始早々遅れてるのよ!今日から正門前で見張でしょう?」
すみません、平謝りしたが、電車の遅延のせいだった。遅延証明書をバックから取り出すと、だからなによとその人はそれを放り投げた。そうしてかんしゃくをおこすと、彼女はズタズタと職員室の方へ去っていった。すると、委員長らしき人が駆け寄ってくる。私はすこし緊張感に包まれる。
「桃畑さん、大丈夫?」
大丈夫です、淡々と委員長の言葉にそう答えた。遅延証明書をさっと先輩は拾い上げて渡してくれた。
「市電の遅延なら、仕方ないわよね。」
先輩の名札には「螺鈿占星歌」と書かれていた。間違いない。彼女こそ風紀委員会委員長螺鈿占星歌先輩である。
「ありがとうございます」
先輩は、ふわりと微笑んだ。部活動にも委員会にも今まで入ったことがなかった私は、周りの人から聞くことでしか先輩というものを知れなかった。だから、恐ろしい人たちなんだと決めつけていた。
「螺鈿、委員長。あの人、四月なのにコート着てます。アウトですか?」
「あの子はセーフ。免疫力が特別弱い子で届出が出てるから大丈夫なのよ。」
委員長の指示はいつも的確だった。
「魅麗ちゃん、あの人はアウトよ。追いかけて補導しなさい。」
厳しいその命令に少し面倒だと思ってしまったが、私は走り出した。
先輩は登校ピークの時間帯にも次々と生徒をさばいていく。私もああならなければならないのだろうか。
帰り際、私は気になっていたことを聞いた。「あれ、先輩、そういえば2年生の副委員長は?」
先輩は黙り込んでしまった。「あの子はね」 その言葉が呼水となったのか、先輩はぽつりぽつりと語りだす。
「資料室に、いると思う。多分今も。」
「え?なぜ、資料室ですか。」
先輩は言葉を選ぶようにゆっくりと語り出す。「よかったら、今日の放課後三年A組に来てくれない?ぜひ会ってほしいわ。」
私は特に予定もなかったので即オッケーした。
なぜ資料室に?その言葉が授業中回っていて、ちっとも頭に入らない。どんな人なのだろうか、もし恐ろしい人だったらどうしようか。だが、何も考えずに二つ返事をしたのが悪いのだ。それに、委員長がそんな危険な目に後輩をあわせるわけがない。そう安堵すると、世界史の授業をBGMに、いつのまにか夢の中だった。
私は放課後、三年A組の教室を訪れた。やはりこの学校の選ばれしエリートの集うA組。周りの人はどう見ても天才児、というような風貌の人ばかりだ。
「あら、魅麗ちゃん。」
先輩が手を振った。
「あ、螺鈿先輩!」
廊下で勉強している人の姿がちらちらと見掛けられる。ああ、三年生だな、と思う。
「そうね、資料室に行きましょう。でも、少し職員室に寄り道するけどいいかしら?今日の【正門前服装確認】のチェックカードを出さなくちゃ。」
そうだ。私もチェックカードの出し方を勉強しなくちゃ。「はい行きます!」
静かな廊下に声が響き渡って、少し恥ずかしかった。
三 何里もの旅路
職員室に寄ると、先輩は慣れた様子で挨拶をして中に入り、私をこまねき、詳しく提出方法を教えてくれた。やはり丁寧で優しい人だ。
今は先輩に促され資料室へ向かっているが、私の心臓は壊れそうだった。
「大丈夫?あいつ、そんな緊張されるほどの奴じゃないよ」
先輩が苦笑した。いえ、すみませんと私が言うと、
「噛みついてきたりしないわよ」
と先輩はまた笑った。
資料室のある、唯一旧校舎の残る特別教室棟はひどく埃臭かった。資料室の引き戸を開くと、途端埃が舞い上がる。廊下よりも酷く埃とカビの混じったにおいだ。思わず鼻を摘みそうになるがそれを堪えて、私は委員長に促されるままそこに入る。
「こほんこほん!」
しまった、咳き込んでしまった。螺鈿先輩は少し笑った。しかし今度は苦笑だ。
「新入りの子だね」
聞き慣れない声が資料棚の奥から聞こえてきた。
「……はい」 私は覗き込むようにして、資料棚の裏側に視線をやった。
「桃畑さんと言ったかな」
「はい。桃畑魅麗です。あなたは?」
綺麗な人だ、それが率直な感想だった。
「ルカ。碧波、琉奏。」
見ているだけでこの寂れた資料室が星空に見えてくるほどに、この人は穏やかだった。パイプ椅子に腰掛けたその人は艶のある黒髪をしていて、麗しかった。
「あの……ああ!」
言いかけた時には手首を掴まれていた。バランスを崩しかけた私の胸ぐらを掴むとその人は資料棚に強く押し付けた。
