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少年は、二年もの間、この屋敷に閉じこもって暮らした。
外に出れば、自分の存在はすぐに魔界中に知れ渡ってしまう。だから、二度と外に出ることは許されなかった。
剣の稽古と読書、体力づくりの日々。
孤独ではあったが、ヴェルサファーの存在がいつも支えだった。
しかし、時間は待ってくれない。
ついに、冥府仕官試験の日がやってきたのだ。
少年は深呼吸をひとつし、屋敷の扉に手をかける。
その背中に、ヴェルサファーの声が落ちた。
「…待て。」
少年が振り返る。
「お前は元天使だ。その名のまま魔界で生きれば、いずれ必ず気づかれる。」
ヴェルサファーは静かに続けた。
「名前を変えろ。魔界で生きるための名を持て。」
少年は少しだけ考え込み、やがて口を開いた。
「…一つ、お願いがあります。」
「何だ。」
少年はまっすぐに彼を見た。
「ルシオンという名前を…継いでもいいですか。」
空気が凍りついた。
ヴェルサファーの表情が一瞬で変わる。
「…やめろ。」
低い声だった。
「その名前は…」
彼は言葉を選ぶように一度目を伏せる。
「魔界では、裏切り者の名だ。」
冥府を捨て、逃げ出した臆病者。
そう呼ばれる名。
ルシオン。
ヴェルサファーは静かに続けた。
「誇るような名前じゃない。」
少年は首を振った。
「違います。」
ヴェルサファーの視線が上がる。
少年は真剣な顔で言った。
「私にとっては違います。」
拳を握りしめながら続ける。
「ここで生きてこられたのは、あなたがいたからです。」
少年は静かに続けた。
「ここでどう生きればいいのか… 何のために生きるのか…」
少しだけ視線を落とす。
「だから…その名前を守りたい。」
ヴェルサファーの瞳が揺れる。
少年は迷わず言った。
「裏切り者の名前なんかじゃない。」
少し息を吸い、静かに続ける。
「私にとっては、大切な名前です。」
長い沈黙が落ちた。
ヴェルサファーは視線を逸らした。
指先が、わずかに震えている。
「…お前は。」
声が少しだけ掠れた。
「どうして、そんなことを言える。」
少年は少し困ったように笑う。
「だって、本当のことだから。」
その言葉に、ヴェルサファーは小さく息を吐いた。
ほんの少しでも気を抜けば、感情が溢れそうだった。
「…馬鹿な奴だ。」
だが、その声には怒りはなかった。
むしろ、どこか救われたような響きだった。
しばらくして、彼は言った。
「なら、もう一つ名を与える。」
少年が顔を上げる。
「アゼリオン」
その名を静かに告げる。
「アゼリオン・ルシオン」
その瞬間、ヴェルサファーの声はわずかに震えた。
「覚えておけ。お前はもう少年ではない。」
少年ーーアゼリオンは、胸が熱くなるのを感じた。
かすかに涙を浮かべながら、羽を封印するネックレスを首にかける。
羽は胸の奥に沈み、外からは存在しないかのように隠れる。
だが封印を解けば、いつでも空を舞える力が眠っている。
「行け、アゼリオン」
ヴェルサファーは背を向けたまま言った。
「お前なら、乗り越えられる」
少年は頷き、振り返らず歩き出した。
屋敷の外には、灰色の霧と不気味な静寂が広がる魔界の道。
足音を忍ばせながら、胸の奥で誓う。
真実を知る。
ヴェルサファーや自分を守るため、そして天使と悪魔の戦いの理由を、必ず明らかにする。
一歩一歩、少年は進む。
封印された羽は、重くもなく、軽くもなく、未来への希望と覚悟を静かに支えていた。
アゼリオン・ルシオン。
この名が、いつか魔界の暗闇を切り裂く光になると信じながら。