テラーノベル
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※流血表現有り
人間は血を流し過ぎると死ぬのではなかったか。反世界は対峙している相手を見つめてふと思った。額か、もしくは近い場所が切れたのか、そこから赤い血を流している。それも一筋どころの話でも無い。口端からも垂れている、切れている腕からも。習得した魔法を使って反世界と同じ様に宙に浮いてはいるが、それもいつまで保つか分からない。血塗れの人間と違って、対する自分は綺麗なものだった。散々斬りかかられて魔法で氷漬けにされたり焼かれたりはしたが、それらの傷はもう無い。何をしても無駄だと分かっているだろうに。
「ウロロは使わないのか?」
尋ねると、魔男は「は、」と笑う。
「使っては、動けなくなってしまうからな」
「今も似た様なものだろう。さっさと使ってしまえば良い。数秒動きを止めるくらいは出来るだろう」
だからといって今と状況が変わる訳でも無いが。どんな魔法を使われたとて反世界には大して効果が無い。氷漬けの魔法も、血を焼く魔法も、拘束の魔法も、不幸を吸い取る魔法も、爆発する魔法も。イチはふらりと頭を動かして、反世界を見た。血に濡れているだろう赤い目が、口が、反世界を見て。確かにわらっていた。
「はは、」
喉から思わず漏れ出たらしい笑い声に、眉を寄せる。イチは口を押さえて咳き込んだ。隙間から血が溢れたのが見える。それでも、彼は笑っていた。心の底から楽しくて仕方ない、という様に。
「なぁ、反世界」
合間から水音をさせながら、イチは言う。
「俺は今、すごく、たのしいんだ」
「……は」
「どうやったらお前を狩れるのか、考えながら動くのが、楽しくて、仕方ない。出会った時からずっとそうだった、俺の気持ちはずっと変わっていない。
お前を、この手で、狩りたいんだ」
血を流しながら、吐き出しながら、傷付いてふらつきながら。それでも輝く瞳で反世界を見つめて、そう言ってくるイチに。反世界は、また、初めて会ったあの時の様に、己の口角が上がっている事に気が付いた。その事に気が付いたイチが、ああ、と息を吐く。
「たのしいなあ」
そう言い残して、途端、ふっとその体から力が抜けた。がくんと背中から倒れ込むみたいに地面に落ちていく。そのまま放っておけば死ぬ存在を、反世界は指をくいと動かして宙に浮かせた。だらんと力を失うイチの、額から流れ続ける血に触れる。ぬるりとしていて生暖かい、反世界には流れていない体温のある血液。反世界は、イチの口端から垂れているそれを指で拭って。気が付けば、それに舌で触れていた。何の変哲もないただの血の味、そして、ど、という衝撃。心臓に突き立てられている短剣、間近で反世界の顔を見つめる瞳。
「油断、しているときに、心臓をひとつき、も、だめだったか」
「……油断していたと?」
「そうでなければ、お前は刺されたりしないだろ」
イチは笑って、反世界に抱き付いてくる。
「一緒に落ちる、のは、どうだろう」
「試してみるか? 死ぬかもしれないぞ」
「大丈夫、お前を下敷きにするから」
イチはそう言って笑う。反世界は力を抜いた。
「死ぬなよ、子鼠」
イチの身体を抱きしめ返して、血でぬるりとしている頭を撫でる。
「俺も今、とても、愉しいと思っているのだから」
そう言いながら、ゆっくりと、背中から地に向かって落ちて行った。
※転生現パロ
※擬獣化
おーい、と呼んでも来ないのに、餌を皿に入れた瞬間のから、という音が鳴った瞬間に何処かから現れるのを見る度に、イチは思わず笑ってしまう。美しい真っ白な毛並みに、同じく真っ白で、どこか青み掛かっている様な色をしているその猫は、大人しく皿の前で長い尾を揺らしながら待っている。
「よし、良いぞ」
イチが言ってからでないと食べ始めない辺り、余程賢い猫なんだろう。この美しい毛並みといい、人間に慣れている姿といい、元の飼い主が大事に育てていたのだろう事が伺えた。自分の用事を済ませてしまおうと立ちあがろうとすると、白猫は食事を止めてじっと見上げてくる。
「見てないと駄目か?」
「にゃあ」
「そうか。仕方ないなぁ」
毎日こうなるんだよなと笑いながら、イチはまたその場に腰を下ろして、白猫が餌を食べ進めるのを眺めていた。
