テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
指を三本折ったまま、私は眠れなかった。
夫。愛人。義母。
数えるだけなら、簡単だった。数えた相手を倒すには、まず手の中に武器がいる。
私の武器は一つだけ、この家の地下に置いてきてあった。
*
新居祝いから三日後の、午前一時。
家じゅうの灯りが消えたのを確かめて、私は半地下の部屋を出た。
ランドリーとボイラー室の前を過ぎ、廊下の突き当たりの重い扉を押す。
ワインセラーの冷気が、足首にまとわりついた。
裸電球の紐を引く。
棚に寝かされた何十本もの瓶の首が、暗がりからこちらを向いていた。
奥の壁に、配膳リフトの最下点の扉がある。
半年前のあの夜、私はここへレコーダーを下ろした。
ことり、と箱が止まる音を、厨房で聞いた。翌日に取りに戻るつもりだった。その翌日は、来なかった。
取っ手に指をかける。
鉄の冷たさが、手袋越しに指へしみた。
開けた。
箱は、空だった。
当たり前だ、と自分に言い聞かせた。
新居祝いの夜、私はこの箱でタルトを二階へ上げた。その前から、箱は何度も上がり下がりしているはずだ。レコーダーが、箱の中にそのまま残っているわけがない。
だから、落ちたのかもしれない。
箱の底と竪穴の壁の隙間から、床へ。
私は膝をつき、スマートフォンのライトで竪穴の底を照らした。
埃。乾いた蜘蛛の死骸。コルクのかけらが一つ。
棚の下を、一段ずつのぞいた。
木箱の陰。ワインの空き箱の中。床の排水溝の格子の上。
ない。
手のひらに収まるほどの、銀色の小さな機械。
レシピを吹き込むために、エプロンのポケットにいつも入れていたもの。あの中に、蒼真の声が入っている。「ブレーキは堂島に仕込ませた」。
録音は、四分と少し。
十三段目が鳴って慌てて止めたから、最後には、私自身の荒い息まで入っているはずだ。
それが、どこにもなかった。
誰かが、拾った。
誰が。
ワインを取りに下りてくるのは、蒼真か、ケースを運ぶ堂島。お義母さまは、料理酒を切らしたときくらいしか、ここへは下りない。
蒼真だろうか。
けれど、自分の計画を自分の声で聞かされた男が、三日前、あんなふうに笑って乾杯できるだろうか。
堂島なら、あの声は金になる。麗奈なら、蒼真を縛る鎖になる。お義母さまなら。
考えるほどに、どの顔も当てはまり、どの顔も当てはまらなかった。
裸電球が、小さく揺れていた。
私は紐を引いて灯りを消した。暗がりの中で、瓶の首がまだこちらを見ている気がした。
*
翌朝六時半、私は和館へ朝のお茶を運んだ。
お義母さまの居室は、渡り廊下の先の、いちばん奥の八畳だ。
障子を開けると、白檀の匂いがした。仏壇に、お義父さまの写真。
お義母さまは鏡台の前で、髪を夜会巻きにまとめているところだった。
「そこへ置いて」
「かしこまりました、大奥様」
座卓に湯呑みを置こうとして、畳の上に光るものに気づいた。
銀縁の老眼鏡だった。鎖ごと、座布団の脇に落ちている。
私はそれを拾い、レンズに指が触れないように持って、仏壇の右の小さな引き出しを開け、中に入れた。
閉めてから、手が止まった。
鏡の中で、お義母さまがこちらを見ていた。
「……なぜ、そこに?」
その引き出しは、お義母さまが寝る前に老眼鏡をしまう場所だった。
三年間、私は毎朝そこから老眼鏡を出して、お茶と一緒に座卓へ置いた。
凛さんは、それを教わっていない。
「落ちていたので、近い引き出しに」
声がかすれすぎないように、喉に力を入れた。
お義母さまは、しばらく黙っていた。
それから、簪を一本、髪に挿した。
「そこが、いつもの場所よ。覚えておきなさい」
「かしこまりました」
障子を閉めるまで、背中に視線が刺さっていた。
廊下に出てから、私は手袋の中で指を握りこんだ。
レコーダーは見つけられないくせに、老眼鏡の場所なら、目をつぶっていても見つけてしまう。
*
八時。
大階段の踊り場で、柱時計のねじを巻く。
「毎朝、あなたが巻きなさい。前の嫁も、そうしていたから」
勤め始めた日に、お義母さまから言いつけられた仕事だった。
ガラスの扉を開け、文字盤の穴に鍵を差しこむ。
