テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
『慎一郎くんって明日時間ある?』
電話口での突然の問いだった。
生徒の指導をする間の小休憩中にポケットに入れていたスマホが振動した。着信相手として表示されている夜鷹の名前を確認した慎一郎は、人がいない廊下に移動してその電話をとった。
形式的な挨拶やコミュニケーションをとることなく開口一番にそう問われ、よくわからないまま事務所のカレンダーを脳裏に思い浮かべる。
「明日?明日は残念だけどスケートリンクは借りれない日で……」
『夜じゃなくて日中。ちょっと買い物に付き合って欲しくて』
「買い物……かい?」
『光が僕のセンスだけで選ばない方が絶対にいいって言うから』
「それはスケート用品とかかな?」
『だったら別に慎一郎くんを誘ったりしないよ』
着信相手である夜鷹純は、人生で一度の敗北もなく惜しまれながら二十歳で現役を引退した天才だ。
フィギュアスケートという競技は選手として第一線で活躍できる時間が他のスポーツと比べても短い。現役選手たちの大半が大学卒業の年で自身の能力の限界を知りスケートを辞めてしまう。
しかし、夜鷹にはその理由は当てはまらなかった。齢二十八歳にてオリンピックの大舞台にて結果を残し根性の銀メダリストと称された慎一郎からみても、夜鷹純のスケーティングは普通ではなかった。夜鷹の実力は今なお衰えを知らず、むしろ現役時代よりもそのスケートは洗練されている。すぐにだって現役選手として氷上に舞い戻ることを進められるレベルでだ。
けれどそれは今なお薄氷の上で動けないでいる男の背に石を投げる行為だ。才能の代償のように世界とうまく繋がれない、スケートに愛された夜鷹がこれ以上世界を嫌わずに済むように守ると決めたのは他でもない慎一郎自身だ。鷹が羽を休める止まり木になれるかもわからないが、それでも飛び疲れた鳥が突然地面に叩きつけられる可能性が少しでも減るようにと祈らずにはいられない。
信頼――いや、信用はしてくれているのだろう。でなければ流石の夜鷹も教え子である光を預けたりはしなかったはずだ。多分。きっと。そうあってほしい。
同じ日の丸を背負い戦った戦友の一人であるが、スケートに関係のない誘いを受けたのは初めてのことだった。それが夜鷹が最も苦手とする普通に馴染むための確かな一歩に思えて、慎一郎の目尻の皺は深くなる。
「午後からでもよければ大丈夫だよ。珍しいね、物欲のない純くんが買い物なんて。そんなに欲しいものがあったの?」
『別に僕が欲しいわけじゃないよ。でも世間的に恋人の誕生日にはプレゼントを送るものなんでしょ。贈り物なんて何がいいのか僕にはよくわからないから、慎一郎くんなら詳しいだろうと思って』
「そうですね、私も妻の誕生日には贈り物を―――」
「……今なんて?」
『だから、慎一郎君にプレゼントを選んでもらおうかと思って』
「あくまでできるのは君が選ぶサポートであって私が決めるわけではないという訂正も必要だけど、その前」
『その前?』
「今、誰への贈り物って?」
突如爆弾を投下した犯人は、悪気など欠片もなく動揺する慎一郎を無感情に答える。
『あぁ、恋人だね』
慎一郎くんに言ってなかったっけ。
嘘をつくという人間的コミュニケーション手段を取らずに生きてきた男の発言は、まさに青天の霹靂。スケートリンクの底が突然抜けたような衝撃に言葉がなかった慎一郎を一切気にかけることなく『じゃあ明日』と夜鷹は通話を切った。
慎一郎が正気を取り戻した時には待ち合わせ場所も時間も行き先も何もわからない約束だけが残されていたため、慎一郎は慌てて折り返しの電話をかけることになった。
「おはよう、純くん」
「おはよう」
「待たせちゃったかな」
「別に今来たところだから。行こうか」
思い返してみればスマホを携帯するどころか定期的に破壊する夜鷹と連絡がつくのは珍しい。今考えれば以前よりも連絡が取れやすい気がする。もしかしたらそれも例のお相手のおかげだったのだろうか。
ナパーム弾を落とされたようにその衝撃は尾を引いていたが、一晩経ってようやく慎一郎の心にも余裕が戻った。
珍しく待ち合わせ場所である名古屋駅に先に来ていた夜鷹に駆け寄り、そのまま行き先を告げずに歩き出した夜鷹の後を追う。行動についての説明はないのはいつものことだ。
駅からすぐ近くのとある百貨店に入っていく。あまりに歩みに迷いがない。案内看板に目をくれることもなくエスカレーターに乗った黒一色の背中に声をかける。
「もしかして相手に何を渡すのか、候補は決まっているのかな」
「給料三ヶ月分の指輪」
「―――え?」
「それがプレゼントの定番だって聞いたけど」
「えっと、それは一般的には誕生日ではなく結婚を申し込む際の話だね。差し支えなければ、お相手とお付き合いを初めてどのくらいなのか聞いてもいいかな」
「多分二ヶ月ぐらい?」
早い、早すぎる。そして重すぎる。
指輪だけならまだなんとかなった。雑貨屋で取り扱うようなペアの指輪程度であれば学生同士でも送り合うことがあると生徒から聞いたことがある。
けれどこの買い物は根本から違う。有名ブランドが立ち並ぶこのショッピングモール内で買い物するつもりなのだからきっとそんな可愛らしい結果には絶対にならない。
それも夜鷹純の給料三ヶ月分だ。怖すぎる。さらに深く話を聞けば相手が指輪を望んだわけでもないらしい。
「それだと少し指輪は早すぎるんじゃ……相手が逆に負担に思ってしまうよ。プレゼントを送る場合、あまり高すぎるものを送ると次に向こうが返すときのハードルが上がってしまうから相手が負担に思わないレベルがいいそうだよ」
「光が同じクラブの女子に借りた漫画に描いてあったって言ってたけど」
なるほど。夢と希望と非現実への憧れが詰まったバイブルが引用元か。
「それはプロポーズの話だろうし、誕生日に指輪を送ることがないとはいえないけど純くんの給料三ヶ月分となると一般の方では確実にお返しに悩んでしまうよ」
「別に同じものを返せなんて言わないけど」
「付き合っている相手からでも高価な贈り物を贈られると普通の人は気を遣ってしまうものだよ。お相手がそういった意味での対等を望まない方であればいいかもしれないけど……」
慎一郎は夜鷹の恋人に想いを馳せるが、ブラックボックスのような箱が脳内に出てきて終わった。全くイメージができない。だってあの夜鷹純の恋人だ。簡単に想像できるものがいるだろうか。芸能人やモデルなど彼の横に立っても見劣りしないだろう業界人を思うが、夜鷹が容姿を理由に相手を選ぶとは考えにくい。選手時代にアプローチをかけていたアナウンサーや選手等も知ってはいるが、夜鷹はいつも残酷なまでに平等に誰に対しても無感情で浮ついた話など一切聞かなかった。スキャンダルとは無縁であり、無機質な氷の冷たさだけを愛していた。
だがどうだ。一夜限りの関係ならいざ知らず、夜鷹本人が恋人という肩書を認めている。分厚い氷のような拒絶を溶かしたその恋人が容姿だけで選ぶわけがない。美醜よりも間違いなくスケートの技術を優先させる男なのだから。
夜鷹は慎一郎の言葉で相手のことを思い浮かべたようで、少し間を空けて「指輪以外にする」と言った。
ほっと胸を撫で下ろす。一応財産狙いとかではなさそうだ。
「じゃあ定番な贈りものって何?」
「財布やバッグなどの身の回り品、アクセサリーなどの装飾品も人気が高いかな。花などを贈る方もいるし、私も妻に送ったことがあるけれど喜んでもらえたよ。誕生日祝いであればお相手の誕生石などで意味を持たせるのもいいかもしれないね。お相手の誕生日はいつなの?」
「来月の4日だったはず」
「9月生まれなら多分乙女座だ。誕生日石は……あぁ、これだ。サファイアだって」
「ふぅん」
検索したスマホの画面を見せるが反応は芳しくない。
「物以外の場合も多いよ。例えば歌や、思い出を形にしたアルバムとか。息子たちからもらった似顔絵は今でも私の宝物なんだ」
大切な息子たちがクレヨンで描いてくれた似顔絵を上手いと絶賛すれば親馬鹿と言われるかもしれないが、特徴を見事に捉えており色使いもセンスに溢れていた。将来はスケート選手ではなく画伯だって目指せるだろうし、どんな道を選んでも父親として全力で応援するつもりでいる。
