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春の風が、柔らかく髪を揺らした。灯は、駅からバスを乗り継ぎ、小さな町外れの花畑に来ていた。
一面に咲き誇る菜の花と、少し奥に広がるチューリップの丘。
そこは、晶哉が『春になったら行こう』と微笑んで話していた場所だった。
少し高台になった芝生の上に腰を下ろし、灯はそっと深呼吸をする。
新しい心臓がリズムを刻む音。
それはもう、怖くなかった。
「生きてるね、晶哉……。ちゃんと、生きてる」
自分の命として、そして彼の命として……
ようやく、心からそう思えた。
バッグの中には、もう何度も開いた“行きたい場所リスト”と、あの日のSDカード。
そして、小さな封筒がひとつ。
それは、晶哉の母から届いた手紙だった。
手術の数週間後、灯のもとに静かに届いたもの。
灯さんへ
晶哉が亡くなる前、あなたの話をたくさんしてくれました。
『僕は、あの人の未来を守りたい』
そう言った彼の顔は、本当にやさしくて、まっすぐで、悲しくて、それでも幸せそうでした。
晶哉の選んだこと、私たち家族は心から誇りに思っています。
あなたが、この先の人生を、笑って生きてくださることが、私たちにとって何よりの願いです。
どうか、あなたの胸で彼を生かしてあげてください。
晶哉の母より
灯はそっと手紙を折りたたみ、胸に当てた。
花の香りに包まれた空の下、ただ静かに涙が流れた。
でも、その涙は悲しみじゃなかった。
“ありがとう”と“さようなら”を、ようやく心で言えたから。
「晶哉、全部行ったよ。あなたが行きたいって言ってた場所。どこもあなたが似合いそうなところばかりだった」
返事はない。
けれど、風が吹いた。
灯は、笑った。
空を見上げて、小さく、でも確かに微笑んだ。
「次は、私が行きたい場所に、連れてってあげる」
まだ知らない景色。
まだ見ぬ未来。
そのすべてに、あなたの鼓動とともに……