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シトリンの姿を見るや否や、座っていた者は立ち上がり、立ち歩いていた者は席の場所まで慌てて戻り、深さや体勢がバラバラの統一感が無い礼をして、その姿勢で凍りついた。
あまりにも騒がしい宴席になっていたので、誰もシトリンが入室したことに気が付かなかったのだ。そこを姫様の声が貫いたので、全員大慌てである。
「そう硬くならないでくださいまし。頭を上げて、お座りになってくださいな」
シトリンは、優しく微笑みかけながら、男衆に再び座るよう促した。男衆にはその表情は見えていないが、少なくとも怒った様子は無い声色である。
命じられたら、その通りにするしか無い。
男衆は頭を下げたまま、近くの者と目配せをし合ってから、おそるおそるといった様子で席についた。酒が回りきった赤ら顔だが、ひとまずシャキッと居住まいを正した。
「本日はわたくしのためにお集まりいただき、誠にありがとうございます。皆様のお働きのおかげで、事業は軌道に乗りつつあります。まとこに、祝着至極に存じます」
シトリンは、流れるように朗々と口上を述べた。実に気品のある仕草で、胸のあたりに手を添え、腰を折り曲げて、丁寧に感謝の意を表した。
のだが、男衆としては、侍従が言っていた『姫殿下から語られる要件』がいつ始まるのかと、気が気でない。
給金が増えるのかと妄想していた者も、それにしては物々しすぎると不安になり始めている。
シトリンは、もったいつけている訳ではないが、一拍の間を置いてから続けた。
「本日お集まりいただきましたのは、皆様にお願いがあっての事でございます」
(そらみろ、やっぱりだ)
シトリンが要件に触れ始めると、ザックはいよいよ解雇を告げられるのだと確信した。
向こうから、これ以上頼む事など『仕事を辞めてくれ』以外あり得るようには思えなかった。
しかし、シトリン姫殿下が放った言葉は、予想とはまるで違う言葉だった。
「近々、グレンヴァル山への観光登山を始めようと計画しています。しかし、それに誰を連れて行くのか、それが問題なのです」
(んん?)
ザックは思いもよらない展開に、頭を混乱させた。
他の者達も、何を言われているのか今ひとつ理解出来ず、周りの者と目を合わせて疑問符を飛ばし合っている。
「皆様のような、屈強な方々。これは登山くらい出来て当然と、世間では思われるでしょう。わたくしのような身分の高い者。これも、荷物持ちや護衛を付けて楽に登ったと言われるのが関の山でしょう」
男衆は、まだ話の筋が掴めない。全員が首を傾げながら、姫君のお言葉に耳を傾けている。
「観光であるのなら、誰でも簡単に登れる事を示さなくてはなりません。だから、無位無冠の普通の方を選出したいのです。そこで皆様にお聞きします、そのような方に心当たりは無いでしょうか?」
シトリンが言い終わって数秒後、男衆はようやく話を飲み込んだ。飲み込んだのだが、この状況でホイとアイデアが浮かぶものでもない。
それぞれに、近くの者と小声で相談を始めた。
「普通の人って事は、そこらの母カァとかって事か?」
「そんな事急に言われてもよ……なぁ?」
話が急に事もあるし、酒が回った頭では余計に考えられない。
そんな中、気詰まりな空気を破ったのは、男衆の中でも一番若いザックであった。
「おっ……女将っ!竜山亭の女将なんてどうですかね!?」
ザックは、他の者よりは酩酊していなかったし、今日の要件がお役御免の言い渡しでないと分かったおかげで、いくらか冷静になれていた。それでも声は裏返っていたが、発言出来てだけ、他よりずっと冷静だ。
そんな彼の頭に浮かんだのは、自分が赤竜の事で愚痴をこぼした時、彼の手を取り、励まし……、励まそうとして握った手が、あまりにも艷やかだったので羨ましがった、竜山亭の女将の姿であった。
シトリンは、竜山亭を知らなかったが、知らないという事は、それだけ大衆的な店であるとも考えられる。シトリンは、興味を惹かれ、詳細を聞こうと尋ねた。
「わたくし不勉強ながら、その店、その店の店主について存じません。推挙した理由も含めて、詳しく聞かせていただけますか?」
「へ……へいっ」
ザックが、女将の人となりや、先日の出来事などを、出来るだけ詳しく語って聞かせた。
それに反応したのは、シトリンではなく、他の男衆であった。
「そういうのでいいなら、俺も心当たりがあるぜ」
一番年嵩の男がそう言うと、それに続いて我も我もと意見が出てきた。
自分だけでは考えがまとまらなくても、例題があると思考が進むというのはよくある事で、今の彼らはまさにその状態であった。
ほんだ