話はそれたが、自分のために息子たちが時間をかけて自分を思い描いてくれた。それだけで世界中のどんな名画にも勝る価値がある。
当時の嬉しさを思い出しながらそれを伝えると、ふと隣から足音がしなくなっていることに気づく。
「―――純くん?」
少し後方で足を止めていた夜鷹は、声かけに応じることなく横を向いていた。その視線の先を追えば明らかに洗練されているシックなデザインのショップが一件。
そのまま吸い寄せられるように店の中に消えていく後ろ姿を慌てて追いかける。店内のショーケースに並べられていたのは、
「時計……ですか」
洗練されたデザインと、計算され尽くされたディスプレイ。値段を見ずともそれが高価であることが店構えを見ただけでわかる。
まさか。勢いよく夜鷹の方に振り向いた慎一郎の不安をよそに、夜鷹は店構えに相応しいスーツの定員に声をかけた。
「ここの中で一番高い時計ってどれ」
そういう買い方ではない。気持ちが大事だと伝えたかったのに、なぜ札束で殴りつける方法になる。
「ここならちょうどいいでしょ」
ちょうどいいの感覚が明らかにおかしい。確かに夜鷹が選手時代にスポンサーを務めていた企業の一社である某時計ブランドは世界的にも有名なものだった。この店に並べられているものも高いが、それを遥かに上回る金額をしており物によって桁が一つは違うだろう。
夜鷹が身につけている時計や給料三ヶ月分の指輪と比べれば確かに安くはなっている。なってはいるが、普通の金銭感覚の人間からしたらここにある時計が「高い」の一言で括られるものであることに変わりはない。
どう諌めようか考えている間にも、店員の紹介は続く。高価には理由がある。値段の裏付けたるこの小さな時計に込められた素晴らしい技術の数々と、考え尽くされた無駄のないデザインへの説明が続けられた。
求めた側でありながら一切返答することなくただ時計を眺めていた夜鷹がこつんと人差し指でテーブルを鳴らした。
「これは?」
「こちらは宇宙をモチーフにした一品になっており、ダイヤルのこの部分が太陽の輝きをイメージしております。リングソーラーであり色にも拘りをもって作らせていただきました。もしよろしければご試着も可能ですのでいかがでしょうか」
メンズ物の、深いと表現するのが相応しいだろう鰐皮の赤いベルトの美しい機械式の時計。
手に取ることもなくガラスケース越しのそれを見つめる夜鷹の目が細まった。
「これで。あぁ、後その横の……そう、その黒の。今の赤いやつと同じシリーズだよね。それも一つ。そっちは付けて帰るから。箱も説明書もいらないから中身だけちょうだい」
値段もろくに見ることなかった。先ほどの赤いものとデザインのよく似た時計を受け取り、左手に巻いた頃はカードでの支払いは完了していた。その間僅か三分。購入したうちの紅色の時計は、店員が拒絶された箱の代わりにと気遣いで包んだ袋も捨てられそのままポケットに突っ込まれた。
「ありがとう」
短く言葉を交わし、メンズ用の時計を二つ購入した夜鷹はそのまま店の入り口へと歩き出す。
「帰ろう、慎一郎くん」
「え?お相手さんへのプレゼントはまだじゃ……」
「もう決まった」
「そう、ですか……?」
「それよりも慎一郎くんに一つお願いがあるんだけど、いい?」
そのお願いに確認してから折り返しをすると返答すると、「今日はありがとう」と抑揚のない声でお礼を告げられた。本当にそのあとはどこの店にも寄ることもなく、そのまま解散となった。
その日の購入品は夜鷹には珍しい色味のある時計と、よく似た夜の星空を閉じ込めデザインの時計だけだった。
先に否定しておくが、慎一郎は誰彼構わずにこの話をふっているわけではない。普段彼のスケーティングと同じで忍耐深くその口は貝のように閉ざされている。
けれど最近秘密を共有するようになった彼になら話しても問題ないと思ったのだ。息子を救ってくれた優しさと底知れないほどの善性。明浦路司という人物は信じるに値するとわかったからこそ慎一郎は今まで夜鷹と二人だけの不可侵であったスケートリンクに誘ったのだ。
司自身は当初夜鷹に嫌われていると気にしていたようだが、それはない。本当に嫌な時は夜鷹は視界にも入れず話すこともなければ、あんなふうに笑ったりは絶対しない。夜のリンクの秘密を知ってなお、挑むことを選んだ司を夜鷹が気に入っているのは明らかだった。
運良く周囲に人もいない。だからこそ慎一郎は司ならこの喜びを共有してくれると思い、世間話の中に秘密を一つまみ混ぜたのだ。
「実はこの間、純くんと恋人の誕生日プレゼントを買いに行ったんです」
あの夜鷹純が人を愛するようになったのだと、その素晴らしい事実を共有したかっただけだった―――のだが。
司はその顔色を青くし、まるで見てはいけないものを見たかのように視線を彷徨わせ、視線を逸らしたまま難産のように言葉を吐き出した。
「……浮気、はよくないと思います」
「え?」
「結局は家庭の問題ですしそれに口を挟むことは不躾だとわかっていますが、今は昔と違って不倫も立派に社会的信用を失う行為です。それになにより鴗鳥先生を大切に思う生徒たちの心に傷を残すことになると思います」
「ま、待ってください!一体なんの話でしょうか?」
「だから、鴗鳥先生が恋人のプレゼントを夜鷹純と買いに行ったというお話ですよね……?」
どうしてそうなった。
いや、慎一郎だってあの夜鷹純に恋人がと驚いたが。司の脳内では夜鷹と恋人という言葉をかけらも結びつかずその相手が現実味のある方にすり替えられていた。
その結果妻子を持つ身で別の女性に現を抜かしていることを誇らしげに語るような男という冤罪が生まれようとしている。
「私ではなく、純くんの恋人への贈り物です。純くんにそのような相手ができたのが嬉しくて、つい話し相手に選んでしまいました。明浦路先生は秘密ごとを他言するような方ではないと知っているので」
「恋人、ですか。あの夜鷹純と上手く生活していける人類がいるんですね……世界って広い……」
「私もお相手は知らないのですが、あの純くんが相手のために誕生日プレゼントを選ぼうとしていた姿がとても嬉しくてですね」
「あの夜鷹純が……誕生日を祝う……?」
―――しまった。前に生徒から教えられた宇宙猫状態というやつだ。
散々な言われようである。尊敬するスケート選手に向ける言葉ではないかもしれないが、夜鷹純という人間を知っている者ではあれば誰もが思うことだ。実際慎一郎もそう思った。
なんとか戻ってきてもらおうと、話の線路を切り替える。
「明浦路先生ならお相手への贈り物は何を送りますか?」
「贈り物ですか。お恥ずかしい限りですが俺は金銭的に余裕があるわけではないので、そう高いものをあげられるわけじゃなくて。金額というよりも、生まれてきてくれて、それを祝わせてくれる相手へのいっぱいの感謝とおめでとうをたくさん伝えられる何かを一緒に考えたいです。……すこし、子供っぽいかもしれませんが」
「いえ。とても素敵だと思います」
喜んでくれる確信はないですけど、俺にできること全てでお祝いしたいです。
少し恥ずかしそうに笑う、その真っ直ぐで綺麗な心が、凍り初めていた息子の心を溶かしてくれたのだろう。本当に明浦路先生と、明浦路先生をつけてくださった高峰瞳先生には感謝しかない。
そうだ、こちらも理凰のことで大変お世話になったのだから誕生日に何か贈り物をするべきではないだろうか。
そんな純粋な気持ちからの質問であった。
「ちなみに明浦路先生の誕生日はいつなのですか?」
「9月4日です。絶対に夏生まれだろって皆に言われるんでが、暦としては秋生まれなんです。今年の9月もまだまだ残暑が続きそうで、また誰も俺が夏生まれじゃないって信じてくれなさそうですけど」
「そうですか、9月―――」
「4日?」
「?はい」
あのスケートリンクでの夜鷹の笑い声が海馬ではなく鼓膜で蘇る。
「そうですか、そうでしたか………」
「鴗鳥先生?」
「ありがとうございます、明浦路先生」
