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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
背の高い、眼鏡の男の人。
管理人さんに、それが誰かと聞く必要はなかった。
去年の冬から。
私がまだ病室で、包帯の下の顔に触ることもできなかったころから。
私は、管理人さんに頭を下げて、山門を出た。
坂の下のバス停で、膝の上に手袋の手を重ねて、バスを待った。
聞きたいことが、喉の奥で渦を巻いていた。
どうして。誰のために。いつから、私が生きていると。
その夜、ムギの散歩のあとで、離れの縁側に座った。
榊さんは、いつものように、ぬるい麦茶を出してくれた。
沓脱ぎ石の上に、脱いだ革靴が揃えてあった。
靴の縁に、赤い土が、少しだけ乾いてこびりついていた。
遍照寺の墓地の、杉の根元の土と、同じ色だった。
私は、何も聞かなかった。
聞けば、この人はきっと、本当のことを答える。
答えを受け取る準備が、私にはまだなかった。
「どうした」
榊さんが、湯呑みを置いた。
「いいえ。……麦茶が、おいしいので」
榊さんは、眼鏡の奥で、少しだけ目を細めた。
それきり、何も聞かなかった。
*
九月二十二日の夕食の席で、蒼真がグラスを掲げた。
「三十日に、発表会をやることになった」
上機嫌だった。
主幹事に細かいことを聞かれていると苛立っていた人とは、別人のようだった。
「ミカゲ・メソッド認定制度。うちの家事スタッフ八千人に、研修と試験を受けてもらって、認定家政士の資格を出す。記者も呼ぶし、登録スタッフも招待する。……上場承認の前の、最後の花火だ」
「すてき」
麗奈が、両手を胸の前で合わせた。
「私も、行っていいでしょ? 社長夫人として、ご挨拶したいの」
蒼真は、一瞬だけ口ごもった。
「……ああ。前のほうに、席を用意させる」
お義母さまは、何も言わずに、ゆず味噌を塗った茄子に箸を伸ばした。
「凛さんは、お留守番ね」
麗奈が、私のほうを見ずに言った。
「陽翔くんのお迎えも、あるし。ホテルなんて、着ていく服もないでしょ」
「かしこまりました、奥様」
陽翔が、お茶碗の陰から、ちらりと私を見た。
それから、自分の耳を、そっと一回だけ触った。二回目は、我慢していた。
三万円の研修代。
八千人。
私は、空いた皿を下げながら、頭の中で数字を掛けた。
*
木曜日、根津の紹介所の二階は、人でいっぱいだった。
トキさんが、登録している家政婦さんたちを、声をかけて集めてくれたのだ。
割烹着の人、作業着の人、仕事帰りのエプロンのままの人。十人以上が、座布団を分け合って座っていた。
「取り分を下げられて、もう辞めようかと思ってたのよ」
五十代くらいの人が、腕を組んで言った。
「それで今度は、三万払って、認定とやらを受けろって。受けなきゃ、仕事を回さないって言うんだから」
「私、五年前の最初の研修、受けてるの」
一番奥に座っていた、白髪の女の人が言った。
「配られたのは、手書きのノートのコピーだった。癖のある字で、余白に、ここ大事、なんて書いてあってね。社長さんは、そのとき一度も研修に来なかったわよ」
部屋が、静かになった。
「テレビで、自分が現場を回って作ったって言ってるの、見たわ。……あのノートを書いた人に、悪いと思わないのかしらね」
私は、膝の上の手を握りしめた。
隣の人が、私の手袋をちらりと見た。
「あんた、凛ちゃんだっけ。トキさんとこの、お屋敷に住み込みの」
「はい」
「手袋の上からでもわかるよ。働いてる手だ」
その人は、自分のひび割れた指を、私の手の横に並べた。
同じように、関節が太く、爪が短かった。
ここ大事。
清書したとき、新人さんが読み飛ばさないように、余白にそう書いた。
「三十日の発表会、招待状が来てるの」
誰かが言った。
「認定制度の説明会も兼ねてるんですって。行く人、いる?」
手が、ぱらぱらと上がった。
一人、二人、五人、十人。
「うちのつてで、もっと声をかけてみるよ」
トキさんが、丸眼鏡を押し上げた。
「八千人が、みんな黙って三万払うと思ったら、大間違いだよ。家政婦ってのはね、その家の秘密を墓まで持ってく仕事だけど、自分の仕事を盗まれて黙ってる仕事じゃないんだ」
