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一週間で、東京は現金の街になった。
電子マネーは誰も受け取らなくなった。クレジットカードも、QRコードも、ポイントも。残高が増えたり減ったりする金を、誰も金とは呼ばなくなった。
代わりに、紙が王になった。
要は商店街を歩いていた。肉屋の前に札が出ている。『現金のみ。釣り銭不足。小銭歓迎』。八百屋の前にも。『両替不可』。どの店も、紙幣を受け取るときに一度、光にかざす。透かしを見る。十年前なら、誰もやらなかった仕草だ。
「ニセ札が出てるんだって」
つむぎが言った。区役所はまだ開いていたが、来る人は減っていた。証明できないとわかった人は、二度と来ない。つむぎは昼休みを、要と商店街で過ごすようになっていた。理由は聞いていない。聞くと、終わる気がした。
「出るでしょうね」要は言った。「印刷機は動いてる。透かしだって、本気でやれば」
「じゃあ、お札も信じられなくなる?」
「いつかは。でも、お札はまだマシです」
「どうして」
「増えないから」
要は、肉屋の店主が札を光にかざすのを見ながら言った。
「電子の金は、増えました。一晩で、本物が無限に。お札は、偽物が混ざることはあっても、本物が勝手に増えはしない。手の中にある一枚は、一枚です。この差は、大きい」
「古い方が強いの?」
「古い方が、物理に近い。物理は、ハックしにくい」
つむぎは、少し考えてから言った。
「でも、お金が足りない」
そのとおりだった。ATMは止まった。銀行は閉まった。現金は、大剥離の日に財布にあった分しかない。ある人は十万円持っていて、ある人は二千円しか持っていない。給料は振り込まれない。振り込まれても、信じられない。
東京には、まだ食料があった。倉庫にも、店の裏にも。だが食料と人の間に、金がなかった。
商店街の端に、小さな文房具屋があった。店主は七十近い女性で、商店街の会長をしていた。
「困ってるのよ」会長は、要とつむぎに言った。「うちの商店街で、ツケで売ってくれって人が増えてるの。現金がないから。でも誰にツケていいか、わからない。顔は知ってるけど、名前と住所が本物かどうかわからない。昔は、顔で売ってたんだけどね」
「昔は」要は聞き返した。
「私が子どものころよ。通帳なんてなかった。米屋の帳面に名前が書いてあって、月末に払う。それで回ってた」
要とつむぎは、顔を見合わせた。
「帳面は、誰が持ってたんですか」
「米屋よ。米屋が、嘘を書いたら商売が終わる。だから嘘を書かない。それだけ」
それだけ。要は、その言葉を頭の中で転がした。
帳面は、米屋の信用で成り立っていた。米屋は、商店街の評判で成り立っていた。評判は、顔見知りの記憶で成り立っていた。どこにも、サーバーがなかった。
「会長」要は言った。「ツケで売る相手を、決める方法を作りませんか」
「どうやって」
「まず、顔です」要はつむぎを見た。「彼女は、一度見た顔を忘れません。商店街でツケを使いたい人は、彼女の前に来て、顔と名前を言う。彼女が覚える。記録は、彼女の頭にしかない。ハックできない」
「私が、帳面になるの?」つむぎが言った。
「帳面の、一ページ目に。それと、紙の帳面もつけます。ただし一冊じゃない。会長と、肉屋と、八百屋の三人が、別々に同じことを書く。一冊が書き換えられても、二冊が残る」
「三冊も? 面倒ね」
「面倒な方がいいんです」要は言った。「速くて便利なものは、全部やられました。遅くて面倒なものだけが、残った」
会長は、しばらく要を見ていた。それから、店の奥から古い大学ノートを三冊、持ってきた。
「紙は、あるわよ。文房具屋だもの」
その日の夕方、商店街の入口に、紙が一枚貼られた。
会長が書いた字だった。
『ツケ希望の方へ 文房具屋の前で、顔を見せること』
顔を見せろ。
要はその紙を見て、思った。十年前、誰かが「顔を見せろ」と書いたら、差別だと言われただろう。IDがあれば足りた。顔は要らなかった。
今は、顔しかない。
つむぎが隣で、紙を見上げていた。
「私、たぶん三百人は覚えられる」
「三百人」
「商店街には、足りる」
足りる。東京には足りない。日本には足りない。でも、ここには足りる。
要は、それでいいと思った。狭くていい。まず、ここからだ。
(第5話「御殿」へ続く)
コメント
1件
読み終えました。第4話、とてもよかったです。 「増えないからマシ」という現金評、そして「遅くて面倒なものだけが残った」という要の信念に、ぐっときました。電子マネー社会が崩れたあと、帳面と顔覚えという原始的な信用に戻っていく工程が、SFというより人類学的で惹かれます。つむぎが「三百人覚えられる」と言うところ、たった三百で「ここには足りる」と要が納得するところ、この眼差しのスケールの切り替えが効いていて、物語の手触りがぐっとリアルになりました。次が楽しみです。