深く、深く、腰を曲げて慎一郎は謝意を示す。
「ですから!理凰さんについての礼はもうお腹がタプタプになるまでいただきましたのでもう十分ですっ」
「息子のことだけではありません。私がただ、明浦路先生にお礼を言いたいんです。明浦路先生がスケートをやっていてくれて良かった。本当に、ありがとうございます」
「ッいえ、ほんとうに、そんな、鴗鳥先生に頭を下げていただく必要はもう本当になくてですね!?」
あの夜鷹純が惜しむほどの才能を持ちながら、選手時代に陽の目を見なかった不遇の天才。遅すぎる始まりに苦悩しただろうことは容易に想像がつく。
それでも、だからこそ、慎一郎は感謝する。現実を嘆きながらもスケートを諦めなかった、そんな彼だからこそ他者に寄り添い照らすことができるのだろう。全てを漆黒に飲み込み影を消すようなやり方ではなく、その存在を照らし出し光の方を示せる彼が他でもないスケートを選んでくれたことへの礼。
そして憧れと出会い、一人の人間として彼を見てくれていることへの礼も込めた万謝であった。
その日の夜、自宅に戻った慎一郎はリビングのソファーに腰掛けていた。理凰や光たちは自室で眠っている時間帯で、妻も席を外している。念のため周囲に人がないことを確認し慎一郎はスマホを操作した。
着信音が鳴ってそう時間はかからず、
『―――はい』
「夜遅くにごめんね、純くん。少し確認したいことがあるんだけど、今話をしてもいい?」
『なに?』
「純くんのお付き合いしているお相手についてなんだけど……」
『司がどうかしたの?』
あぁ、やはり。確証があったから、驚きはない。むしろその答えはすとんと己の中に落ちてきた。
「この間のお願いの件だけど、無事に予約できたよ」
『そう、ありがとう』
「それよりも明浦路先生と誕生日に会う約束はもうしたの?」
『……してないね』
それがどうしたと言わんばかりの態度である。これは一体、どうしたらいいだろうか。根本的からすれ違っているであろう認識の齟齬の修正の仕方がわからない。わからないが、このまま放置したら捻れて宇宙にすら飛び立ちかねない。
「突然言われてしまっても相手も予定が入ってしまっていることもあるだろうし、事前に確認しておいた方がいいんじゃないかな。もし都合がつかない時は連絡をくれればこっちも合わせて調整するから」
『わかった。あの子に伝えておくよ』
短い返答ののち、電話が切れた。
……本当に大丈夫だろうか。一抹の不安が頭をよぎる。
仲良くないと言い切った明浦路の満面の笑みを思い出し、痛む胃をおさえるのだった。
9月4日。数日前から事務室のカレンダーに赤丸で囲まれたその日付にスタッフの誰もが首を傾げた。その日はただの平日で特に何も予定はなかったはずだ。何かあったかと周囲に問えば誰にも心当たりはなく、何よりそれを記載した慎一郎自身が「忘れないようにと思いまして」としか言わなかった。
迎えた当日、生徒が皆帰路につき人気がなくなったリンクの事務室に一人の男が顔を覗かせた。慎一郎が事務員から案内を引き継げば、来訪者である司はひどく肩身が狭そうに頭を下げている。
「すみません、突然来てしまって」
「ちょうどひと段落したところでしたので気にしないでください。生徒さん達も皆帰られた後ですし」
「その、夜鷹さんからこちらに来るようにと連絡がありまして、嘘かと思うかも知れないですけど本当で、その、俺をここに呼んだのは鴗鳥先生でしょうか……?」
「いえ、私ではありません。」
「えっ、じゃあなんで俺は呼ばれたんですかね……?」
本当に意味がわからないとばかりに首を傾げる姿に、悪い予感が的中していたことを慎一郎は察した。サプライズなんて理由では絶対にない。間違いなく夜鷹は何も説明せずに、日時と時間だけの短い文を送りつけたのだろう。
司の対応をしていた事務員から案内を引き継ぎ、彼をスケートリンクに案内する。少し不安げに少し後ろを歩く司は、何か覚悟を決めた様子で前を歩く英雄の背中に声をかける。
「鴗鳥先生はどうしてここに俺が呼ばれたのか知ってらっしゃるんですか?」
「いえ、私はリンクを開けてほしいと頼まれただけなので詳しいことは本人に直接聞いていただけますでしょうか。純くんはもうリンクにいますから」
「そう、ですか…」
この先がリンクです、と告げた足が止まる。思わずその背中を抜かしてしまった司が振り返る。
「すみません、私はまだ事務作業が残っているので戻ります」
「えっ!?」
「お話が終わった後はそのまま先に上がってしまってください。戸締り等は私が後でやっておきますからお気になさらず。純くんなら勝手を知っていると思うので、何か不安なことやわからないことがあれば彼に聞いてください」
「あの夜鷹純と二人きり!?」
まるで獣の檻に身一つでも放り込まれるかのような顔だ。
「明浦路先生」
「はい?」
「お誕生日、おめでとうございます」
一番最初の祝いはきっと、彼を慕う結束選手達からすでにされているだろう。尊敬を語る息子も祝いの言葉を送ったはずだ。人から愛される彼を周りが放っておくはずがない。それがわかっているから、慎一郎は先にその言葉を口にした。今を逃せば当日に言える機会はなく、また最後のお祝いを言うべきは自分ではない。祝いたい気持ちは同じでも、その重さが違う。1日の最後の思い出を締めるのはこの先にいる人物であるべきだ。
目をぱちくりとさせて、なぜ己の誕生日を知っているのかと首を傾げた司はすぐに以前の会話を思い出したようで、「ありがとうございます」と笑った。
鴗鳥先生も一緒だと思っていたのに。たった一人残された司は覚悟を決めて一人示された道の先を歩く。
たどり着いた冷たさを感じさせる氷のリンクの上にその男は立っていた。氷の王の凱旋だ。氷の削れる音が奏でるファンファーレ。どうしようもなく憧れた。焦がれ、切望し、彼を知ったことで人生の全てが変わった。その暴力的な美しさに司の日常は破壊された。
ブレードのついた不安定なはずの靴こそが自身の足であるかのように滑る男は司の訪れに気付いたようだ。名を呼ぶより先に口を開いたのは向こうだった。
「やっときた」
「やっとって、言われた時間より少し早いぐらいなんですが……」
こちらへの返答はない。そのままリンクの端に立つ司に向かって滑ってきた夜鷹に向かって、自分を奮い立たせるように無意識に拳を握りその瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
逸らすことなく、逃げることなく、怖がることなく。
司の中にある畏怖も尊敬も、弱さに変えてはいけない。司一人だけなら構わないが、司の負けがいのりの敗北に繋がる可能性が1ミリでもあるのなら退くことは許されない。それを自分に許さないことが司に示せる誠意であり覚悟だ。
「俺を呼んだ理由を教えてもらえますか」
「慎一郎くんは言わなかったんだ。てっきりここに来るまでに聞いてるかと思ってたよ」
「貴方から聞いてほしいそうです」
そう、と感情をさせない返答をした夜鷹は声色ひとつ変えることなく答えを知っている質問を投げかける。
「今日誕生日でしょ、キミ」
「えっ……あぁ、そう、ですね……?」
「おめでとう。で、何が欲しい?」
「欲しい……?」
「これでも僕、スポンサーとかたくさんついていたから金には困ってないんだ」
「?知ってます、けど」
夜鷹は知らないかも知れないが、司は所謂ガチファンだ。当時は夜鷹のスポンサーは皆大企業ばかりでコラボの商品やCMが街頭のテレビに流れるたびに足を止めたものだ。普段は金銭的な理由で買わないコンビニ限定のコラボ商品が貰えるという缶コーヒーを買ったこともある。とあるオーディオ機器業者とコラボした際のたった30秒もないその演技は今でも目を瞑った状態で踊れる。無敗である夜鷹純のスケートへの社会からの期待値は数え切れないほどの企業スポンサーという形でも現れていた。
「誕生日なんだから君が欲しい物をなんでもあげるよ」
「え、別に欲しいものとかは……ハーネスもバイト代で無事に買えましたし……」
「あの子供のためじゃなく、君自身が欲しい物にして。僕は君を通してあの子供に尽くす気はないよ」
