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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
「――ミカゲ・ライフの御影蒼真社長の妻、澪さん、二十九歳が亡くなりました」
病室の天井近くのテレビが、私の名前を読み上げた。
包帯の隙間から見える画面には、黒く焼けただれた白い車。私の車だった。
死んだのは、私らしい。
声を出そうとすると、喉の奥が裂けるように痛んだ。
指一本動かせないまま、私はあの雨の夜を思い出していた。
*
十一月二十日。冷たい雨が、夕方から窓を叩いていた。
私は厨房で、陽翔の明日のお弁当に入れる卵焼きを焼いていた。
甘酒を少し混ぜると、冷めても固くならない。四歳の息子は、食の細い日でもこれだけは残さない。
左手で菜箸を返し、巻いた端をそっと押さえる。
この家の厨房には、戦前からの配膳リフトがある。
ロープを手繰って箱を上げ下げする、小さな昇降機だ。二階の配膳室と、地下のワインセラーまで、一本の竪穴でつながっている。
その竪穴から、声が降りてきた。
「……ああ、麗奈。大丈夫、母さんはもう和館で寝てる」
夫の蒼真の声だった。二階の書斎は、配膳室と壁一枚しか隔てていない。
麗奈。社長秘書の、花園さん。
浮気なら知っていた。
二人が並んでホテルに入る写真は、温室の鉢の下に缶ごと埋めてある。いつか陽翔の手を引いて、この家を出る日のために。
けれど、次の言葉で菜箸が止まった。
「来週の別荘で、片をつける。ブレーキは堂島に仕込ませた」
フライパンの上で、卵の端が焦げていく匂いがした。
「保険? とっくに掛けてあるよ。二億。……泣くなって。澪がいなくなれば、全部うまくいくんだから」
私はエプロンのポケットから、小さなボイスレコーダーを出した。
料理の段取りを吹き込むために、いつも持ち歩いているものだ。
赤いランプを点けて、リフトの扉の隙間に寄せる。手が震えて、二度、取り落としかけた。
「堂島には、終わったら五百万。あいつは金さえ払えば黙る」
そのとき、玄関ホールで、ぎい、と木が鳴った。
大階段の、下から十三段目。
この家の者はみんな、無意識にその段を跨ぐ。蒼真がそれを踏むのは、ひどく急いでいるときか、酔っているときだけだ。
私は録音を止め、レコーダーをリフトの箱に入れた。
ロープを手繰る。箱は暗い竪穴を下りていき、地下のワインセラーで、ことりと止まった。
扉を閉めて、フライパンの前に戻る。焦げた卵焼きを、まな板に移す。
「いい匂いだな」
蒼真が厨房に入ってきた。白いシャツの袖をまくり、左手首には腕時計が光っている。
結婚した年、私が家事代行の給料を一年貯めて贈ったものだ。
後ろから腰に腕が回り、頬にキスが落ちた。
「焦げてる。澪にしては珍しいじゃん」
「……蒼ちゃんが、急に来るから」
自分の声が、ひどく遠くで聞こえた。
彼は笑った。右の頬に、えくぼができる。私が好きだった顔だ。
「明日の弁当? 陽翔は幸せ者だな」
「お風呂、沸いてるよ」
「ん。先に入る」
彼が出ていくまで、私は卵焼きを切り続けた。
全部、同じ厚さに。
*
子ども部屋の灯りを落とすと、陽翔がうさぎのぬいぐるみを胸に抱き寄せた。ぴょんた、という名前だ。
「ママ、ねんねの舟、うたって」
母が私のために作った子守唄を、私は小さな声で歌った。
ねんねの舟は ぎいこ ぎい
あさのみなとで まってるよ
くせっ毛の頭を撫でていると、陽翔の指が、私の左手の人差し指をなぞった。
古い傷がある。前に、台所で落ちてきた包丁から、この子をかばったときのものだ。
「あしたの朝、ママが起こしてくれる?」
「うん。卵焼きも入れたからね」
「やくそく」
陽翔は布団から手を出して、私の耳を二回、ぽんぽんと叩いた。
指切りより、こっちのほうが好きなのだという。私も同じように、小さな耳を二回叩き返した。
連れて行きたかった。
けれど、眠った子を抱いて雨の中へ出れば、蒼真はすぐに気づく。
来週まで、まだ時間はある。今夜のうちに警察へ行き、話を聞いてもらって、明日、レコーダーを取りに戻ればいい。持ち歩いて見つかるより、あの暗いセラーのほうが安全だ。
