◻︎離婚に向けて
朝起きて、用意してあるご飯を食べて新聞を読みながらコーヒーを飲む。毎日の決まったルーティンだ。新聞から視線を上げたら、ふと目に留まったのはサイドテーブルの上に飾られたフォトフレームだった。海沿いにある教会で式を挙げた時の写真が飾られている。
___まだこんな写真を飾ってるんだな
結婚してもう15年ほどが経つ。おそらく周りから見たら、仲のいい夫婦で特に問題もない家族に見えるだろう。
「ほら、忘れ物はない?体操服は持った?」
「持ったってば!それより新しい靴下、片方ないんだけど?あれじゃないと嫌だから探してよ!」
「なんで今頃…、もうっ!」
妻の愛美は、学校へ向かう子どもたちの準備に手を取られている。パタパタと走り回る音と、子どもたちの少しばかりめんどくさそうな返事も毎日のことだ。そのうえ、最近では僕に対する小言も増えてきた。家の居心地がよくないと、一人になりたいと思い、離婚を考えてしまう。
「僕はそろそろ出かけるよ」
「行ってらっしゃい!パパ、今夜は帰りは?」
「まだわからないな。遅くなりそうなら連絡する」
「一応、ご飯の支度はしておくから。私、今日は遅番だから帰りが遅くなるの」
「わかった、大丈夫だよ」
愛美の今日のアルバイトは遅くなると、確認した。
いつものように電車に乗り、スマホのロックを解除してメッセージを開く。
〈おはよう。今夜あたり行けそうだけどどうかな?〉
すぐに既読がついて、返事がくる。
《ホント?わかった、定時で帰るね!よろしく!課長!》
〈やめてくれ、その呼び方〉
《じゃあ、和くん》
〈それがいい。じゃ、今夜、行くね〉
桃子とのやり取りを終えて、愛美にコメントを送る。
〈今夜は残業になったよ、帰りは遅くなる〉
《わかった。私も今日は特に遅くなりそうだから、よろしくね》
愛美からの返信にホッとしてスマホを閉じた。今日も何も疑われていないようだ。
レストランで軽く食事を済ませ、桃子の部屋で過ごす。
「今日の来客のオジサン、いやらしい目で君をみてたね?」
「そう?」
「気づかなかった?やっぱり桃子は他の男から見ても、魅力的なんだなって思ったよ」
「うれしいこと言ってくれるのね、和くん」
ソファでビールを飲んでいる僕に、しなだれかかる桃子。そのうなじに唇を添えると、小さく感嘆の声を洩らす。
「…あ、もう………」
細い首筋からは、もぎたての桃のような甘い匂いがして、僕は昆虫になったかのように吸い寄せられてしまう。
「だから、桃子は桃子って名前なんだね?」
「…え?なんのこと?」
「なんでもない、それより、さぁ、もう一回、桃子の声を聞かせて…」
桃の匂いに絡め取られて、逃げ出せなくなる昆虫を想像しながら激しく抱いた。
「…ね?最近、奥さんとはシタ?」
「……いや」
「だよね?こんなに激しい…もの…」
「もう離れられないよ、桃子から」
「うれしい!私も…」
そう言うなり、僕を押し倒して両足の間に顔を埋める桃子。自分のソノ部分に女の顔があるというのは、なんとも言えない恍惚とした心地がしてきて現実には戻れなくなる、そんな気がした。
___やっぱり、この時間をずっと手にしていたい
獣のように興奮した気持ちが収まってきたころ、時計を見たら終電ギリギリだった。
「悪い、もう帰らないと」
「えっ、そんなぁ…」
「また会えるから」
「そんなことより、私のことを欲しいと思うならちゃんと考えてよね?奥さんとのこと」
「あ?あぁ、わかってる。じゃ」
「愛してるよ、和くん」
「愛してるよ、桃子」
玄関先でのキスを終えると、急いで駅まで向かう。駆け込んだ終電の中は、疲れ果てた中年男性が数人いるだけだった。
___僕も疲れているけど理由が違う
自分だけは、そこにいる仕事や家庭で疲れ果てた男たちとは違うと思っている。そこにいくらかの優越感のようなものを感じられて、自分がまるでできる男に思えてくる。40を過ぎた男がまだ25才の女を抱けるというのは、他の男から見たら羨ましいだろう。
玄関を開ける前に、ニオイや口紅の痕跡を確認しておく。大丈夫だ。
そっと家に入り、寝室を覗く。愛美が寝息を立てていることを確かめると、スマホを置き風呂へ向かう。
___大丈夫だ、今日も気づかれていないようだ
平穏無事な我が家の夜。それはそれでホッとする。
桃子との関係は、まだ誰にも気付かれていない。愛美に離婚を切り出すならば、不倫での離婚にはしたくない。慰謝料の問題も大きくなりそうだし、なにより職場での周りの対応が不味くなる。
妻の愛美も結婚するまでは同じ職場だったから、昔から僕と妻のことを知ってる人も数人いる。
「あら、課長!今日は愛美先輩の愛妻弁当ですか?」
昼休み、休憩室で昼食をとろうとしたら、百合が話しかけてきた。その同じテーブルには、サンドイッチを広げる桃子がいる。
「いや、なんだか今日は子どものために作った残りを入れてくれたらしいから、さしづめ余り物弁当だよ」
愛妻弁当だなんて言ってしまったら、次に会う時、とんでもないことになりそうだ。
「ほら、そんな綺麗なお弁当は、愛妻弁当ですよ。いいですね、いつまでも変わらず仲良し夫婦で。愛美先輩に、よろしく言ってくださいね!また遊びに行きますって」
「わかった、言っておくよ」
なんとなく、桃子の刺すような視線を感じた気がした。
ぴこん♪
《愛妻弁当だなんて、愛されてますね》
スマホには、拗ねたスタンプとメッセージが届いた。
〈だから、余り物だってば〉
《いつになったら、奥さんに離婚の話をするんですか?》
〈それは様子を見て〉
《なんの様子?》
〈子どももまだ小さいし〉
《私、そんなに待てません。実家の親からも結婚はどうなんだ?と言われてるし》
〈わかった、もう少しだけ待ってくれ〉
そこまで返して、あとは急いでお弁当を食べた。仕事のメールが届いたフリをして、慌てて席へ戻る。
___本気だ
桃子も私もお互いに本気だ。愛美には申し訳ないが、別れてもらおう。慰謝料や養育費など、できるだけのことはしよう。そして、離婚が成立したら、はれて桃子と結婚できる。その後は楽しい生活が待っているはずだ。
___どうやって離婚を切り出すか?
他に好きな女ができた、それはできれば言いたくない。性格の不一致?いや、性の不一致だな。もう抱きたいと思えなくなってしまった。結婚した頃は、可愛くて愛しくて大事にしようと誓ったものだが、子どもができてから愛美は変わってしまった。女としてより、母親になってしまったのだ。それが当たり前なのかもしれないが、僕は桃子と知り合って愛し合ってしまった。
「仕方ないよな…」
誰に言うともなく、呟く。子ども達がもう少し大人になるまで待つつもりだったが、桃子が待ってくれそうにないし、僕も早く桃子と暮らしたい。だからせめて金銭的なことだけは、きちんとしておかなければと思った。