「螺鈿委員長!」
閉塞空間の資料室。螺鈿委員長は腕を組んでこちらを見ていた。
「琉奏っ!こりなさいっ!」
決まった。しなやかな回し蹴り。
「邪魔しないでくれよ。せっかく脅して……」「仕方ないの!どうせそんな足掻いたってうちは同好会に後戻りなのっ!」
なんの話をしているのだろうか。
「魅麗ちゃん、下がりなさい!」
言われるがままに、私は下がる。先輩の指示は、いつも的確だ。
「なんだよ。呪い部の部長だろ。呪い部を守るのが君の役目だろ」
碧波が螺鈿委員長をどやした。
「違うわ。私の役目は呪い部を守ることじゃない。部員を守ること。」
碧波は、パイプ椅子に座り込んだまま腰を浮かせることができなかった。螺鈿委員長は、私の肩を持った。
「さあ、この部屋から出なさい魅麗ちゃん。呪い部のこと、知ってるでしょ?」
知らないわけがない。呪い部とは、入るだけで呪われるだとか言われて周りから隔離された存在であることを。だから、その部室が旧校舎唯一あるということを。私は一目散に扉にしがみついた。そうか、ここが……
「はは……」
碧波が笑ってみせた。
「鍵なら閉めたよ。」
その顔はまるで、歪んでいた。
「閉めたって何よ!」 怒鳴りつける螺鈿委員長。しかし碧波はびくともしない。
「悪いけどその子から入部届をいただくまで開けてはあげないよ。」
馬鹿だ、そう言いたげに螺鈿委員長はため息をついた。あんた、バカじゃないの。
私も私で、書くわけにはいかなかった。呪い部との契約は悪魔との契約。周りの人との縁を全て断つと思ってよい。
「ねえ魅麗、君って嫌いな人いる?」
碧波が突然馴れ馴れしく話しかけてきた。
「嫌いな人?特には。」
ダメだ。話に乗っては。きっとそいつを呪うことを引き換えにこの悪魔に魂を売ることとなる。
「嘘はダメじゃないかい?」
「嘘ではありません。」
慎重に言葉を選んで話しながら、ふたつの出口を私は必死に探していた。 螺鈿委員長はやがて、腕組みをして、資料の影に入っている本を取り出して読み始めた。
「…………」
私が黙り込むと、あたりがシンとなった。
「ほら。魅麗ちゃん、お帰りなさい。」
螺鈿委員長が、窓を指差した。
そうか、簡単な話だ。
「はい。」
外には夕日《せきじつ》が輝いており、木々までも秋になる前から色づいた黄金の世界に私は足を踏み入れた。上靴のまま、私はその世界と一つとなる。ああ、帰ってきた。そう思う。 螺鈿委員長は、手を振りはしなかった。碧波副委員長が、こちらを見たけれども、それはもう諦めの表情と言ってよい。家路をやがて、急ぎ始めた。駅を目指して、歩き始めた。
ふと、周りの人の視線が気になって、後ろを振り返った。誰も私を見てはいないというのに、心の臓はうなっている。市電の駅はもう手の届くような場所にあった。私は黄金の電車に乗り込むと、うつらうつらと眠り始めた。
その後が大変だった。私は上靴のまま学校を出てきてしまったのである。だから、視線が気になったのだろう。
そんなことに気がついたのは乗り継ぎのバスを二つ過ぎてからのことだった。ため息をついた。そうか。風紀委員会は……。螺鈿委員長の諦めに満ちた目が、今更脳裏に蘇る。きっと本当は……彼女も。
もう戻れなかった。地に夜景の輝く田舎の川に、私はバスに揺られていた。ああ、帰ってきた、ふるさとよ。電車を降りると、バス停に置いておいた、自転車にまたがる。帰りのバスは2時間後か。さて、チャリで5キロ行って、向こうのバス停のバスに乗るかな。
四章 待ち合わせは……
私は風紀委員会委員長、螺鈿占星歌の隣に立った。まだ冷たい春の風が吹き付ける。
「魅麗ちゃん、昨日は……」
「いえ、いいんです。」
先輩が、私に話しかけてくれて安心した。
「こちらこそ、失礼いたしました。」
そんなことを言ううちに生徒がやってきた。「あの人は大丈夫ね。」
螺鈿委員長がそんなことを言ったので唖然としたが、ああ、あの生徒の服装のことを言っていたのだなと理解した。
「でもやっぱり、思うの?」
螺鈿委員長のその問いに、私は答えなかった。まるで、なんの話かわからないように、そんな表情でやり過ごした。
「遅れた、ごめん!」
碧波副委員長が走って来た。
「あら珍しいわね。」
螺鈿委員長が走り寄っていく。私はその間《かん》も他の生徒をさばいていた。
「なんであんたが?」
