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かたかたとタイピングをしているが、頭がまっしろで……なにも、考えられない。――課長が。
課長が、肺炎?
ひとり暮らしだけれど、大丈夫? 家族は……ご実家は遠いんだっけ? 課長の実家がどこなのかすら知らない。……会社に来られないくらいに、具合が悪くって……あのマンションで。あの、わたしと愛をあたためあった1LDKの一室で、孤独に過ごしているのだろうか……。
「桐島ちゃん」
不意に、背後から中野さんに呼ばれ、はっ、と意識を取り戻す。「……はい」
「ちょっと資料整理するのつき合って。第三予約しといたから。……部長、ちょっと桐島さんと第三で話してきますー」
はーい、と朗らかに応える部長の声を受けて、わたしは中野さんに従い、第三会議室へと向かった。
* * *
「大丈夫。……じゃ、なさそうだね……」
悪阻で苦しむ妊婦さんに心配されるとは。なんだか申し訳ない。
砂糖をたっぷり入れたカフェオレを喉に流すわたしに、中野さんは、
「ごめんね。桐島ちゃんの様子がおかしいのは、ずっと前から気づいていたんだけど……踏み込んじゃいけないのかなー、と思っていて。それに、こっちもばたばたしていて……妊娠してびっくりしたりでもう……色々と」
「お気遣いありがとうございます」とわたしは頭を下げた。「中野さんの場合は、赤ちゃんの命がかかっているのですから。赤ちゃんのことを、最優先にすべきです……」
「三田課長と、どうしてぎくしゃくしているか、……話せるかな?」
「でも、いまは就業時間中ですし……」
「そうはいっても、桐島ちゃん。メンタルが一番大事だよー。気持ち、大事。いま、この取っ散らかってる状況じゃ、桐島ちゃん、仕事どころじゃないでしょう?」
……確かに。
そういうわけで、わたしは、中野さんに話した。……ややアブノーマルなプレイのことを除いて、課長に、奢って貰い、それでわたしが怒ってそこから……別れ話にまで発展したこと。別れたこと。
聞き終えた中野さんはノンカフェインの紅茶をふーふーすると、
「あ。なんかごめん。あたし、……課長派だわ……」とまとめあげる。どういう意味です? とわたしが聞くと、
「あたしね。男っぽい性格してるからなんとなく……三田課長の気持ちが分かるな。三田課長は単に、桐島ちゃんに喜んで貰いたかったんだよ。好きなひとにわんさかプレゼントを買って、プリティウーマンのリチャード・ギアの気分を味わいたかった……桐島ちゃんに、プリンセス気分に浸って欲しかったんじゃないかなあ? だから、三田課長は逆上したのではないかと……」
そっか。課長は、あの行動でわたしが喜ぶとばかり思っていた。それが、あの反応で、怒ってしまった、と。
「うち、給料結構いいほうじゃん? あたしだって爆買いすることはあるよー」といつも仕立てのいい服を着る中野さんは言う。「ストレス溜まるとばーっと服買ってすっきりするの。そういうことって、誰にだってあると思うよ。
それに、三田課長。バブリーって感じもしないじゃん。高いものといえばブルガリの時計くらいで、以外は普通のスーツじゃん。昼間は慎ましくコンビニ弁当だったりするし。普段から金遣い荒いって感じはしないよ。……思うに、ふたりは、行き違ってしまったんじゃないかな? 桐島ちゃんのために課長は暴走して、んで……桐島ちゃんは桐島ちゃんで、素直に伝えられず、追い込む発言をして、互いに墓穴を掘っちゃった……ってとこかな?」
「課長が心配です」とわたし。「課長……わたしとおんなじで、ひとりで抱え込むタイプだから……マンションでひとりで大丈夫なのか……すごく、心配で。出社出来ないくらいに具合が悪いのなら……頼ってくれたって、よかったのに……」
「三田課長はそこそこプライドの高いひとだからさぁ。弱み、見せると自分が許せなくなるタイプなんじゃない? ……彼自身も、変わる必要があるよねえ。少なくとも、結婚したら、そんな鉄仮面は、脱ぎ捨てなきゃならない。家庭というテリトリーにおいてはね。
桐島ちゃん。あと一時間半、頑張れる? ……ごめんね、本当は、いますぐ行きなさい! って背中を押してやりたいんだけどね……」
年始の忙しいさなか、中野さんはわたしのために時間を割いてくれている。
「あっいえいえこれは個人的な事情ですので……そんな。皆さんに迷惑をかけるわけには……」
「なに言ってんの桐島ちゃん」けろりと中野さんは答える。「三田課長も、桐島ちゃんも、うちらの大切なファミリーなんだからさぁ。家族が困っているのを放置するわけには……いかないよ。ねえ?」
そして中野さんが立ち上がり――ドアを開けば、経営企画課の面々の姿がそこにはあった。
「ごめん。桐島ちゃん」
「途中からだよ。『課長が心配です』のくだりから……」
「ごめん桐島ちゃん。課長も……見ていられないんだ。なんとか出来るのはきみしかいないと思う」
次々に声をかけられ、……ああ、課長にはこんなにも慕われているのだ、とわたしは実感する。鉄仮面。サイボーグな課長であっても、こんなにも、彼のことを心配する仲間がいる……。
「親身になってくださり、ありがとうございます」とわたしは彼らの前に立ち、頭を下げた。「それでは……申し訳ありませんが、午前で早退させて頂き、それから……課長のところに行って参ります」
わぁ、と歓声が沸き起こった。中野さんは拍手をしながら微笑み、