この白猫を拾ったのは、今から一ヶ月は前の事。アルバイト帰りの夜、後ろから猫の鳴き声がして、振り向くとそこに白猫が居た。真っ白な毛並みで、随分と美しい顔立ちをしている猫だった。猫界ではかなりモテるのでは無いだろうか、とおかしな事を考えるくらいには美しい猫だったのだ。その白猫はにゃあとまた鳴いて、イチの足首に擦り寄ってくる。
「に」
「はは、くすぐったいぞ。人懐っこいな」
白猫を撫でてやる。首輪は見当たらないが、野良にしてはあまりに綺麗な毛並みだし、人に慣れているし。
「お前、もしかして迷子か?」
「にゃあ」
「見るからに飼い猫だしな。飼い主の人、探してるんじゃないか?」
「にゃ」
「うーん……どこか怪我してる訳でも無いし……」
「に、に」
「え、ちょ、こら」
白猫はイチの身体を軽々と登って、肩の辺りに乗ってしまった。結構重い。
「こら、下りろ。元の家に戻るんだ、ほら」
「にぃ、う」
白猫は満足した様に鳴いて、その場から動かなくなってしまった。イチはどうにか下ろそうと、夜中の道の真ん中で30分は格闘していたが、結局最後には諦める事となり。飼い主が見つかるまでだからな、と言い聞かせて、家までその猫を乗せて帰ったのだった。
家族に事情を話して、白猫は一時保護される事となった。迷い猫を保護しているという旨の紙を作って、掲示板に貼らせてもらったり配ったりもしたのだが。一ヶ月経った今、元の飼い主は未だ現れていない。
「可愛がってたと思うんだけどな」
「に」
普段は全く寄って来ない白猫だが、寝る時だけはいつもイチの側に寄ってくる。その顔を見ながら、そっと頭や顎の下を撫でてやる。何処かの飼い猫だろうからと名前は付けないようにしているが、ここまで共に暮らしていると少し愛着が湧いてしまう。勿論、元の飼い主の所へ帰してやりたい気持ちは確かなのだけれど。
「……早く、迎えが来ると良いな」
「にゃ」
うちの子になるか、と言いたいのを堪えて、イチは白猫を撫でた。頬を撫でるざらりとした舌が痛くて、その痛さが心地良かった。
*****
──毛並みの美しい白猫が、月が煌々としている夜中、尾を揺らしながら歩いている。向かうは何処かの公園だ。一つ空いているベンチにひょいと飛び乗った白猫の隣に、大きな鳥が降り立った。烏の様に真っ黒で、尾羽が美しい赤色をしている鳥だ。月夜に照らされていた二匹は、次の瞬間には姿を変えていた。白猫は、同じ髪色と目をした男に。烏は、何故かイチとそっくりな姿をした男に。
「よぉ反世界。元気そうで何よりだ」
「お前の方こそ。生きてたんだな、ウロロ」
反世界と呼ばれた白猫と、ウロロと呼ばれた鳥。二人は所謂前世の記憶というものを持ったまま生まれ変わった元魔法達で、両名とも人間では無く動物として生を受けていた。それでも魔法であった事が関係しているのか、普通の動物よりも長命で、少しの時間ならこうして人間の姿で在る事も可能だった。
「猫としての暮らしはどうだ?」
「良いものだ。可愛がられているお陰で力もこうして付いて来た」
「そりゃあ何より。あーあ、面倒なのに執着されちまって、可哀想に」
「今みたいに様子を聞きに来る時点で、お前も気になってるんじゃないのか」
「あのクソ餓鬼が酷ぇ目に遭ってるのを確かめてすっきりしたいだけだよ」
はん、とウロロは笑っているが、実際はどうなのか。まぁ、もう関係の無い事だが。反世界は一人笑う。
猫として生を受けて、反世界はただずっとイチを探していた。出会いたかったから。出会って、共に同じ時を過ごしたかったから。
「お前、これからどうすんだ? 猫として暮らすのか?」
「それも良いが、そろそろ種明かしはしても良い頃合いだろうな。あれに記憶があるにしろ、無いにしろ。俺はこの身体で触れ合いたい」
「あっそ。ま、好きにしろよ」
ウロロはそう言うと姿を鳥に戻し、羽ばたいて行った。あれはあれで自由に暮らしている様だ。反世界は息を吐き、姿を猫に戻して帰路に着く。
今の反世界に、イチが心配している様な元の飼い主など居ない。早くうちの子になるか、と、尋ねてくれたら良いのに。そうすれば、反世界はすぐにでも返事をして──もう少し力が溜まれば、人の姿をとって、イチの番になるのに。
にゃあ、と、夜道にご機嫌な猫の鳴き声が響いた。
※ふんわりとした裏社会パロ