「よく意味はわからないんですが……俺個人なら特に何もいりません。特に欲しいものも思い当たらないので」
「本当に君は無欲だね」
本当の願いはいつだって、誰かに叶えてもらうことなどできない。スケートをすることが許される環境が、夢を追い続けることが許される権利が、憧れた金色のメダルに繋がるもの全てが欲しかった。スケートを続けるために、世界の許しという免罪符を手にするために足掻いた人生だった。けれど今はその願いを足掛かりに四回転ジャンプを飛ぶ少女がいる。いのりのスケートのために全てを捧げることに躊躇いはない。だから司だけの願いはもうない。夢は、いのりと二人で叶えるものだ。
陰りのない瞳で言い切る司の言葉に夜鷹の口角が僅かに上がる。人の欲望にはキリがない。夜鷹はそれを身をもって知っている。司という男はきっと望みがないわけではなく、他者に頼ることが苦手なのだろう。いや、苦手になった――が正しい可能性もある。確かに心の奥にあったはずの傲慢さとエゴイズムは夜鷹がみたあの転倒したリフトの瞬間に砕けてしまったのかもしれない。
夜鷹は願った。そして願われた。
願いのままに星を掴み、引き摺り下ろした金色の一等星を生涯手放すことはなかった。栄華は終わり、手の内に残ったのは星が形を変えた氷の呪いだけ。
夜鷹から見た司は、願い方も、呪い方も知らない男だった。誰かのためにしか祈れなくなったその生き方で、それでも夜鷹よりもずっと幸せそうに生きられるのだろう。
手折られ踏まえ、砕かれ続けた彼の願い。
その欠片はきっとスケートリンクに散らばってて、
(―――そしてきっと、それは僕の形をしている)
「誕生日って特別なんでしょ。欲しいものがないなら僕が勝手にあげるから」
スマホを操作して、司に有無を言わさず押し付ける。そして夜鷹自身はたった数回のストロークでスケートリンクの中央に至った。
「これから君のためだけに滑るから、見てて」
「え!?いや、一体どういう……」
君のタイミングでその携帯の画面を押せと伝えれば、まるで迷子のようにスマホと夜鷹の間を不安気な視線が行き来する。
よく見てて。
「キミのためだけの、世界に一つしかないプログラムだ」
スケート選手に言葉はいらない。
良くも悪くもフィギュアスケーターという生き物はその滑りでしか己を表現できないものたちの集まりだ。技術と結果以外に価値はない。こと夜鷹に至ってはその極地だ。リンクの中央で、世界の始まりを夜鷹は待った。
躊躇うような指先が、画面に触れたその瞬間。
明浦路の手元から流れ出した音楽が、世界に息吹を吹き込んだ。
誰かのために滑ったことはない。
誰かを理由に滑ったこともない。
誰かに頼らずとも、輝く星に手を伸ばす方法を知っていた。周りから誰が去っても、誰を切り捨てても、夜鷹純のスケートはなにも変わらない。
多くを奪い、生み出し、壊してきた。
壊した果てにあったのは、氷の上でしか生きられないこの身体一つだけ。
祈り方も、願い方も僕は知らない。
愛され方も、正しい愛し方も僕は知らない。
全てを犠牲に捧げた果てに残ったのはスケートだけだった。それ以外に己の価値などない。それでいいと思っていた矢先、スケート靴を履いて突然現れた小さな明かり。マッチ程度の小さな明かり程度でしかないはずのそれが、やけに目についた。
僕と同じ、氷を渇望している男。氷を愛して、氷に見離された。僕と同じで、僕とは正反対の照る生き物。
僕のスケートを、愛した男。
僕のスケートを、模倣した男。
僕のスケートに、挑む男。
僕のスケートを好きだというのなら、あげるよ。
誰かのための滑り方なんてわからない。僕は僕以外の何かになれなかった。ただ強くあることしかできなかった。
だから今この瞬間の、僕のスケートを君にあげる。
君のためではなく、僕が君にあげると決めた傲慢なこのプログラムを。
夜鷹はただ、流れる音楽と共に氷の上を滑り始めた。
言葉が出なかった。
己の憧れを、人生を変えた存在が目の前にいる。平凡で普通で、友達と笑い合って、それなりの会社に就職するような、戦いとは縁遠い波風の立たないそんな未来をゴミ箱に捨てさせた圧倒的で破壊的な神様の如きスケーティング。
比喩ではなく目の前の男のスケートに人生を壊されて、司の今がある。
初めての邂逅で憧れの人物に自分のスケートが覚えられていたことを知った。それだけで泣きそうだった。夜鷹純のようになりたくて、足掻いた。彼が示したスケートの凄さに圧倒され、スケートに魅入られた。遅すぎる始まりと高すぎる壁を前に誰もが善意で別の方向を指差した。優しさに潰されかけて、それでも諦めきれなかった。その美しさには自分の人生全てを投げ打つ価値があった。
自分もあんな生き物になりたかった。氷の上だけで息をして、氷と共に果てることを許される、フィギュアスケーターという生き物でありたかった。
ただがむしゃらに足掻き、夢の形を変えでも、死に物狂いにスケートにしがみついてきた人生だった。
その全ての原点には、今目の前で滑っている男がいた。
着地の際に沈むことのない、重力に愛された四回転ジャンプ。
減点の余地なく描かれる美しい氷の上の図形たち。
約束されたレベル4のステップシークエンス。
圧倒的で、絶対的で、破壊的で、神々しさすら感じさせる、スケーティングがそこにある。
夜鷹純に憧れた。
夜鷹純になりたかった。だから小さな雑誌の記事も、彼のプログラムは全てビデオが擦り切れるほど見た。歴代のコーチだって全部諳んじれる。指導者のいなかった六年間、教材であり道標は夜鷹純のスケートだけだった。だからわかる。夜鷹純がこのプログラムを滑ったことはない。
俺だけのための、プログラム。
確かにそう言っていた。夜鷹が滑るのは、誰もが聞いたことのある夏を名付けられた曲。誰もが晴天の青空の美しさを、夏の煌めきと尊さと、僅かばかりの哀愁を思い出さずにはいられない。
おしてはかえす、波のようなメロディと山林の緑と空の青が混じり合う。冷たい氷の世界に、夏が描き出される。
(前に鴗鳥先生にも言ったけど俺は夏生まれじゃなくて、暦的には秋生まれなんですよ)
頭の中に浮かぶ言葉たちは何一つ言葉にはならない。瞬きをすることすらできない。きらきらと、氷を纏った夏が瞬く。
こんな物を独り占めしていいのだろうか。こんな幸せを俺が貰うことが許されていいのだろうか。
熱くなる目頭。勝手に流れるそれを拭うことはしなかった。そんなことをしている場合じゃない。勿体無くてそんなことできない。一瞬でも目を瞑ったら一生後悔するだろう。
あぁ、スケートが好きだ。
こんなに美しいスケートが好きだ。
夜鷹純のスケートが大好きだ。
言葉にすらできないほどに美しい。
こんなに綺麗なもの、愛さずにはいられるものか。
音が止み、スケートが止まる。二人だけのスケートリンクに拍手の雨は降り注がない。
はらはらと流れ続ける涙に言及することはなく、当然のように一度のミスもなく完走した夜鷹は司の前に立った。
「司」
こっちを見ろと含んだ声。司は滲む視界で前を見る。特大級の爆弾を起こし突然のテロ行為を仕掛けてきた男は司の涙を拭うことはない。司の涙の本当の意味を知ることもないだろう。
「これは君のものだから好きにしていいよ。誰かにあげても、君が滑っても、手を加えても構わない。どうするかは君が決めて」
「おれの、もの」
「最初は光が言っていた指輪にしようかとも思ってたけど、誕生日プレゼントには金額じゃなくて相手が喜ぶものをあげるものらしいから。キミが好きなのは僕のスケートでしょ」
否定なんて何一つできない。
そうだよ、好きだよ、好きで何が悪い。
夜鷹純のスケートを愛さずにいられるスケート選手なんているもんか。俺の全てを蹂躙する、この男のスケートが悪いのだ。もうほとんど八つ当たりのような思考で、司は唇を噛み締めて夜鷹を睨んだ。睨んだつもりだろうが潤んだ瞳で見つめるそれなど夜鷹からすれば猫が爪を立てるようなものでしかなかった。
「あとこれ。これも要らなかったら捨てていいよ」
そう言って夜鷹は明浦路の左手の薬指を掴んだ。
「僕の恋人の席」
「―――ッ」
ボクノコイビトノセキ。
こいびと。
……こいびと?
