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私は眠れぬ夜を過ごした。手にした離婚届は鉛のように重く、現実の冷たさを掌に刻みつける。ソファに深く沈み込んだまま、ふと駐車場でエンジン音が止まった。午前6時。白々と長い夜が明けていく。立ち上がるのも億劫で、乱れた髪を指で掻き上げた。私はただ、拓也がリビングに入ってくるのを待った。
「お帰りなさい」
「……起きてたのか」
その声は、思いやりの欠片もない無機質な響きだった。
「昨夜はどこに泊まったの?」
一瞬、拓也の背中がぴたりと固まった。
「……麻里奈を入院させた。付き添いだ」
自分の耳を疑った。あんな小さな火傷で入院? 呆気にとられ、言葉すら出てこなかった。昨日の怒号が頭の中で反響する。「離婚届、書いておけよ!」――あの言葉は本気だったのか。それとも、ただの勢いだったのか。
「瑞穂」
拓也はネクタイを結び直しながら、テーブルの上の離婚届に目を落とした。
「まだ、書いてなかったのか」
「……まだ?」
淡々とした声でそう言い、彼はボールペンと朱肉を指差した。朱肉の蓋が小さな鏡のように、私の驚愕した顔を映している。スカートの生地を握りしめた指先が、力の入りすぎたまま白く変色していた。
「意味がわからないわ! 理由を聞かせて!」
声が震え、喉がからんだ。重苦しい沈黙がリビングを満たす。
「納得できない限り、私はこれにサインなんてしない!」
二人で選んだマグカップ、お揃いのパジャマ、玄関に並んだ靴─すべてが音を立てて崩れ落ちていくような感覚に囚われる。
「おねがい……最後に一度、ちゃんと話して……」
涙声で絞り出した言葉に、拓也はゆっくりと振り返った。けれどその瞳の中には、もう私の居場所はどこにもなかった。ただ冷たく、遠い光だけが揺れていた。
「……」
拓也の瞳に、私の居場所が見えなかった瞬間─私は初めて、彼の中で私が『終わっていた』ことを理解した。それでも、私は離婚届に手を伸ばさなかった。
代わりに、ゆっくりと立ち上がり、キッチンへ向かった。冷蔵庫から卵と牛乳を取り出し、フライパンを火にかける。いつもの朝食の音が、リビングに響く。
「朝ごはん、食べる?」
背中を向けたまま、静かに訊いた。返事はなかった。でも、ダイニングテーブルの椅子がわずかに軋む気配がした。彼が座ったのだ。焦げ目をつけすぎないよう気をつけながら、フレンチトーストを焼く。5年前、結婚したばかりの頃と同じように。皿を二枚並べ、テーブルに置く。
離婚届はその横に、紅茶のシミと共にあった。
拓也は無言で席についた。フォークを手に取り、一口食べる。咀嚼する音だけが、静かな部屋に響く。
「……甘さ、ちょうどいいな」
小さな呟き。それは、久しぶりに聞く彼の『人間らしい』声だった。何かを言いかけて視線をテーブルに落とした。胸の奥が、かすかに温かくなった。――まだ、終わっていないのかもしれない。でも次の瞬間、スマートフォンが震え、すべてが台無しになった。
彼は反射的に画面を見て、眉を寄せ、すぐに通話ボタンを押した。スピーカーから漏れてきたのは、麻里奈さんの声だった。
『お兄ちゃん、痛いよ……早く来て』
昨夜と同じ、子供じみた甘え声。でもなぜか、今日はわざとらしい。拓也はフォークとナイフを皿に放り投げるように置き、椅子を鳴らして立ち上がった。ネクタイを直す手は、昨夜の興奮をまだ引きずっているかのように素早い。
「待って! 話がまだ終わっていないわ!」
「これ以上は聞くな」
私は声を張り上げ、離婚届の上に手を置いた。紅茶のシミが朝の光に薄く浮かんでいる。拓也は一瞬だけ私を見た。けれど、その瞳にはまたしても私の姿は映っていなかった。
「……お前は、知らない方がいい」
低く絞り出すような声だった。彼は玄関へと歩き出した。靴を履く音が、静かなリビングにやけに大きく響く。私は立ち尽くし、テーブルの上のフレンチトーストがゆっくりと冷めていくのを、ただ見つめていた。
「拓也、何を考えているの?」
生活のすれ違いだけなら、どんなに忙しくても、どこかで二人で向き合う時間を作るはずだ。5年間一緒にいた私には、それがわかる。
なのに今朝の彼は、まるで背中を追われるように家を出ようとしている。何か、言えない事情がある。押し迫った、切迫した理由が。
─麻里奈さんの火傷は本当に小さなものだった。あれだけで入院、付き添い、退院の迎え。手を冷やしていたとき、赤みすらほとんど見えなかった。
私は離婚届を握りしめたまま、玄関に駆け寄った。ドアノブに手をかけた拓也の背中が、朝の光にくっきり浮かんでいる。
「拓也」
呼びかけると、彼の肩が小さく震えた。
「麻里奈さんのこと、本当の理由は何? 私に隠してるんでしょう?」
声が震えた。怖かった。知ってしまったら、もう戻れないかもしれない。それでも、聞かずにはいられなかった。拓也はゆっくりと振り返った。疲れきった顔に、初めて見る影のようなものが宿っていた。
「……瑞穂には、関係ない」
「麻里奈さんの帰国と何か関係があるの?」
掠れた声で、それだけ言って、彼はドアを開けた。冷たい風が吹き込み、離婚届の端がはためいた。私はただ、開いたドアの向こうに消えていく彼の背中を、呆然と見送った。拓也は玄関で靴を履き終え、ドアノブに手をかけた。
「行ってくる」
低く、事務的に告げた言葉。いつもの出勤の挨拶と同じ響きだった。でも今日は、まるで二度と戻らない人のように聞こえた。私は離婚届を握ったまま、唇を噛んだ。追いかける言葉も、引き止める腕も、出てこなかった。ただ、開いたドアから吹き込む冷たい風が、頬を刺すように冷たい。
「…………」
返事もせず、彼は背を向けた。廊下の足音が遠ざかり、エレベーターの到着音が響く。扉が閉まる音まで聞こえて、ようやく私は息を吐いた。
リビングに戻ると、テーブルの上には冷めたフレンチトーストだけが残っていた。 私は離婚届を握りしめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
──もう、待っているだけじゃだめだ。
この離婚届には、何か、隠されている。私のデザインした人生を、誰にも奪わせない。