町をふらふらと歩く中で、イチは初めての店を見かけた。見た事が無い店だと思ったら、先週に新しく出来た店らしい。外に出るのは確か二週間ぶりだから、そりゃあ知らない筈だ。見るとケーキ屋だった。ごく普通の店だ。怪しい所も無い。イチは中に入って、お土産に買って帰ろうとケーキを選ぶ。彼は甘い物をあまり食べないと分かってはいるが、イチが選んで来た物なら口にしてくれるだろう。イチは自分用にショートケーキとチョコタルト、彼にビターショコラケーキを頼んで、白い箱を持って店を出た。あのケーキ屋以外に真新しい物は無いし、平和なのは良い事だ。そのまま帰ろうとしたイチの鼻が、ふと、おかしな匂いを掴む。何気なく横を見た路地裏、男達が何やら取引をしていた。イチは笑顔を作って男達の元に音も無く近寄った。人懐っこくて誰もが騙されるだろうと、彼からも評判の笑顔だ。
「なぁ」
声を掛けると、男達はびくっとしてイチを見た。手にあるのはカラフルな錠剤。見た事が無い物だ。それを指さして、イチはすらすらと嘘を吐く。
「それ、何処で買えるんだ? 流行ってるんだよな? 俺も欲しいんだけど分からなくて」
「あ? あー……何、何処で聞いたん」
「夜に遊んだ奴が教えてくれた」
「あいつか……? ったく」
舌打ちをして、けれど男は相場と効果を説明してくれた。簡単に教える辺り、売るのに慣れていないか、軽い気持ちでやっているんだろう。馬鹿だなぁと思いながら、イチは提示された値段よりも少し多く金を渡して、その薬を受け取った。
「ありがとう! 帰ってやってみる。またここに買いに来ても良いか?」
そう言って男の腕にそっと触れる。まぁ良いけど、と笑う顔をはっきり覚えながら、イチは帰路に着いた。
屋敷の裏側、イチの為にと作られた通路を通って中に入る。辿り着いたイチの部屋は広く、大きなベッドがあって、トイレと風呂が備え付けられていて。この部屋だけで暮らせる様になっていた。イチの世界はこの部屋の中と、彼が治めているあの街だけだ。
ケーキを冷蔵庫に入れて、薬を机に置く。服を脱ぎ捨てて寝巻きに着替えて、ベッドに寝転がった。ふかふかの、あたたかい布団。これに包まれる度に、自分がどれだけ幸せかを思い知るのだった。
頭を撫でられる感触で、イチは目を覚ました。一番に見える白い髪と綺麗な顔、イチを拾って、飼ってくれているひと。
「おはよう」
「あぁ」
手を伸ばして顔を引き寄せてキスをする。身体を起こしてもたれかかると腰を抱かれて、「あれは?」と机の上の薬を指差された。
「嗅いだ事無い匂いがしたから見てみたらこれを売ってる奴らが居たから。許可してないやつだよな?」
「そもそも薬はどれも許可していない」
「だよな。売ってる奴の顔も一人は覚えたぞ。後で棺に描いてもらう」
「そうか。なら一番はそいつに話を聞こう。お前のお陰でいつも助かってる」
ありがとう、と頭を撫でられて、イチは無い筈の尻尾が揺れているのを感じる。彼に褒められる事が、イチにとっての生き甲斐で、生きている理由だった。
イチは幼い頃に両親に捨てられ、不法投棄の塵で作られた山で暮らしていた。細々とただ食い繋ぐだけの日々の中で、あとどれくらいしたら自分は死んでしまうのだろうと考えながら生きていた。死にたくなかったが、どうすれば生きていけるのか、イチには分からなかった。生きる術を教えてくれる人など居なかったから。そんな中で、イチは雨の日に彼と出会った。真っ白な髪に真っ白な目をした、綺麗な男。誰かに傘をさされながら近付いて来た彼は、イチの手を引いて、車に押し込んだ。人攫いかと思った。それならそれで良いかとも思った。どうせ長くは無い命だろうから。
けれど想像していた状況とはかなり違った。イチは屋敷に連れて行かれ、風呂に入れられ、綺麗な服を着せられて、髪を梳かれた。そして、イチをここまで連れて来た彼は、イチの頭を撫でながら言った。
「お前はこれからここで暮らす」
「ここで?」
「あぁ。お前は、ここでずっと、俺に飼われるんだ」
「……ぺっと?」
「そうだ」
「分かった」
「物分かりが良いな」
「あそこにいたって、長くは無いだろうから。むしろ、拾ってくれてありがとうというか」
どうして彼が自分を拾ってくれたのかは分からない。彼が恐らくは表の、テレビでよく見る様なごく普通の人間はやらない仕事をしているのはなんとなく察していたが、それがなんだというのか。彼は、命の恩人だ。