「恋人!?」
手を振り払うなんて動作は頭から完全に抜け落ちて、明浦路はあんぐりと口を開けた。
「本当はこんなこと言う必要なんてないと思ってたんだけど、まさかヤったのに付き合ってないとは思わなかった」
「夜鷹純はヤるとか言わない!」
「今言ったよ。バイト先の付き合いで飲まされていた君を僕が拾って、そのままホテルに行って朝までセックスした」
青から赤に、握られた手が拘束であることに気づきもしない男の表情の色が移り変わる。本当に表情を隠せない男だ。人の感情を読み解くことが苦手な夜鷹にすらわかる。
「あぁ、よかった。その顔はちゃんとおぼえてるみたいで」
それすらも忘れてるのかと思ったよ。そう魔王のように鼻で笑った夜鷹の視線から逃げられない。司が酸素を求めるように開閉を繰り返す口からはろくに意味を有する言葉は紡がれない。
この男じゃなければ声をかけなかった。その手を引いて、ホテルになんて行かなかった。
その夜までそんな関係ではなかった。気まぐれか、本能的なものか。理由は置いておいて夜鷹が差し出した手を、確かに司は掴んだ。掴んだからこそ、そこに意味が生まれた。
「で。答えてよ。セックスして、次の約束して、それがどうして仲良くないになるのか。君にとってセックス以上に親密な行為があるわけ?」
「そ、れは」
「初めてを捧げた男は君にとっては特別じゃないの?」
罪の林檎の味を知って後付けで覚えた羞恥を隠す服すら取っ払い、身体中に触れて、抱き潰して、体液で汚れていない箇所などなんてなかった。触れるたびに固まる筋肉をほぐして、羞恥に涙し逃げようとする体を組み敷いた。
初めてと言うものは特別なのだと聞いたから、懇切丁寧に鳴かせたのに。けれどこの男にとってはそうではないのか。夜鷹にはわからない普通とはそういうものなのだろうか。
耳まで赤くした司が潤んだ目のまま夜鷹を睨む。その瞳に濁りがなさすぎるせいで怖さや威厳はなく、もちろん貫禄もない。
「だ、だって!あの夜鷹純だからちぎっては投げちぎっては投げの酒池肉林をしてても許されるだろうし、その、ちょっとゲテモノを食べてみたい的な気持ちなのかと!ほら、YouTuberがシュールストレーミング食べてみたりする、みたいな、そんなあれなのかと、」
そう、思って。
反論はどんどん尻すぼみになっていった。
あれ、これ言葉にしてみると俺が悪いのかな。いやでも好きとか付き合おうとか言われてないし。言い訳のように心の中で呟くことしかできない司に向けられたため息に、反射的に肩が跳ねる。
「君のイメージのお騒がせセレブみたいな僕は置いといて、普通寝るのは好きな相手とでしょ」
「で、でも!」
「好きだよ」
「―――ッ」
「これでもう知らなかった、気付かなかった、勘違い……なんて言い訳は使えないね」
司が先に言おうとした言い訳は、たった四文字の言葉で一方的に押し潰された。
最初は純粋な憧れだった。憧れがいのりさんのために超えなくてはいけない壁になった。ディスプレイの外れた視界で男の自分とは正反対の苦悩を知った。夜鷹純というスケート選手が、人間なのだと知ってしまった。
信仰は壊れ、夜鷹純の輪郭がちゃんと見えるようになってしまえば後は一瞬だった。まるで転げ落ちるように憧れや尊敬の奥に隠れていたはずの愛おしさが司の心臓の位置にパズルのようにぴったりと嵌め込まれてしまった。
あの夜の出会いは本当に偶然だった。普段はセーブしているアルコール量が少しだけ超えていたことも。少し風に当たりたくなって裏路地でしゃがみこんでいたことも。そこを偶然裏路地よりも暗い色合いの夜鷹純が通りかかったことも。全てが偶然だった。
ほとんど理解できていないままに差し出された手を取って、気づけばホテルにいた。
恥ずかしくて、本当に穴を掘って埋まりたいぐらいの羞恥心に襲われながらも、氷に形作られた偶像の奥の夜鷹純という一人の男の体温の心地よさを知ってしまった。
それが運命の悪戯だとわかっていた。だから分不相応な幸せに蓋をした。一夜の夢の続きを示唆されて、それがリップサービスだと分かりながら頷いたけれど、次などないと理解していた。
強がりでもなんでもなく、慎一郎から夜鷹の恋人の存在を聞いても心はまったく痛まなかった。そうだろうと納得すらしていたし、一人で枕を濡らして夜明けを迎えることもない。
夢を追い続けて、夢の形を変え続けて生きてきた司とって、施しのような体温はこの先一人で生きていくには十分すぎるほどの幸福だった。
だったのに。夜鷹はそんな完結した司の幸福を顔色ひとつ変えずに破壊する。
「君は僕のスケートが好きなんでしょ。慎一郎くんからファンだって聞いたし。なにより君、僕のスケートを真似てるよね」
隠しているつもりは全くないが、本人から言われるのはまた別だ。
かつての師からも、ペアであった瞳先生や果ては教え子の一人である理凰からみても、司のスケートの影が誰の光から生み出されたのかは明らかだったが。
それほどに夜鷹純という選手に焦がれ、模倣したのが他でもない明浦路司という男のスケートの根源である。
「僕のスケートが好きなんだから、君は絶対僕を好きになる。遅かれ早かれそうなるんだから最初から僕の隣にいた方が無駄がなくて済むよ」
「無駄って、そんな言い方はッ」
「君は言葉遊びが好きだね。本質は変わらないのに言葉を選ぶ意味が僕にはわからないけど、まぁ…そういうなら言葉を変えるよ。君に僕を好きにさせるから隣にいて」
「これならいい?」尋ねる声には動揺も揶揄いも一つもなく、あまりにも堂々と言い放つものだから間違っているのは自分の方のような気がしてくる。
「どうして……」
己の薬指を握る手は未だ絡まったまま。司はもう、温めてあげたいと願わずにはいられないこの男の体温を知っている。
「どうして俺なんですか、俺なんて、どこにでもいる平凡なただの男で。俺にはあなたに好きになってもらえるような価値なんてない」
それは明浦路司という男の根幹にある、自己嫌悪。
誰もを心から信頼できる盲目的な強さを持つ男が、世界でたった一人―――自分だけを信じれない。
「価値をつけるのは結果と他人だ。僕がつけた君の価値に、他の人間の意見は関係ない。君自身の意見だってね。美術館の作品たちだって勝手に値段やエゴで価値をつけられてる」
「でもッ」
「君がいいと思った。それ以外の理由なんてない。僕の気持ちを否定する権利は君にはない。君にあるのは受け入れるか拒絶するかの二つだけだ。わざわざご丁寧に僕の心を治そうとしてくれなくていいよ」
吐き出そうとした言葉が、喉仏で死んだ。
自分が傷つかないように、押し付けようとしていた己の価値観。その傲慢さを法廷の裁判のように淡々と突きつけられる。まさに凄腕検事だ。
選ばれるには資格がいる。スケート選手として戦うことを望み、数多くの人に首を横に振られてきた。だからこそ認められることの難しさとそれが叶わない現実を知っている。手を差し伸べられ、道を示され、その道を途絶えさせた司にとって、選ばれるとは自身にそれだけの価値を示すことだった。
