Side彼女
パソコンでオンラインミーティングをしていたときに、ちょうど膝に乗ってくる茶色の塊。
「もう。あずき、邪魔しないの」
私の働く会社は在宅ワークが許可されているので、家にいられるというのはありがたい。そのせいでミーティングにはあずきがかなりの確率で乱入してくる。
床に下ろしてもまた乗ってくるから、バレないようにそっと膝の上で撫でておく。
特に滞りなく終わり、パソコンを閉じた。
そのとき、傍らのスマホが着信音を鳴らした。その発信元を見て、嫌な予感が頭をよぎる。
応答すると、どこか切羽詰まったスタッフの声が聞こえてきた。
「あの、今ちょっと京本さんがパニック起こしちゃってるんです。続けられそうにないので、お迎え願えますか?」
はいと電話を切ると、すぐに家を出て車に乗り込んだ。
大我の働く作業所では、同じような障がいを持った人たちがたくさんいる。
静かな人もいれば、スタッフにちょっかいをかけるいたずら好きの人もいる、個性豊かな職場だ。
大我はずっと大人しく作業しているらしいから、パニックを起こすことは滅多になかった。だから余程のことがあったのだろう。
胸中の不安は増すばかりだった。
作業所に着くと、受付で名前を言う。どうぞ、と通されると、顔見知りのスタッフが駆け寄ってくる。
「大我は大丈夫なんですか」
焦って訊くと、「だんだん落ち着いてきてますが、まだ震えが止まらなくて…」
今は休憩室にいるらしい。
歩きながら尋ねる。「何があったんですか?」
「それが、作業しているところの近くに立てかけてあった脚立が倒れちゃって、その大きな音にびっくりしたようなんです。怪我は誰もなかったんですが…」
なるほど、と理解した。彼は突然の大きな音が苦手だ。しかも近くとなれば、平静を保つのは難しい。
案内された休憩室に着くと、何人かが座っていた。
大我は隅のほうで耳を塞ぎ、背中を丸めている。驚かせないように前に回り込み、肩を叩く。
「大我」
顔を上げる。私を見て、強張っていた表情が和らぐ。
「怖かったね。お家帰ろうか」
手を繋ぎ、作業所を後にした。
家に帰るなり、おかえりの挨拶で尻尾をぶんぶんと振るあずきをちょっと撫でてから、ヘッドホンと音楽プレイヤーを持ってソファーに寝転んだ大我。
口にはしないが、相当疲れたのだろう。
大音量は嫌いだけど、音楽なら心地いいらしい。ヘッドホンをつけると穏やかな顔で目を閉じる。
歌うでもなくスピーカーで流すでもなく、愛用の高音質なヘッドホンでじっくり聴くのが彼流だ。
自身の落ち着け方も分かってきた。そっとしておいて大丈夫かな、と家事を始めた。
大我の声に気がついたのは、夕食がもうすぐ完成しようかというところだった。
「ねえ」
柔らかくて儚い声。自分から喋ることはないから、その呼びかけに少し動揺する。
「どうしたの」
ん、とヘッドホンを渡してくる。訳も分からぬままそれをつける。大我が再生ボタンを押した。
それは彼の好きなアーティストだった。でも曲は知らない。
意外とロックが好きな彼。耳の奥でエレキギターやドラムが鳴っている。
「私に聴いてほしかったの?」
こくりとうなずく。
「…良い曲」
その言葉に、笑みが溢れた。
口に表すことは難しくても、大我には大我なりの感性がある。それを知れたのは嬉しい。
彼もまた微笑を見せる。
今度はコンサートに連れて行ってあげようかな。
ロックバンドのライブを生で聴くのは苦手かもしれないから、クラシックがいいかも。
隣に座る彼の温度を感じながらふたりの時間を想像し、自然と口もとが緩んだ。
終わり
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