イチはその日から首輪を与えられ、彼に飼われているペットとして、今日まで生きていた。幼い頃は部屋にいたが、大きくなるに連れて外に出ても良いと言われる様になった。犬でも猫でも散歩は必要だろう、という事だった。イチはふらりと街に出て、それから、気付いた事を知らせる様になった。大体は彼が許可していない事をやっている連中が時折いるから、顔を覚えて、部下である棺に伝えて似顔絵を描いてもらった。その彼らがどうなっているのかイチは知らないが、死んでいるなら幸運だろうなと思う。
「ご褒美をやらないといけないな」
「やった。あ、その前にケーキ食べよう。買ってきたんだ。お土産!」
「分かった」
「……手を離してくれ、取って来れない」
「もう少しだけ」
抱きしめられて、頭や首筋を撫でられる。くすぐったくて、けれどこの感触が好きだったから、イチは身を委ねていた。
*****
借金を返す為にと子供を売りに出す親なら幾人も見た。なんならその為に子供を作る者達も居た。だがその二人は、子供を逃し、その果てに自ら命を絶っていた。馬鹿な事を、と思った。子供を逃して死んだとて、その子供を追うだけだというのに。子供が見つかった時点で死んでいれば親類を追えば良い。そうして見つけた子供は、不法投棄で作られた山にいた。真っ黒な髪に赤い目、痩せ細った体。どこにでもいる、捨てられた子供。だというのに、どうしてか、目が離せなかった。脳に電流が流れた様な、そんな感覚だった。
「あれを飼う」
「……飼う、ですか?」
「あぁ」
「では、親類を当たりましょうか」
棺はいつだって物分かりの良い部下だった。雨の中で子供の元へ向かって、腕を引く。
「お前、名前はなんだ」
「……イチ」
「イチ。そうか」
か細い声で答えた子供を、車に乗せた。
それからそれなりの年月が経って、イチは健康的に、綺麗になった。位置情報の分かる首輪を付けて外に出す様になってからは、本人が意図しているかはともかく、仕事の手伝いまでしてくれる様になった。良い拾い物をしたと、過去の自分を褒めたかった。
「イチ」
名前を呼ぶと、見えない筈なのに尻尾を揺らす姿が見えた。猫の様だとも思うし、犬の様だとも思う。これから先も可愛がらなければと、イチの頭を撫でた。
※人間×天使パロ
「俺の名前はイチだ! お前の恋を叶えに来た!」
とある晴れの日に、太陽よりも眩しい笑顔でそう言いながら、その天使は舞い降りて来た。光を反射して輝く黒い髪、此方を射抜く真っ赤な瞳。そして背中から生えている白い羽根。思った事は、死の間際で無くても天使は見えるんだな、だった。
イチと名乗った天使は、今は見習いであって、己の恋を叶える事が最終試験なのだという。勿論天使には様々な役割が与えられているけれど、イチに与えられた役目は恋愛成就、というよりかは、人と人同士を縁付かせる役目なのだそうだ。どうして自分が選ばれたのかと尋ねると、「お前は人との縁が希薄だからな」との事だった。そういう人間に友人、もしくは恋人を作り、強い縁を結ばせる事を最終試験にしているのだそうだ。希薄という言葉に、身に覚えは確かにあった。物心付いた時から人よりは優秀で、どうやら見目も良いものらしく。かといってそれを自慢に思う事も無く、寧ろ寄ってくる周りの人間は鬱陶しく思うだけで。友人や恋人などは、正直必要無いと思っていたし、居なくとも生きていけると考えていた。その事を伝えると、イチはむうと不満そうに眉を寄せた。
「そんな事は無いぞ。人間も天使も、助け合って生きていくものだ。勿論一人でも生きて行けるが……そうでは無いと、俺はもう学んだ。教わったから。お前にも知って欲しいんだ」
己の知らない事が、天界だか空の上だかでイチにもあったのだろう。それが酷く腹立たしかった。腹立たしいなんて思う事も、久しぶりだった。
イチは色々な人間と知り合わせようとして来た。あの人間はお前に気があるとか、あの人間は心根の優しい人間だとか。そんな事を散々言われたがどれも聞き流して、イチと共に過ごすだけの日々を過ごしていた。食わずとも問題は無いらしいが同じ物を与えたし、周りの人間からは姿は見えないらしいが共に出掛けたりもした。今まで生きて来た中で、心の底から楽しいと思えた。俺とばかり過ごしていないで他の人間に興味を持てと言われてしまったが、それは無理な相談だった。
何せ自分が恋をしたのは目の前の天使だから。