向けられた優しさはいつだって屈折して司の胸に届く。なのに目の前の破壊者は入射角のずれを許さない。司の弱さも、狡さも、卑屈さも、きっとこの人には届かない。届いてはくれない。結局吐き出せたのは己の醜さだけで。
「こんな、こんなにもすごい贈り物をもらっても、俺にはどう返したらいいのか、わからない」
「別に返さなくていいよ。お返しが欲しいからじゃなく、僕があげたいからあげただけだから。全部僕のエゴだ」
「ッ俺以外だって、いいはずです」
「そうかもね。でも僕は君しか知らない。多分僕の交友関係の狭さでこの先知ることもないよ」
「そんなことわからないじゃないですか。俺よりすごいスケート選手と俺よりも才能がある人もたくさんいるのに。あなたもすぐに俺に愛想をつかします」
「氷の上に絶対はない、君はそう言ってたね。もう一度言うけど絶対はあるよ。僕が君しか選ばないのも、君が僕を愛するのも、僕らの間にスケートがある限り絶対だ。君も僕もスケートがないと生きられない。だから死ぬまで絶対だ」
「俺のスケート人生の全ては、いのりさんに使います。あなたの分のスペースなんて残ってない」
「スケートの残り滓の僕とちょうどいいんじゃない」
「……俺の一体どこがいいって言うんですか」
「君は能力以外も少し自分というものを自覚した方がいいよ。君は陰りを持つ人間にとって少し眩しすぎるから」
眩しすぎるのはあなたの方だ。そんな事実さえ口にできず、その場にしゃがみ込む。合わなくなった高さの中でも握られた手は解けない。
そんな言葉を吐くのは狡い。司は一生かけて氷の上に絶対がないことを証明してみせると誓い、いのりと共に戦っている。それでも今はまだ、その絶対を崩せていない。あるはずのない絶対を体現できる存在の甘い諫言に心がぐらつかずにいられるだろうか。いつか必ず崩す。いのりならそれができると信じている。けれどその絶対は、司個人には当てはまらない。司一人では夜鷹の理論を否定できない。
「今日、誕生日なんです、俺」
「知ってる」
「だから、わがままを言ってもいいですか」
全部あなたが悪い。俺を壊す、あなたが全部悪いんだ。
だから、責任とってくれよ。
「あなたが俺を嫌う日まで、そばにいたいです」
「……そう、なら死ぬまでずっとだね。」
「っあ、まっ、純さん、もう、もぅやめて……ッ!」
今日の夜は予定がないかを確認され、頷けばあの日のように夜鷹は繋いだままの司の手を引いた。
連れてこられたのはとあるマンションの高層階で、聞けば夜鷹の自宅だという。芸能人が住むような吹き抜けの部屋。夜鷹純が1Kのアパートに住んでいる方が想像できないし、ある種イメージ通りなのだが。
なんとか後ろの準備の手伝いを拒否し、慣れないながらも準備を終えて風呂から上がる。恥ずかしがることもなく、先にシャワーを浴び終わっていた夜鷹は腰にタオル一枚の状態で待ち構えており、司の腰に巻いたタオルはわずが数秒足らずで奪い取られキングサイズのベッドに放り投げられた。体が弾む感覚に安物の敷布団に慣れていた体が違和感を覚えたがそんなことはすぐに頭から消えた。
粘着質なローションのぐちゅぐちゅと湿った音が広い部屋に響き続けている。その中に混ざるのが自身の体液の音であることが羞恥を煽った。一定のリズムで鳴り続ける卑猥すぎる音楽に、自身の殺しきれない嬌声が重なっていく。最悪のハーモニーだ。羞恥に耳を塞ごうとすれば、逃がさないと言わんばかりに部屋に充満する性の匂いが脳髄を犯す。
真白い指一本で、司の理性は破壊された。
後ろの穴を弄り始めて、すぐにその弱点に狙いは絞られた。最初は確認するように前立腺に触れていた指はほんの数分後には三本にまで増えており、まるでそれぞれが意思を持つ別の生き物のように体内を蹂躙し容赦なく前立腺を弄ぶ。司はその指先が氷上でどれほど繊細に、情熱的に、官能的に動くかを知っている。その指の白さにすら欲情した。
勝手に腰が揺れ、快楽に体が勝手に逃げようと腰が引けると、そんな逃げを許さないというように腰が浮き跳ねるほどしこりをこねくり回される。
「やめても何もまだ僕のを入れてもないでしょ」
「そうじゃ、なくてっ!早く、純さんのいれて、もぅぐちゅぐちゅするの、いやですっ」
「まだ30分もしてないよ。痛い思いをするのは君なんだから、ほら、しこりのところ押してあげるからもうちょっと頑張りな」
「もうはいる!純さんのはいるから、穴いじるのおわりぃ、おわりにしてッ、もうゆびやだぁ……!」
「もう我慢できないの?後一時間はする気だったのに…まぁいいや」
指三本が入るようになってからも前立腺だけをひたすらに弄られ続け、自身の頭を抱えるように必死に懇願する。まるでわがままを言っているのはこっちみたいだ。わざとしこりを引っ掛けるように粘液の糸引く指を穴――から抜き去られ、胎内に確かにあった質量が失われる感覚にすら喘いだ。
止まることのない快楽の波に、太ももが痙攣する。蓄積し続けるしかできなかった快楽が限界を超え、ただひたすらに登り続ける。いまだセックスに慣れきっていない体は快楽の逃げ場を見つけられず、快楽の頂から降りれない。
「あ、だめ……くる、くる、くるぅ゛」
深く呑まれるような前立腺の絶頂に体が跳ねるのはこれで何度目か。
「んあ゛ぁ―――っ!」
後ろの快楽が陰茎からの射精による解放と結びつくことはなく、反り勃ったままの肉棒が萎えることはなかった。
負債のように溜まっていく熱が氷のように強固だったはずの理性を溶かしていく。排出用であった、ひくつく肛門に当てられた熱の塊。
「―――ぁ……?」
足りない酸素の補給のためか、はたまた待ち侘びた快楽への期待からか。
荒い呼吸を数度繰り返しても穴に当てられた陰茎は動かないまま。思わずそこに視線を向ければ、漆黒の瞳が司の子供達に見せられない痴態を見つめていることを強く感じてしまい焦がれるように尻穴がひくついた。
「ほら。どうして欲しいかちゃんと自分の口で言って」
「っぁ……ゆった、さっきッ」
「もう一度。ちゃんと目を見て自分の口でどうされたいか言葉にして。そうすれば君もちゃんと自覚ができるでしょ。今誰にどこの弱点をいじられて、そんなふうに唾液を飲み込めなくなるほどよがってるのか」
「ほんっ…と、いい性格してますよね…」
「好きな子はついいじめたくなるらしいよ」
くっと上がる口角に滲む確かな加虐。
明らかな雄としての格の違い。
「―――あぁもう!」
持ち前の筋肉でもって快楽にふやけ痙攣する体を無理やり動かし、支配者であった男を押し倒す。
立場が変わり下に組み敷かれて尚夜鷹の畏怖すら感じさせる佇まいは変わらず、快楽の瀬戸際で足掻く明浦路の姿を楽しむ余裕すら見せている。
なんで俺一人がこんなにぐずぐずになっていて、この男はこんなにかっこいいままなのか。似合わない奉仕の末に発情を抑えられない身体が腹立たしい。唇を噛み締めた司は夜鷹の身体に跨った。
「動いてくれる気がないなら、もう動かなくていいです!目を瞑ってちんこだけおったてて下さい」
快楽に潤む体で睨んだ瞳にどれだけの効果があったかはわからない。それでも微動だにしなかったそれを答えと受け入れた。
出来るだけ重くないように、深く沈むようなスクワットのような体制でその肉棒を湿潤した秘部に押し当てる。圧迫感と内臓をこじ開ける異物の感覚に込み上げる、異物感。その裏に隠れている確かな満足感。