トキさんは、自分の膝を一つ叩いた。
「三十人は行く。私も行く。現場の声ってやつを、社長さんの耳に、ちゃんと聞かせてやろうじゃないか」
*
その夜、離れの卓袱台で、榊さんは一通の書面に判を押していた。
「監査法人に送る」
書面の宛先は、ミカゲ・ライフの会計監査を受け持つ監査法人の、責任者の名前だった。
「USBの写しは、入れない」
榊さんは、封筒に書面を収めながら言った。
「入れるのは、十二社の法人契約の、会社名と所在地。俺が自分で法務局に行って取った、登記の記録。半分は、もう存在しない会社だ。残りは、住所に行ってみたら、空き地とコインランドリーだった」
「ご自分で、行かれたんですか」
「株主が、自分の金を出している会社の取引先を、自分の足で確かめただけだ」
榊さんは、封筒の口を閉じた。
「上場の審査中に、株主から書面で疑義が出れば、監査法人は黙っていられない。確かめなければ、自分たちの首が飛ぶ。……掘るのは、向こうの仕事だ」
「いつごろ、答えが出ますか」
「早ければ、承認の前に。あいつらは、上場の直前に一番慎重になる」
榊さんは、封筒を書類の山の上に置いた。
その隣に、裏打ちした凛さんの手紙の、平らな箱があった。
「三十日、俺も行く。株主には、席がある」
それから、声を落とした。
「その前の晩は、早く寝てください。人前で喉を使う日の前は、声を休ませるものだと、言語聴覚士の本に書いてあった」
「……調べたんですか」
「調べた」
榊さんは、それ以上は言わずに、ムギの背中を撫でた。
私の首のスカーフに、一度だけ目をやって、すぐにそらした。
*
土曜日の夜、厨房で明日の仕込みをしていると、蒼真が下りてきた。
酔っていなかった。
手に、ホテルの宴会場の図面を持っていた。
「凛さん。ちょっと、頼みがあるんだ」
配膳台の上に、図面を広げた。
舞台の脇に、小さな作業台の印があった。
「発表会で、実演をしてほしい。現場の家政婦として。ミカゲ・メソッドの、染み抜き」
「私が、でございますか」
「ワインの染みを、記者の前で落としてほしいんだ。手元はカメラで、後ろのスクリーンに大きく映す」
蒼真は、図面の作業台を、指でとん、と叩いた。
「それに、君には話がある。……事故の報告書に、書いてあったんだ。助手席の女性は、運転席の窓の下に倒れていたって」
私の手が、包丁の上で止まった。
「君は、燃えてる車に戻って、澪を助けようとしてくれたんだろ。覚えてなくても、体はそうしたんだ」
蒼真の声が、少しだけ湿っていた。
「妻の事故から生き残った家政婦が、妻と同じ仕事を、ミカゲ・メソッドで続けている。……その話は、きっと、人の心を打つ」
図面を丸めながら、蒼真は付け足した。
「澪も、きっと喜ぶよ。あいつ、家事の仕事が好きだったから」
私は、包丁を置いた。
ええ。好きだった。
あなたが、自分で作ったと言って売り出したあのノートを、書くくらいには。
この人は、自分から舞台を差し出している。
自分の嘘を、一番大勢の人が見ている場所に、私を立たせようとしている。
「……かしこまりました、旦那様」
凛の声で、そう答えた。
ありがとう、蒼真。
あなたの一番大事な日に、あなたの一番近くに、私を立たせてくれて。
蒼真は、ほっとしたように笑った。
右の頬に、えくぼが浮いた。結婚式の写真と、同じえくぼだった。
それから、私の肩に、手を置いた。
「君は、僕の妻の命の恩人だ」
肩の上の手が、温かかった。
「最高の舞台を、用意するよ」
コメント
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うわ、第49話……読み終わってしばらく黙ってしまいました。 蒼真が「命の恩人」って言いながら凛さんを舞台に立たせる皮肉、背筋が冷えました。あの肩に置かれた手が温かいって感じる凛さんの心の温度差が、もう……。 榊さんが法務局に行ったり言語聴覚士の本まで調べてるのが、静かに優しくて好きです。あの「調べた」の一言にどれだけの想いが詰まってるんだろう。トキさんたち家政婦さんの結束力も熱いし、次が待ちきれないです。