あの瞬間が、鮮烈な一目惚れだったのだから。
だがイチが己の事を何とも思っていない事は知っていた。最終試験の為に選んだ人間で、イチを選べる事など無くて、他の人間と結ばれなければならなくて。このまま現状維持を続けていれば、イチは側に居てくれるだろうが。それでは嫌だった。恋をしたと、愛していると自覚をしたその次は、イチに触れたかった。けれどこの指はどうしても、イチの指をすり抜けてしまう。人間であるが故に、天使であるイチには触れられないのだ。その事に気が付いて、それなら、同じ存在になれば良いのだという結論に至るまで、時間は掛からなかった。要するに、人間で無くなれば良い。
「人間の死に際に、天使は迎えに来るのか?」
「それが仕事の奴らも居るからなぁ。俺は違うが」
「そうか」
残念だが、そもそも自分のせいでイチは一人前になれないのだから仕方なかった。その事は申し訳なかったが、今更この選択肢を変える事も出来なかったから。ある日の真昼間に、下にあまり人の通り掛からないビルを選んで、そこに登った。屋上の空気は心地良く、何の躊躇いも無く柵を乗り越えて、最後にイチを振り向いて、笑って、とんと地を蹴った。ふわりと背中から落ちて行って、衝撃に備えて目を閉じようとして。
視界に広がる白い羽根と。
顔を歪めて、必死に手を伸ばす、イチの姿を見た。
*****
ようやく触れる事ができた羽根は、思っていたよりも軽く、ふわふわとしていた。
「楽しいか?」
「あぁ」
「お前がそんなに楽しそうなの初めて見たな」
イチがそう言って苦笑する。あの日、己が飛び降りた日から、既に一ヶ月が経っていた。具体的な事は何も覚えていないが、どうやらイチに助けられ、一命は取り留めたらしい。そして自分が見たのは、片方の羽根を失ったイチの姿だった。本来なら両方を失うんだけどな、と頬を掻きながら言っていた。そして、その影響なのか、イチに触れられる様になっていた。人間と変わらない体温に少し驚いた事を覚えている。
だからといって、イチの目的は何も変わっていなかった。自分と誰かを縁付かせて、それが終われば一人前の天使として帰ってしまうのだろう。だって自分は知っている。病室で見た、聞いてしまった。緑の髪をした少女の姿をした天使と、イチが話しているのを。
「デスカラス様から伝言です。
本来ならば人間の死を覆す様な事は許されません。ですがそもそも、彼はあの日に死ぬ運命では無かった。……イチくんが、助ける運命だったんじゃないかなって、私は思ってる。本来なら全部没収される筈の片方の羽根がまだ残ってるのは、きっとそれが理由。
まだ機会は残ってる。イチくんが戻って来るの、私達、皆待ってるよ」
それに対して、イチは頷いていた。目的は変わっていない。その事に気が付いて──だからこそ、気持ちが固まった。決意が出来た。イチにこれが効くかは不明だが。
「イチ」
「ん? お、ありがとう」
自分が淹れたものを飲むのが、イチはどうやら好きな様だった。コーヒーは思い切り眉を顰めていたが、紅茶やミルクティー、ココアなどは好んでいたから。今日はココアを淹れた。受け取ったイチが飲むのを見てから自分も口にする。甘いものはあまり好きでは無かったけれど、イチが眠りに落ちたのを見て、世界で一番美味しいココアだと思った。
イチの身体を横抱きにする。空気の入った風船くらいの重さしか無くて、だから空を飛べるのだなと思った。見た目はどう見ても自分と同じくらいに見える青年なのに、人間では無いのだと分かる。そっとベッドに横向きに寝かせて、羽根の付け根に麻酔を打つ。睡眠薬が効いたのだからこれも効いてくれるだろう。痛い思いをさせたい訳では無いのだ。
ピンセットを使って、一枚ずつ、羽根を抜いていく。起きる様子は無い。これを全て抜いたら、付け根から切り落として、それから念の為に足の腱も切って。そうして、イチにはずっとここで暮らしてもらう。そうしようと、決めていた。
「これで、俺の恋は成就するのだから、一人前にはきっとなれる」
頭を撫でながら呟く。上には戻れなくなってしまうのは申し訳なかったが、自分が恋をしたのはイチなのだから仕方ない。今自分は、今までの人生の中で一番、幸せだった。
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