テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
朝の光は、あまりにも無遠慮だった。
昨夜、旧校舎の暗がりに沈んでいたはずの絶望を、白日の下に引きずり出そうとするかのように。
一睡もできなかった。まぶたを閉じれば、あの赤い肉の波打つ感触や、脇腹の『口』が漏らした熱い吐息が、まるで昨日のことではなく今この瞬間の出来事のように蘇ってくる。
僕は重い身体を引きずるようにして登校し、いつもの教室の、いつもの席に座った。
視線の先には、いつも通り、クラスメイトたちに囲まれて笑う山本嘉穂がいる。
「ねえ嘉穂、昨日のドラマ見た? あのラスト、ありえなくない?」
「あはは、確かにね。でも、あれくらい極端な方が面白いよ」
彼女の返答は完璧だった。
凜とした佇まい、少しだけ大人びた微笑み。周囲を魅了するその完璧な幼馴染の姿は、昨夜、僕の胸で泣き崩れたあの怪物と同じ個体であるとは到底信じられない。
だが、僕は気づいてしまう。
彼女が時折、無意識に右脇腹を左手で押さえていることに。
そして、そのセーラー服の厚みが、昨日よりもほんの数ミリ、不自然に増していることに。
「……おはよう、新一」
取り巻きたちが去った後、彼女が僕の席の横を通り過ぎる際、耳元で囁くように言った。
挨拶を交わすフリをして、彼女の瞳が僕を射抜く。それは助けを求めるような、あるいは口封じを再確認するような、鋭く、危うい光だった。
「……ああ、おはよう」
それだけで、心臓が跳ねた。
たった一言。けれどそこには、教室にいる他の誰一人として踏み込めない、僕たちだけの境界線が引かれていた。
その日の六時限目、数学の授業中だった。
チョークが黒板を叩く規則正しい音だけが響く静寂の中に、それは突如として紛れ込んだ。
(――ギ、チ……ギチ……)
最初は、古い椅子が軋む音かと思った。
だが、音は止まらない。次第にそれは、硬い何かが擦れ合うような、あるいは、粘り気のある肉が引きちぎられるような、生理的な不快感を伴う音へと変わっていく。
僕は隣の席の嘉穂を見た。
彼女は顔を伏せ、机にしがみつくようにして震えていた。
冷や汗が彼女の項を伝い、白い襟を濡らしている。
(――……ハァ、……ハァ……)
聞こえる。
彼女自身の呼吸ではない。彼女の脇腹に潜む何かが、喉を鳴らしているのだ。
周囲の生徒たちはまだ気づいていない。けれど、このままでは。
「先生! すみません、山本さんが気分悪いみたいです」
僕は考えるより先に、右手を挙げていた。
教師の怪訝そうな視線と、クラスメイトたちの好奇の目が一斉にこちらを向く。
嘉穂が顔を上げた。その瞳は、苦痛と、そして僕に対する「余計なことをするな」という怒りに満ちていたが、今はそれどころではなかった。
「……そうか。山本さん、保健室に行けるか?」
彼女は小さく頷くと、僕の手助けを拒むように立ち上がった。
だが、歩き出した彼女の足取りは、いつ崩れ落ちてもおかしくないほどに危うい。僕は無言で彼女の肩を支えた。
その瞬間、制服越しに伝わってきた熱量に、僕は息を呑んだ。
熱い。まるで高熱を出した病人のように。いや、彼女の体温ではない。僕の手のひらに当たっている、あの口の周辺だけが、異常なほどの熱を発していた。
誰もいない特別棟の連絡通路まで辿り着いた時、嘉穂が僕の手を振り払った。
「……何、考えてるの」
壁に背中を預け、彼女は荒い息をつく。
その右脇腹、セーラー服の生地が、内側から何かが突き上げているかのようにボコボコと波打っている。
「放っておけるわけないだろ。あのまま教室にいたら、音が……」
「わかってるわよ、そんなこと!」
彼女は叫ぶように言い返し、その場に蹲った。