きりきりと、八回。
振り子の向こう側を、私は見なかった。
二年前、この時計のねじを巻いていて、気づいたことがある。
振り子の裏の板に小さな穴があいていて、そこに黒いレンズがはまっていた。指先ほどの、カメラだった。
大階段と踊り場を、まっすぐ見下ろす位置。
誰が仕掛けたのか、聞かなくてもわかった。嫁が階段をどう上り、どう下りるか。手すりの埃を拭いたか、拭かなかったか。
私は何も言わなかった。
言えば、もっと見えない場所に移されるだけだと思ったから。
その目は、いまも生きているのだろうか。
私は文字盤だけを見て、ガラスの扉を閉めた。
ぼーん、と時計が八時を打った。
私は、顔を上げなかった。
鐘の音が消えたころ、上から、小さな足音が下りてきた。
陽翔だった。
黄色い帽子をかぶり、ぴょんたを脇に抱えて、一段ずつ下りてくる。踊り場の手前で、私に気づいて足を止めた。
私の手の中の、ねじ巻きの鍵を見ていた。
前は、この子が毎朝、隣で数えた。
いち、に、さん。私がねじを回すたびに、指を折って。はち、で終わると、「ママ、おわり」と言って、私の手を引いた。
陽翔は、何も言わなかった。
私の横をすり抜けて、残りの段を下りていく。
十三段目を、小さな足で、ぴょんと跨いだ。
その背中に、私は声をかけなかった。
かけられる言葉が、家政婦には一つもなかった。
*
昼前、和館の廊下に、麗奈の甘い声が響いた。
「お義母さま、これ、ちょっとだけ貸してくださらない?」
お義母さまの部屋の前で、麗奈が桐の箪笥の引き出しを開けていた。
手に、淡い藤色の絹の帯揚げを持っている。
「来月、主人の会社のパーティーがあるの。着物で行こうかなって。これ、私の帯に合いそう」
「お戻しなさい」
お義母さまの声は、大きくなかった。
それなのに、廊下の空気が一度に冷えた。
「え、でも、ちょっと借りるだけ……」
「帯揚げは女の金庫よ。人のものに、勝手に触らないで」
麗奈の頬が、ぴくりと引きつった。
長いネイルの指から、藤色の絹がはらりと落ちた。
私は廊下の端で、雑巾を持ったまま頭を下げていた。
お義母さまは、自分の胸元の帯揚げに、ほんの一瞬、指を添えた。中にあるものを確かめるような手つきだった。
「……失礼しました、お義母さま」
麗奈は笑顔を作り直して、廊下を戻ってきた。
私の横を通り過ぎるとき、小さな舌打ちが聞こえた。
「何見てんのよ」
「何も見ておりません、奥様」
見ていた。
お義母さまが帯揚げを人に触らせない理由を、私は知らない。三年この家にいて、一度も気にしたことがなかった。
*
その夜、厨房の後片付けを終えて、私はリフトの扉の前に立った。
この箱は、二階の書斎の声を一階に落とし、一階の荷物を地下へ運ぶ。
あの夜、私はこの家でいちばん秘密の通り道に、いちばん大事なものを預けた。
そして、それは消えた。
蒼真か、麗奈か、堂島か、お義母さまか。
誰が拾ったにせよ、その人は、あの声を聞いたはずだ。
聞いて、黙っている。
黙ったまま、私の葬式に出て、この半年を過ごした。
警察に届けなかったのは、なぜだろう。
届ければ、この家は終わる。終わらせたくない人が、あれを持っている。
あるいは、もう壊して、捨てたのかもしれない。
そう考えると、指先から血の気が引いた。凛さんが死んだ理由が、どこかの燃えないゴミの袋の中で、潰れて消えていく。
いや、と私は首を振った。
捨てたなら、捨てたで終わる話だ。あの声を握ったまま黙っている人がいるほうが、ずっと怖い。
私はリフトの扉に、そっと手のひらを当てた。
木の扉の向こうで、竪穴が暗く口を開けている。
あの夜の夫の声は、いまもこの家の誰かの手の中にある。
コメント
1件
うわっ、今回めっちゃ緊張感ある回だったね…🥀 録音機が消えてるって気づいた瞬間から、本当にハラハラした。誰の手に渡ったのか、どの顔も当てはまるけど当てはまらないって感じ、すごく分かる。お義母さまの引き出しに老眼鏡をしまったときの「なぜ、そこに?」ってセリフ、めっちゃ怖かった…。 あと陽翔くんが十三段目を跨ぐ描写、胸が痛くなった。この家の空気感、重くて苦しいのに、なぜかもっと読みたくなる。続き、気になるよ…🤍