私は自分にそう言い聞かせ、陽翔の額に唇を寄せた。
勝手口で生成りのエプロンを外し、ベージュのコートを羽織る。
柴犬のムギが、鼻を鳴らして足にまとわりついてきた。右耳の少し折れた、赤いバンダナの子。
私は口笛を短く二回、長く一回吹き、左手を下に二度振った。
ムギは不満そうに、それでも床に伏せた。
「いい子。すぐ戻るからね」
*
車に乗り込むと、私は左手の薬指から結婚指輪を抜いて、コートのポケットに落とした。
御影邸は丘の頂上にある。駅へ下りるには、七つの急カーブが続く「七曲り坂」を通るしかない。
雨がフロントガラスを叩き、ワイパーが追いつかない。
二つ目のカーブの手前、街灯の下に、ずぶ濡れの女の人が立っていた。
骨の折れた傘を、それでも律儀に差している。
私は車を停めて、窓を下ろした。
「駅まで行きます。乗ってください」
「すみません、助かります。下のバス停まで歩こうと思ってたんだけど、傘がこんなになっちまって」
助手席に乗り込んだ彼女は、三十歳くらいだろうか。丸い目をした、よく笑う人だった。言葉に、どこか山のほうの訛りがある。
「上のお屋敷で、面接してもらってたんです。大奥様が、来月から人手が要るからって。……採用、してもらえたんだに」
来月から、人手が要る。
私がいなくなったあとの、この家の段取りだ。そう聞こえた瞬間、ハンドルを握る手が止まらなくなった。
「奥さん、手、震えてる」
彼女は私の顔をのぞきこみ、それから迷わず言った。
「代わりましょうか。旅館で送迎のバスも運転してたで、こういう坂は慣れてるんです」
待避所で席を替わった。
濡れたブラウスのまま震えている彼女に、私は自分のコートを脱いで掛けた。
「着てください。風邪を引きます」
「……あったかい」
彼女は自分のバッグを、助手席の私の足元に置いた。
ミラーの中で、後ろからついてくる車のライトが一つ、雨ににじんでいた。
三つ目、四つ目のカーブを、彼女は丁寧に下りた。
「そうだ、私、名前も言ってなかったですね。私――」
五つ目のカーブの手前で、彼女の声が止まった。
ブレーキを踏む足が、床まで沈んでいく。
「止まらない……!」
ガードレールの切れ目が、ライトの中に白く浮かんだ。
次の瞬間、世界がひっくり返った。
*
ガソリンの匂いで、目が覚めた。
車は斜面の木に引っかかって止まっていた。ボンネットの奥から、橙色の光が漏れている。
私は割れた助手席の窓から泥の上へ這い出した。腕に、彼女のバッグの持ち手が絡まっていた。
運転席の彼女は、ハンドルに額をつけて動かない。
ドアは歪んで開かなかった。窓から腕を差し入れ、シートベルトの留め具を探す。外れた。彼女の腕をつかんで引く。
炎が、ふくらんだ。
熱い、とは思わなかった。頬と喉に当たった熱が、痛みというより真っ白な光になった。
息を吸うたびに、喉の奥が焼けていく。
彼女のまぶたが、わずかに開いた。
私の手を一度だけ握り返し、それから、そっと押し戻した。
唇が「行って」と動いた気がした。
炎が窓を舐め、私は泥の中に投げ出された。
雨の音の向こうで、坂の上にライトが一つ止まっていた。
しばらくそこにあったライトは、やがて向きを変え、坂を上っていった。
*
テレビは、まだ私の死を伝えていた。
誰かが、シーツの上の私の手を握った。白い制服の看護師が、私の顔をのぞきこむ。
「佐伯凛さん。聞こえますか、佐伯さん」
それは、私の名前ではなかった。
コメント
2件
ありがとう
うわ、完全に引き込まれた……。最初の「死んだのは、私らしい」という一文からもう心臓掴まれました。配膳リフトを使って録音する機転、そして陽翔との「耳を二回叩く」約束の優しさに、既に澪さんのことを好きになってしまっている自分がいます。 特に、身代わりになってしまった佐伯凛さんの「あったかい」という台詞が胸に刺さりました。彼女が誰なのか、なぜあの場所に立っていたのか――伏線がいくつも仕込まれていて、続きが気になって仕方ないです。これは序盤から世界観と緊張感がしっかり構築されている、見事な書き出しだと思います。