限界だった。彼女は自らスカートのフックを緩め、セーラー服を捲り上げた。
「……っ!」
僕は絶句した。
昨日よりも、確実にそれは成長していた。
右脇腹の口は、以前よりも大きく、より禍々しい形状に裂けていた。牙はより鋭く、そしてその周囲には、血管を模したような赤い触手のようなものが、彼女の腰を、背中を、まるで編み上げるように侵食している。
そして何より恐ろしいのは、その口が、言葉にならない音を漏らしながら、何かを欲するようにパクパクと動いていることだった。
「……お腹が、空いてるの」
嘉穂が、掠れた声で言った。
「お腹って……嘉穂が?」
「違う。……こいつが。昨日、新一に見られてから、ずっと……暴れてる。何かを『食べさせろ』って、私の頭の中に直接響いてくるの……」
彼女の指が、自分の脇腹の口に触れる。
すると、その口は甘えるような音を立てて、彼女の指を甘噛みした。
ゆっくりと滴り落ちる血。
彼女は、自分の血を吸わせることで、一時的にそれを鎮めているようだった。
だが、その血の気のない顔色を見れば、それが長く持つはずがないことは明白だった。
「嘉穂、それ以上は……」
「じゃあどうすればいいのよ! 放っておけば、こいつ、私の内臓を食べ始めちゃう……! そうしたら私、本当に死んじゃう……化け物として、死んじゃうのよ……!」
彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
美しい美少女の顔と、その下にうごめく醜悪な肉塊。
そのコントラストが、僕の精神を狂わせそうになる。
彼女を救わなければならない。だが、どうやって?
医学も、科学も、そんなものを僕は持ち合わせていない。
僕にあるのは、ただ一つの、歪んだ覚悟だけだった。
「……僕の、血を飲ませれ、ば…」
気づけば、僕は自分の腕を差し出していた。
「何を……馬鹿なこと言って……」
「嘉穂の血が足りないなら、僕のをあげる。……僕だって、共犯者だろ?」
昨日、彼女を抱きしめた時に感じた、あの奇妙な高揚感。
彼女の秘密を、僕だけが知っている。
彼女の苦痛を、僕だけが分かち合える。
その事実が、恐怖を塗りつぶし、僕を突き動かしていた。
僕は、彼女の脇腹にある口の前に、自分の手首を差し出した。
嘉穂は、拒絶するように目を背けたが、その脇腹の口は違った。
新しく、新鮮な獲物の匂いを嗅ぎつけた獣のように、牙を剥き出しにし、咆哮に近い音を立てて僕に食らいついた。
「あ、…………いッ!」
鋭い牙が、僕の皮膚を貫き、肉に沈み込む。
吸い上げられる感覚。
激痛と共に、僕の血液が彼女の中へと流れ込んでいく。
同時に、僕の視界が白く明滅し、身体から力が抜けていく。
けれど、その痛みはどこか、甘美だった。
嘉穂の表情が、次第に安らぎを取り戻していく。
僕の血を飲むことで、彼女の中の怪物が満足し、彼女自身が救われるのなら。
それは、運命的な自己犠牲などという綺麗な言葉ではなく、ただの共食いに近い、惨めで幸福な儀式だった。
放課後の連絡通路。
6時限目はとっくに終わったらしく、差し込む夕日が、昨日と同じように僕たちの足元を赤く染め上げていた。
「……ごめん。……ごめんね、新一……」
僕の腕に顔を埋め、嘉穂が泣いていた。
その声を聞きながら、僕は遠のく意識の中で思った。
ああ。これで、もう戻れない。
僕たちは、本当の意味で一つの怪物になってしまったのだと。
コメント
1件
おお、第3話…一気に引き込まれました。特に「彼女を救う」というより「共犯者」として血を差し出す主人公の歪んだ覚悟が、すごく生々しくて、背筋がぞわぞわしました。嘉穂の内側の怪物がただの寄生じゃなくて、二人の関係性を侵食していく感じがたまらない…続きが気になります!
蝋燭さん
164
10,906
93