前立腺をカリ首が擦り上げた瞬間に崩れそうになった足に力を入れ、ゆっくりと体格以上に立派な逸物を飲み込んでいく。滝のように流れる汗の中に、堪えきれずに口の端を伝う唾液が混じる。あぁもう、ぐちゃぐちゃだ。思考も、脳も、感情さえも。スケートで身につけたはずの表情のコントロールなど何一つ発揮できずに体全てが快楽に溶ける。
前立腺を超えた先、これで終わりだと訴える感覚の誤りを指摘される。
「まだ半分も入ってないよ」
「えっ、嘘ォ、ってだから…ぁつ、目ぇつぶってください、ってば…ァ!」
「頷いた覚えはないよ」
「ぁン、や、ちくび、つままないでッ」
「嫌ならほら早く。休んでないで腰を動かして踊ってよ」
ダンスは得意でしょう、そうこれ以上奥はダメだと訴える本能を一蹴される。鍛えた胸筋の飾りでしかなかったはずのそこをまだ少しふやけて湿った指先が玩具にする。弾かれ、くすぐられ、動けと摘み上げられる。
「随分とつまみやすく立ち上がってるけど。よかったね、筋トレの成果がちゃんと出てて」
こんなことのために鍛えたわけじゃ絶対にない。ビリビリと走る乳首の快楽から逃げるために、足がすくむほどの快楽の先に至る為に腰を下ろし切れば臀部に感じる熱と陰毛の感覚。
(――ぜん、ぶ、はいった、これで、ぜんぶ)
達成感と幸福感に、最奥を外側から手のひらを押し当てて確認していたのは完全に無意識だった。
赤く上気した肌を、体液で汚し尽くしながらも幸福に微睡み晒した笑みを、本人は知らない。
その瞬間。
熱を宿した杭が下から律動を開始する。ようやっと入れたばかりの肉棒が今までの努力を全て無碍にするようにギリギリまで引き抜かれ、引き絞った弦のように再び最奥に向かって放たれる。
弱点への気遣いなどなく、容赦なく前立腺を押し潰し、亀頭は結腸口にまでふれた。
「―――ァああ゛ァツ」
視神経の奥で星が散る。快楽に撃ち抜かれ退けぞろうとする体をいつのまにか繋がれてた手が許してくれない。奥が、中が、理性が、全部壊される。壊して、壊し尽くして、生み出される確かな愉悦と他でもない己を抱く男が中にいるという全能感。
「な、で、急にうごきッ」
「本当に君は僕の予想をいつも超えてくるね……行動も言動もスケートも、全部」
「っは、ん、あッ、はァ、あ、あ、そこ、そこぉ…」
容赦なく続けられる地獄のような快楽をもたらす律動の激しさに、だらだらとはしたなく蜜を垂らすことしかできない陰茎がぺちぺちと鳴きながら腹筋にぶつかる。
獣のようにただ生きるために繰り返す呼吸すら奪うように、打ち付けられる陰茎に快楽の奥底へと沈められる。
気づけば勝手に司の腰は動いていた。隠れることすらできないしこりに自分からピストンでこぞけるように押し当て結腸に至ればそれを味わい尽くすように体内を律動させて。
「ッァああ゛――――!!!」
「――――ッっ」
何度も上り、達し、引きずり戻される。
胎内を駆け上がり、結腸のふれた状態で放たれた液体の熱さに、夜鷹が達したことを理解する。
くたりと司の体から力が抜けた。体勢を維持することもできなくなり、上半身を起こした破壊者の背中にしがみつく。
どれ程の時間が経っただろうか。数えられないほど体位を変えた気がするが、体内時計は完全に狂ったまま。いまだセックスは終わらない。太陽は未だ登らずに快楽に沈み続けている。夜鷹が二度目の射精を放ってからは自身の四肢の感覚すら曖昧で、のぼせきった脳は快楽に喘ぐことしかできなくなっていた。
ふと自身の爪先が朱に彩られていることに気づく。そしてそれが誰の背中に回されていたものだったか。真白い不健康そうながらも健康的すぎる矛盾した背中に爪を立てていたことに司はようやっと気づく。
「っあ、ごめんなさ…っ!」
「いいよ、傷ぐらい」
反射的に秘部を繋げたまま身を引けばとすれば、その分夜鷹が前のめりに距離を詰めたせいで距離は生まれなかった。
「君に焼かれるのは嫌いじゃない」
汗で額に張り付いた黒髪は未だに見慣れない。それでもあの夜鷹純に快楽の痕跡を見つけて少し安心する。
「ほら、背中に腕まわしたままにして」
「でも、」
「いいから」
一度目とは違う。激しさはないものの未だ硬さを失わないそれに優しく蹂躙され続けている。ゆっくりと引き抜かれ、奥へと押し込まれ最初よりも明確に感じてしまう男根に嬌声があがる。せめてこれ以上傷つけないようにと背中に回した手で指を組み離さないように密着した。
「じゅんさん、は、きもちい……?」
「悪くないよ」
「……ん…?」
「あぁ、そうだった。気持ちいいよ」
「あ、だめっ、ちんこ、いまだめ、さわっちゃ、ンあ」
ぶっきらぼうで少し冷たく聞こえてしまう声色。問いかけながらも腰は動き続けており、自由を手放した司の身体を白魚のような指先は蹂躙をやめない。脇腹に触れた手にまな板の上の体が跳ねた。
栓を失いだらだらと薄まった白濁を垂れ流すだけの逸物に触れられてもそれを止める術はなく。わざと音を立てて擦り上げられる陰茎に勝手に涙がこぼれる。弄ぶその手を止める手段は司にはない。自ら拘束した両手を離したら、またその背を傷つけてしまうかもしれない。
獲物が罠にかかるが如く自ら穴にはまっていく姿を笑った夜鷹が絶頂寸前に震えそうになるペニスを弄り遊ぶ手を止める。導火線に火をつけたのはそっちなのに、どうして。
「ねぇ、僕にどうしてほしい?」
してほしいこと。
「き、す」
脳に思い浮かんだ言葉が理性のフィルターを通り抜けた。
「きす、キスしたいッ純さ、んンッん!」
それは捕食だった。上げるはずだった悲鳴ごと差し込まれた舌に奪るような口付けだった。
思わず隠れようとした舌は逃げ場なく、吸われ、ねぶられる。口内を蹂躙する肉厚な舌に、唾液も強制も文句も、全てが呑まれる。テレビドラマでもそうは見ない、濃厚で貪り喰らいあうような口付け。再び陰茎への刺激が再開される。それは先ほどまでのものとは違い、明確なゴールに向かうための手コキ。
「っは、ん、ぁ」
「甘いね、君は。唾液も考えも、何もかも」
「あ、やだ!ちんこだめ、だめ、なのッに」
「何がダメなのさ。雄らしく濃い子種を吐き出させてあげるのに」
「だめ、ダメですッ俺だけ先は、もう、いやッ、だから、」
自身の腕を掻き抱くように、司は快楽の原点たる目の前の人物に抱きついた。
「いっしょ、いっしょがいい、あなたと、純さん、と、いっしょにいきたい」
「―――ははっ」
「……?」
「そうだね、一緒に生きようか」
ぐちゅり。逃げ口である亀頭を親指が塞ぎ、前立腺をこそぎ落とすような激しい律動が再開する。ばちゅばちゅと水気を纏った音がどんどんと短くなっていく。最果ての終わりへのいやらしいカウントダウン。
前も後ろももうどこが気持ちいいのかすらわからない。あっッあっ、と貫かれるたびに閉じることを忘れた口から喘ぎ声が締め忘れた蛇口のようにとめどなく溢れ出る。もうイきたい。この熱を吐き出したい。快楽終わりが欲しい。自身を射抜く瞳にみっともない自分の痴態が反射する。本来交わることないはずだったその黒曜の瞳に、背筋を電気が駆け抜けた。