「ちょっと色々あってさ、学校行かないといけなくなった。」
いい迷惑だ、と私は思った。碧波副委員長は、意外と手慣れたようにして生徒をさばいていった。
「そこの君、スカーフつけ忘れてるね。一年生なら学年主任のこのみ……じゃなかった、路端先生に言えば貸してもらえるよ。怖い先生だから気をつけなよ。」
碧波は案外親切だった。やっぱり変なやつじゃああるが。
「あ、魅麗は菓《このみ》に会った?」
よく先生を下の名前で普通に言えるな、この人。
「はい。」
私がそう答えると碧波は、
「うるさかったろ?あの人ヒステリックなんだよねー。」
と語り始めた。まあそれは、分かる。
「市電の遅延証明書を出したのに遅刻で怒られました。」
碧波は滑稽そうに笑いだした。
「やっぱヒステリックだね、あの人。っていうか市電何本も出てるんだから遅延しても遅刻しないように早いのに乗ればいいのに。君どこから来てるの?」
「水燈です。」
「え?水筒?」
「水燈です。ほら、隣の県の。」
「え?どこ?」
「日本屈指の米どころです。自然豊かな、棚田のある山の上に住んでます。」
「え?山?君、すっごく遠くから来てない?何本電車乗り継ぐの?」
「バスと電車と市電を合計五つ。」
碧波は笑い出した。何でも笑うんだから本当におめでたい人だ。
「そこまでして、ここに来る?」
「ええ、私立高校の中でも偏差値60越えのトップクラスの名門進学校ですし。」
碧波はまた笑い出した。
「トップクラス?ハハハ、どこがだよ。ここの入試問題なら満点取れるレベルだろ。」
「なんですって。私頑張ってここまで来たんですよ!」
そっか、と碧波が言った。
「久しぶりに、教室行ってみよっかなー」
碧波副委員長はそう言うと、一度のびあがって深呼吸をして、服装指導に移った。
碧波の羽織った指定の黒いジャケットに、桜の花びらが舞った。さわやかな、温かな、春の風が吹いていた。
——今も、そんな風が吹いている。
「どうしたんだい」
「少し、思い出したんです。昔のこと。」
碧波はあの時と同じ微笑みを浮かべた。そっか、色々あったよね。
はい——。
思い出は、儚く消える。だから今。消える前に。
桜色のミルフィーユが、半分ほど減っていた。いちごジャムが皿の上に垂れている。
碧波の細い手指が、コーヒーカップの持ち手にかざされる。もうコーヒーはとっくに冷めていた。
「君らしくなく、来るのが早かったね。」
碧波のその言葉で思い出してしまった。
そうか、私は約束の一時間前に来たのだ、ということ。そしていつもこの人は2時間前には喫茶店に陣取って待ってくれているということ。
でも——
もう、その時間は終わるはずだ。
まだもう少し、いやかなり、話したいことがあった。
ため息をつく。冷めたコーヒーカップを置いた、彼奴の真似をしたかのように。ミルフィーユにかけられた粉砂糖がすっと舞い上がったかのような錯覚を起こす。いちごジャムをすくってみると、春の香りがした。
先輩には、言えない。
洗濯された署名していない入部届がポケットの中でくしゃくしゃと泣いている。
店の扉が開いて、ベルが鳴る。
「ありがとうございました。」
私はすかさず言った。碧波は何のことだろうとこちらを見た。
やがて、螺鈿先輩がやって来た。
「おおい、遅くなってごめんねー。」
隣に元委員長が腰を下ろした。
そうして、螺鈿先輩の卒業を祝い、思い出話をした。すぐに私は残りのミルフィーユを食べ尽くしてしまった。そうして、話し終えてもう帰るのだ。仕方のないことだ。碧波先輩には、言えないのだ。
夕焼けの中、三人の長い影が伸びていた。螺鈿”委員長”はあの時の眼で私の方を見つめていた。分かってる……でも。
碧波先輩が、駅の前でポツリと言った。
「ねえ、どこに向かうの?魅麗は。黄金の、列車に乗ってさ。」
そういえばミルフィーユの皿に赤いジャムがまだ残っていた。今それはどんな運命を辿った?洗い流されたのか、放置されてるのか、あるいは、ハエに食われたのか、分からない。黄金の列車に乗って、私は遥か遠くの星空へ向かった。
五本の列車とバスの乗り継ぎを終えたときには山に夕日が沈みきっていた。たった一つの車の赤いライトの他、空と川の境界を示すものはなかった。
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