テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
13
17
本日の遅刻 魔王
春の風が、柔らかく髪を揺らした。灯は、駅からバスを乗り継ぎ、小さな町外れの花畑に来ていた。
一面に咲き誇る菜の花と、少し奥に広がるチューリップの丘。
そこは、晶哉が『春になったら行こう』と微笑んで話していた場所だった。
少し高台になった芝生の上に腰を下ろし、灯はそっと深呼吸をする。
新しい心臓がリズムを刻む音。
それはもう、怖くなかった。
「生きてるね、晶哉……。ちゃんと、生きてる」
自分の命として、そして彼の命として……
ようやく、心からそう思えた。
バッグの中には、もう何度も開いた“行きたい場所リスト”と、あの日のSDカード。
そして、小さな封筒がひとつ。
それは、晶哉の母から届いた手紙だった。
手術の数週間後、灯のもとに静かに届いたもの。
灯さんへ
晶哉が亡くなる前、あなたの話をたくさんしてくれました。
『僕は、あの人の未来を守りたい』
そう言った彼の顔は、本当にやさしくて、まっすぐで、悲しくて、それでも幸せそうでした。
晶哉の選んだこと、私たち家族は心から誇りに思っています。
あなたが、この先の人生を、笑って生きてくださることが、私たちにとって何よりの願いです。
どうか、あなたの胸で彼を生かしてあげてください。
晶哉の母より
灯はそっと手紙を折りたたみ、胸に当てた。
花の香りに包まれた空の下、ただ静かに涙が流れた。
でも、その涙は悲しみじゃなかった。
“ありがとう”と“さようなら”を、ようやく心で言えたから。
「晶哉、全部行ったよ。あなたが行きたいって言ってた場所。どこもあなたが似合いそうなところばかりだった」
返事はない。
けれど、風が吹いた。
灯は、笑った。
空を見上げて、小さく、でも確かに微笑んだ。
「次は、私が行きたい場所に、連れてってあげる」
まだ知らない景色。
まだ見ぬ未来。
そのすべてに、あなたの鼓動とともに……
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!