「みて、みててッ俺が、よだかさんで、しゃせぇ、するとこみてて、おれがイク、とこ、おれのこと、みてて、ください!」
「――――ッ」
「―ッく、くる、くるぅ、イく、イく、イクぅう!!!」
お願いだから。その瞳に俺を映して。
俺のことを、覚えていて。
「――――〜〜〜〜っぁアア゛ぁああ!――ッ…」
潮を撒き散らし絶頂を迎えた体が吸い上げるように奥深くに差し込まれた陰茎を締め付け、濃すぎる体液が指では届かない奥底を駆け上がっていった。
結腸のさらに奥に吐き出された精液は二度と体から出ていかないかもしれない。頭の片隅でそれを幸福だと思いながら白濁の充足感に、司の体は絶頂に戦慄いた。
互いの体液塗れでぐっしょりと湿ったシートは冷たいが、わざわざ変える手間を割くのが面倒だ。冷え切った部屋の中で唯一の熱源である男を上半身だけを起こして夜鷹は見下ろした。
散々鳴かせて最後は気絶するようにくたりと堕ち切った男は手元を赤く腫らしながら今はすやすやと眠っている。
夜鷹はベッドサイドに置いていたタバコを手に取り火をつける。百害あって一利もない。毒を体に入れ込む行為だと知ったうえで夜鷹はタバコを吸っている。この一本でいつまで続くかわからない地獄のような人生が短くなるのならと味も楽しみも見出せずに高い税金を払い続けている。吐いた灰色の汚れた息が大気に霧散して消えていった。タバコを持っていない反対の手で、眠る男の頬に触れた。熱を持っているのではないかと思うほど、その温度は高い。
「本当に持っていないね、キミは」
稀有な才能を持ちながら、それを生かすことができず無為にする。結束いのり、だったか。あの少女と出会ってしまったから、司自身のスケートは日の目を見ることがなくなった。光に一生敵わない、あんなにつまらないスケートそんな価値はないというのに。そんなものに人生を賭けてしまった、愚か者。
あの少女は間違いなく司を手放さないだろう。この世界、それも限られた人間で閉じられるフィギュアスケートという世界で信じられる大人はあまりにも少ない。その中でも自分よりも自分を信じてくれる絶対的な味方ならなおさら。
それは夜鷹からすればただの弱さでしかないが、手放したくないと思う気持ちはわからないでもない。光が言うように、夜鷹に似ているのだというのが真実ならばその心は傲慢と飢えでできている。彼女は己からスケートを奪うものを許さない。彼女にとってスケートの神様がこの男だ。彼女は信仰を捨てない。スケートがなければ生きてなどいけないから。最悪のババを引かされたようなものなのに、当人にその自覚がないときている。
そしてなによりーー
「僕なんかに好かれるんだから」
本当に持っていない男だ。何一つ持っていない、救えないくらい馬鹿な生き方しかできない男だ。
持っていないのなら、与えるしかないではないか。スケートの残り滓のような自分にでも彼一人分ぐらいならまだなんとかなるだろう。平熱の高すぎる、まるで身のうちから燃えているような夜鷹には持ち得ない熱をもった司の肌の上を、確かめるように親指が頬を何度も滑る。
眩しく照らし、網膜すら焼き焦がす。この子はきっと光源だ。
「このまま君の体温で、氷のように溶けてしまえればよかったのに」
昼夜問わず開いたままのカーテンから差し込む光の優しさに朝を知る。窓に視線をやれば、そこに広がるのは美しい赤と黒の間に挟まれた青色の空の交わるグラデーション。
滲むような黒が群青の空色を思い出していく。周囲を青に包み変えた月が、名残惜しそうに空に居座る。正確に時間を守り登ってきた太陽の光源が空の全てを己色に染めていく。
「……もう朝か」
月と、太陽が重なる朝をこの世界は知らない。太陽と月は背を向け合って太陽が昇るときに月は沈み、またその逆だと誰もが思っている。同じ天を二分した支配者はそれが空を挟むことでようやく互いの存在を思い出す。
スケートがなければ繋がれなかった自分たちと似ているかもしれない。夜鷹はふとそんなことを思う。まだ明浦路司を世界は知らない。明浦路司という男のの稀有さを、異常さを、眩しさを、誰も知らない。今は結束いのりという少女の影だろうが、俯いていた向日葵を輝かせた太陽の存在を世界はいずれ思い知る。それもそう遠くないうちに。
けれどもう遅い。
太陽はこのベッドの中にある。後から気づいたって、欲しいとねだったところでもう遅い。金メダルと同じでたった一人にしか許されない唯一は夜鷹のものだ。
「ああ、そういえば忘れてた」
どこに置いたか。部屋を見渡せば探し物はベッドサイドのテーブルの上にあった。箱もない中身だけの二つの時計。慎一郎に付き合ってもらって買った、揃いのそれ。心を込めたものと、形に残るもの。その二つのどちらを送るか数秒考え、面倒だがどちらも送ればいいという結論に達した。
物欲のない相手への贈り物として候補にあった指は慎一郎曰くまだ早いらしい。候補が却下され、どうしようかと立ち止まったとこにあった時計店に入ったのは何となくだった。変わらぬ時を刻む針。それはスケートティングで規則正しく削り取られた氷の跡に似ている気がした。何気なく眺めていた時計の中で、朱色のベルトに目が留まった。
相手の喜ぶ顔なんて考えてなかった。慎一郎は相手のことを考えるのが一番と言っていたが、夜鷹にはやはりそれすら出来なかった。喜んでくれるかどうかではない。喜ばなくても別に構わないし、捨てても無くしても壊されてもそこに何の感慨も抱かないだろう。夜鷹が一方的に所有物としての痕跡を刻みたかっただけだ。何も気づかない無関心で無責任な周囲に知らしめたかった。
夜鷹で形作られた、夜鷹とはまったく違う、暖かい生き物。
夜鷹純と同じ世界を見ることのできる、唯一の獣。
夜鷹は眠る司の左手を取り、その時計を巻いた。もう一つを自分の左手に巻けば、当たり前だが同じ時、同じ秒数でその針は動いている。
朝は好きではない。希望なんて抱いたことのない明日がくるだけだから。夜が明ける瞬間が嫌いだった。こんな意味のない自分に無意味な明日が来てしまうから。普通に生きられない失敗作である自分にはスケートしかない。それだけが全てで、勝利のために捧げた犠牲の数など数えてはいない。捨てたものを想うこともない。
それでも、そんな残り滓のような夜鷹を後生大事に抱えて笑う、太陽のような熱。夜鷹にはこの偽物の太陽ぐらいがちょうどいい。
タバコの火を灰皿に押し付け、再びベッドに潜る。心臓の音よりも正確な時計の秒針が導く時間の流れを悪くないと思えた。
「君が隣にいる明日ならそう悪くはないかもね」
交わり濡れて乱れたシーツの中で、眠る太陽を抱きしめた。マンションの一室、そのベッドの上には夜明けがあった。
そうして二度寝した夜鷹よりも先に起きた司が、自分の腕に嵌められたいかにも高級な時計に悲鳴をあげるのはそれから数時間後のこと。
見るからに高そうだとわかるそれに傷つけたらまずいと変な体制で固まった半泣き状態の司に夜鷹が叩き起こされるのはそれから数時間後の未来のお話。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!