「頑張れ桐島ちゃん。……みんな、あなたの味方だから……。ツンデレな三田課長のことを、どうかよろしくね」
力強くわたしは答えた。「……はい!」
* * *
フロアを抜けて、エレベーターホールに繋がる廊下を出たところに――広河さんが立っていた。いつもにこやかな彼にしては珍しく、シリアスな表情で、
「……行くの?」
「……はい」
「そっか」と広河さんは何度も頷く。「分かった……なら、おれに出来ることはただひとつ」
すぅ、と広河さんは大きく息を吸うと、
「フレー。フレー。莉ー子ーちゃん!」
お昼休みに差し掛かり、なにごとかと見てくるひともいる。だが彼らの目線をものともせず、広河さんは、
「フレーフレー莉子ちゃん!」
声を張る。振り付けもして。何故か……彼の後ろに男性社員が何人も立ち、同じように、わたしを鼓舞してくれる。
胸が、熱くなった。誰からも必要とされてない、孤独な自分はもう、過去のもの。こうして……いろんなひとたちに支えられて、自分の人生は、成り立っている。
激しいパフォーマンスを終えると、広河さんは、肩で息をした。「おれ、学生の頃、応援団長をやっていたの……それで」
じゃあな、と広河さんは手を振り、「三田課長に言っといて。……おれたちの莉子ちゃんを、幸せにしねえと、承知しねえぞ! って……」
くすくす笑い、わたしは手を振り返した。「分かりました。伝えておきます……」
「頑張れー桐島ちゃん!」
「課長、絶対桐島ちゃんのこと好きだって!」
「未練たらたらだってのあいつ!」
「幸せになれー!」
そうしてわたしがエレベーターに乗り込むまで、広河さんたちは激励し続けてくれていた。
* * *
電車で一時間弱の道のりがこれほど長く感じられるとは。昼間ということも手伝い、夢の国に飛び立とうとする若者の姿も目立つ。……課長と、ランドでデート。うん。してみたいな……。
課長。わたしのことを、どう思っているのだろう。
窓に映る自分の影を見つめると、急に、……不安になってきた。
だって、三ヶ月も経ったのよ? あでやかだった季節は終わりを告げ、人生の終末を感じさせる冬を迎えて。……寒い感覚を覚えて。課長のこころも……冷やされているかもしれない。
課長の気持ちがあの頃と変わらないだなんて、誰が保証出来るのだろう。
いけない、とわたしは首を振る。こうして後ろ向きになったところでなにが生まれるのか。みんなにあんなに応援して貰って。あの応援を、エネルギーに変えるべきところなのだ。わたしは、みんなの激励を蘇らせる。
葛西臨海公園駅に着くと、スーパーに立ち寄り、卵や林檎を買い込んでから、課長のマンションへと向かう。返せなかった合鍵が役に立つかもしれない。エントランスで課長の部屋を呼び出しても無反応で、……泥棒みたいで申し訳ないけれど、鍵を使って課長の部屋へと進んだ。
念のため、部屋のインターホンを鳴らしても無反応で。時計を見た。午後の一時半。……病人なら寝ていてもなんら不思議はないか?
「あのー。課長ー。莉子ですー。具合が悪いって聞いていますー。入りますよー」
鍵を開けて、玄関に入る……と鼻孔を突く、懐かしい課長の部屋の香り。静かで、清潔で……綺麗な空気が漂う中で、ひそやかな課長の気配を感じられる。わたし、ここが、大好き。
課長と何度も愛を重ねたこの部屋を進むと、自然と涙がこぼれでる。わたしは拭うこともせず、ただ、進み、
「課長ー。どこにいるんですかー」
ソファーのところにもキッチンにもいない。風呂場にも。……とここまで探し回ったところでわたしはようやく気づいた。なにを考えているのだろう。病人なのだから、当然……、
「課長。見ぃつけた……」
キッチンに一旦買い物袋を置いてから、寝室に行く。……初めて、課長の部屋で目を覚ました思い出のベッドで、課長は、眠っていた。子猫のように穏やかに。
改めてわたしは自分の気持ちに気づく。――わたし、課長が好き……。やっぱり、どうしても忘れられない。このひとの、この無防備な顔を見るとわたしの血が、騒ぐの。子宮が疼くの。……わたし、子宮で課長に恋をしている。
課長の傍で、そっと横になった。眠るあなたの顔を見つめる。……自然、わたしのこころのなかはあたたかいものに満ちていく。……大好きだよ課長……。わたしの、最愛のひと。お願いだから、こころを閉ざさないで。わたしは、あなたを理解するためにここに来た……そのことを分かって。
その想いが伝わってか。眠っていたかに見えた課長が、突然目を開いた。ぱちくりと瞬きをし、
「……れ。夢……夢だよな……これ」ぴたぴたとわたしの頬や頭に触れ、「夢だとしたらなんという幸せなのだろう。おれ、すっげ……幸せ」
笑顔でわたしを抱き締める。この魅力的な感触も匂いも恋しいのだけれど、わたしには言わなければならないことがある。
「――夢じゃ、ないです課長……」
「本当?」
わたしは彼のぬくもりに浸りながら言葉を探す。「わたし……話をしなきゃ、って思っていて……それから、お礼も言えていないし……言えずじまいですし。ずっと後悔していて……」
「――聞くよ。莉子。おれはどこにもいかない……次に会えたときに、ちゃんと向き合うっておれは決めたんだ。……莉子。きみの真実を、おれに教えて……?」
肩を抱かれ、まっすぐに見据えられ、わたしは――勇気を出すタイミングが訪れたのを悟った。――頑張れ。勇気を出せ。当たって砕けるんじゃない、ものにしろ――自分で自分を鼓舞しながらわたしは口を開いた。
「――あの。わたし……」
*