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金曜日。
それは一本の電話から始まった。
「お客さまコールセンター」に激しいクレームが入った。
三共保険の営業社員に勧められた保険の保障内容が好条件だったため、加入を申し込み、これまで他社で加入していた保険をすべて解約してしまった。
保障開始を心待ちにしていた昨日、「保険加入謝絶」――いわゆる契約不可のハガキが届いたという。
「これはどういうことだ!」
「お客様、もう一度詳しくお伺いさせて頂けますか?」
「他の会社の保険も全部解約してしまったんだぞ! 無保険だ! 担当者を出せ!」
富山支店営業部長が対応に当たることになったが、それは一ヶ月前に奈良が営業先の個人宅で勧めた終身生命・終身医療の契約だった。「(終身生命ゆるやか)(終身医療ゆるやか)」は加入条件が緩和され、高血圧でも契約可能になった商品だったが、日々の血圧値を計測した書類を一枚添付しなければならなかった。
異常値と判定された場合は即謝絶となる。目先の営業成績に躍起になった奈良は、伝えるべき重要な点を失念していた。
①異常値と判断された場合は謝絶となる
②加入できない場合も考えられるため、他社の保険は審査が通るまで解約しない
「奈良くん、失敗したね」
「申し訳ありません」
「申し訳ありませんで済む問題じゃないんだよ」
「はい」
営業部長から「取り急ぎ謝罪に行け」と命じられた奈良だったが、もう一人同行するよう佐川さなが指名された。
「部長、私が契約した内容です。俺だけで行かせてください!」
恋人に失態を見られるのは、奈良にとって恥ずべきことだった。
「いや、佐川くんにも行ってもらう。佐川くん、菓子折りを持って……いや、高血圧か。果物でも見繕ってくれる?」
「はい」
「私一人で行けます!」
「先方は奈良くんの喋り方で君が石川県出身だと気づかれてね。《加賀もん》には任せられないとご立腹なんだ」
「そんな……」
「佐川くん、先輩として頼むよ」
「はい」
富山県と石川県は前田加賀藩のお家騒動の名残で、互いを(越中さ)(加賀もん)と呼び、相反する感情を抱く風習が残っている。
奈良はこの一件から完全に外されることとなった。
「今後は奈良くんを佐川くんがサポートして」
「はい」
佐川さなが白地に青線が入った社用車の黒いハンドルを握り、助手席には果物籠を膝に抱えた奈良が青白い顔で座っていた。
自分が犯した大きな失敗に耳鳴りがし、佐川さなの横顔を直視できずにいた。結果、玄関先で奈良は額を床に擦りつけて土下座し、果物籠を顧客夫人に手渡した。
佐川さなだけが茶の間に通され、高血圧でも加入可能な保険のパンフレットを開いた。
「この度は申し訳ございませんでした」
「……」
「こちらの保険ですが、高血圧の値に関わらず加入できます」
「そんな保険があるのか、間違いじゃないのか?」
「保障額はかなり低くなりますが」
「仕方ない、無保険状態だからな」
「入院と手術のご予定はございますか?」
「ない」
「お医者さまから入院手術の判断をお客様に委ねられてはいませんか?」
「ないわよねぇ、ね、お父さん」
「ない」
「ではこちらにサインと捺印をお願いします」
「ここか」
「はい。審査結果は郵送で一ヶ月後にお知らせとなります。加入の可否につきましては私共が判断するものではございませんので、こちらにお問い合わせください」
佐川さなは淀みなく新しい契約を終えると、問い合わせサポートセンターの名刺をテーブルの上に置いた。
「やっぱり加賀もんは頼りにならんな!」
「おとうさん」
「申し訳ございませんでした」
佐川さなは深々とお辞儀をし、玄関先へと向かった。
そこにはまだ土下座を続ける奈良の姿があった。
金曜日から日曜日は互いの部屋で過ごすことになっていた。
今夜は佐川さなの部屋で夕食を食べる予定だった。
佐川さなは食材の買い物を済ませ、一足先に自室に戻っていた。人参の皮を剥き、鍋に水を入れる。
煮崩れしないようジャガイモはメークインを選んだ。
給料日前で財布は厳しかったが、奈良を元気付けようと奮発して国産の牛肉を買った。
サヤインゲンを塩茹でし、糸こんにゃくの灰汁を取る。献立は肉じゃがだ。
(……奈良くん、遅いな)
奈良の帰りを心待ちにする一方で、恋人の目の前で土下座をした彼の心情を思うと、どんな顔をして、どんな声色で接すればいいのか戸惑った。
その時、インターフォンが鳴り、ガチャガチャと鍵が開く音がした。
「お帰りなさい、遅かったね」
「……うん」
これは失言だった。
奈良が遅かった理由は一つしかない。
大きな損害を営業部長から叱責され、震える手で始末書を書き、同僚の憐れみの目で見送られて社屋を後にしたに違いなかった。
「あ、あの、今夜は肉じゃがにしたから」
「……うん」
今回のことで奈良は大きなペナルティを背負い、今日の一件で佐川さなは契約を結び、営業成績に☆一つが加点された。
「そうか、楽しみだな」
「うん」
力なく答えた奈良は佐川さなの目を見ることもなく、ビジネスリュックをフローリングの床に放り投げ、不機嫌な大きな足音を立ててバタンと力任せにシャワールームのドアを閉めた。
大きなため息が漏れた。営業であればこのようなトラブルは幾らでもある。
ただ、恋人同士で同じ案件に対処し、片や大きな損失を出して片やポイントを上げるなど、稀なことだろう。
しかも奈良と佐川さなは営業成績を前後して争う競争相手だ。
(どうしよう、どう話し掛けたら良いの、どうしよう……)
沸騰する鍋の蓋がカタカタと音を立て、吹きこぼれた煮汁のように不安がガスコンロに広がった。
シャワールームの水音が止み、髪の毛を忙しなく深緑のフェイスタオルで拭きながら奈良が豆の形のテーブルの前に胡座をかいた。
「ビール、飲む?」
「今夜は要らない」
「そ、そう」
奈良は二人の会話をかき消すように、徐にテレビのリモコンを握った。
馬鹿馬鹿しく戯けるお笑い芸人が画面の中でポーズを取り、周囲からドッと笑い声が上がる。
やがてそれはチョコレートのCMになり、タイミング悪く三共保険の新しい保険商品が液晶画面に映し出された。
ブツっ。
黒くなったテレビに映るのは、苦々しい奈良の顔だった。
佐川さなは無言で肉じゃがを器に盛り、黒い箸を添えて奈良の前に置いた。
優しく甘ったるい北陸ならではの出汁の匂いと湯気が漂うリビングだが、二人の間、特に奈良の周囲は冷ややかな空気に包まれていた。
ほろほろとしたジャガイモを口に運ぶが、喉で詰まりそうな感じがする。
居心地は最悪だった。
「奈良くん、あんまり気にしない方がいいよ」
「なにが」
「病気のお客さんはみんな保険に入りたくて必死だから」
「それで?」
「私のお母さんも腎臓病で入院したんだけど」
「……」
「保険に入っていて良かったねって」
「だから?」
「ほ、保険営業の仕事って、やり甲斐ある分、いろいろある、けど」
「いろいろってなに」
「い、いろいろ」
奈良は肉じゃがの入った器と箸をテーブルに大きな音を立てて置き、佐川さなの顔を睨みつけた。
「いろいろ、失敗するって言いたいのかよ!」
「そ、そんな意味で言ったんじゃ……」
「どういう意味だよ!」
「きゃ!」
奈良は右手で佐川さなの二の腕を掴むと力任せにその身体を引き摺り、寝室へと向かった。
正座していた膝がテーブルの脚にぶつかり、ずるずるとカーペットの上で肌が痛いと悲鳴を上げた。
「な、奈良くん、痛い! ちょっと、離して!」
「黙れよ!」
佐川さなはベッドの上に放り出された。
「な、奈良くん!」
ベッドの上で佐川さなは抵抗を試みた。
「佐川さんまで俺を馬鹿にするのか!」
「い、痛っ! 馬鹿になんてしてない! やめて!」
(瑠璃なら、優しく笑ってくれる)
「開けよ、膝、開けよ!」
(瑠璃なら)
「いや、嫌!」
その声は届かず、痛みで目を瞑っていた佐川さなが見たものは、恋人の表情をしていなかった。
鬱積したものを吐き出そうとしている、自分勝手な他人だった。
激しく突き上げられる痛み。
奈良の息遣いが荒い。額に汗が滲んでいる。
もうすぐというタイミングでも動きを止める気配はなかった。
「な、奈良くん! 着けて!」
(瑠璃は俺の!)
「駄目! 着けて!」
次の瞬間、奈良の腰の動きが止まり、佐川さなの中に放たれた。
「な、奈良……く……」
(瑠璃なら俺の事を分かってくれる!)
奈良の脳裏には、どんな話でも優しく微笑みながら耳を傾けていた瑠璃の笑顔や優しい仕草が浮かんでは消えていた。
奈良は佐川さなから顔を逸らし、ボクサーパンツとハーフパンツを引き上げ、そのまま部屋を後にした。
「奈良、くん……」
佐川さなは部屋に残された奈良のビジネスリュックをぼんやりと眺めながら、両手で顔を覆った。
流れる涙は止まることを知らなかった。
土曜日、奈良くんは置きっぱなしにしたビジネスリュックを取りに来た。
表情は暗く、リビングに座ることもなく私を見下ろして「ごめん」と言った。
「ごめん」
「なにが、どのこと?」
「ごめんしか言えない」
「え?」
「妊娠したら責任は取るよ」
「責任、責任って、そんな言い方……」
そう言って部屋を後にした奈良くんに「話し合いたい」とLINEを送ったが、既読になるだけで返信はなく、私の部屋に会いに来ることもなかった。
年上だから多少のことは我慢しなければと、505号室の鍵を開けることはしなかった。
けれどこの時、無理にでも会いに行けば良かったのかもしれない。
日曜日、基礎体温計が示す通りに生理が来た。
下腹部の熱した鉄の棒で抉られるような痛みは、生理痛から来るものなのか、無理矢理に迫られた性交の名残りなのか、いずれにせよ今のこの状態での妊娠を望んでいなかった私は安堵した。
私たちが付き合って七ヶ月、奈良くんが瑠璃さんと別れて一週間。
奈良くんと私の関係は、明らかに揺らいでいた。
翌日の月曜日、奈良くんは体調が悪いと会社を欠勤した。
そこまで具合がよくないのかと、営業の外回りのついでに505号室の玄関扉を開けたが、部屋に奈良くんの姿はなかった。
一抹の不安が、胸を往来した。
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