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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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藤色の訪問着が仕立て上がるまでのあいだに、私は二度、京橋の二階へ通った。
夜会まで、あと十日もない。
「大庭さん。一つ、お願いがあるんです」
校正刷りの束を返しながら、私は切り出した。
「白百合さんの、七月号の原稿を、一枚だけ貸していただけませんか」
大庭さんは、赤鉛筆を耳に戻しかけた手を止めた。
「貸して、どうするんです」
「字の勉強です。あんなふうに、すらすら書けるようになりたくて」
自分でも、苦しい言い訳だと思った。
大庭さんは、しばらく私の顔を眺めていた。それから、原稿の綴りから一枚を抜き取った。
「七月号はもう刷り上がって、店に並んでる。原稿は、あたしの机の肥やしだ。持ってって構いませんよ」
大庭さんは、私の右手の中指を顎で示した。
「あんたには、『道』の借りがありますからね。返すのは、いつでもいい」
*
その夜、洋館の自分の部屋で、私は机に三枚の紙を並べた。
一枚目は、白百合の七月号の原稿。
二枚目は、ミモザへ呼び出された、麗子様からの手紙。
三枚目は、家令室で真柴さんに頼んで、譲ってもらった藤堂家の招待状の封筒。
「宛名の書き方を、お手本にしたいので」と言うと、真柴さんは「返書はもうお出ししましたから」と、快く書状挟みから出してくれた。
ルーペを、一枚ずつ当てていく。
三枚とも、紫がかったインク。乾いたあとも青黒くは沈まず、紫のまま紙に残っている。
字の形は、似ている。けれど、字の形なら真似ができる。私は隆之様の偽の恋文で、それを見たばかりだ。
真似のできないものを、探す。
横画の、書き出し。
三枚とも、横の線の入りが、かすれていた。ペン先が紙の繊維に引っかかって、細かいインクの粒が、線の手前に散っている。
私は、この擦れ方を知っていた。
父の店に、吉さんという職人がいた。
植字も校正もこなす人で、左利きだった。校正刷りに入れる赤字が、いつもこうして横画の頭でかすれていた。
「右利きの者は、横の線をペンで引く。左利きの者は、押す。押せば、ペン先が紙に刺さって、こうなるんだ」
吉さんは、そう笑って、かすれた赤字を指でこすっていた。
ミモザで、麗子様は煙草を右手に、万年筆を左手に持っていた。
茶会の日も、扇は左手だった。
三枚の紙は、同じ人の左手から出たものだ。
透かしも、確かめた。
白百合の原稿と、麗子様の手紙。電灯に並べてかざすと、二枚の下がり藤は、紙の中の同じ高さに、同じ傾きで浮かんだ。同じ漉き舟から上がった紙だ。
*
けれど、これだけでは足りない。
私は、ルーペを置いて、両手で顔を覆った。
麗子様の前にこの三枚を並べたら、あの人は何と言うだろう。
便箋なんて、誰だって盗めるわ。うちには女中が何人もいるのよ。インクだって、銀座で売っているもの。
きっと、真紅の唇で笑って、そう言う。
しかも、ミモザの手紙は人前には出せない。出せば、私が麗子様と二人きりで会ったことが知れる。屋敷を出た口実の嘘も、一緒に。
白百合を暴くなら、あの人が言い逃れできない場所で、言い逃れできない紙を並べるしかない。
人前で。
嘘をついた人が、一番、見栄を張りたい人たちの前で。
*
翌朝、真柴さんが家令室で、夜会の段取りを話してくれた。
「当夜は、六時に御前と奥様が御出発。番町の藤堂様のお屋敷までは、自動車で二十分ほどでございます。私はお供で、控えの間に詰めております」
真柴さんは、手帳の頁を繰った。整った字で、招待客の名がいくつか書きつけてある。
「将臣様も、お招きを受けておいでです。それから、宇佐美先生も。宇佐美先生は、藤堂様の主治医もなさっておいでですので」
宇佐美先生。
前の奥様方も、最初はそうでしたよ。
口髭の下で笑っていなかった唇を、私は思い出した。
「奥様、お顔の色が。暑さに中られましたか」
「いえ。大勢の方の前に出るのが、少し怖いだけです」
「ご無理もございません」
真柴さんは、目尻に深い皺を寄せた。
「ですが、御前がお側においでです。何があっても、御前がお守りくださいます」
*
夕方、仕立て上がった訪問着が届いた。
百合絵様が、私より先に畳紙を開けてしまった。
「まあ、萩がこぼれてる。お義姉さま、早く着てみて」
袖を通すと、百合絵様が後ろへ回って帯を結んでくれた。女学校の礼法の時間に習ったのだと、得意げに言う。
帯締めに、銀の活字を通す。
百合絵様が、帯留めに顔を近づけて、首をかしげた。
「これ、何て書いてあるの。裏返しで読めないわ」
「私の名前です」
「お兄様が?」
頷くと、百合絵様は口を両手で押さえて、畳の上でじたばたと足を鳴らした。
「信じられない。あのお兄様が。……ねえ、夜会、本当に気をつけてね。麗子様、お兄様がこんなことする人だって知ったら、きっと面白くないわ」
鏡の中の藤色の私は、帯留めのあたりだけが、やけに明るく見えた。
*
翌日の午後、私は京橋で、大庭さんと親方に頭を下げた。
「八月号の白百合さんの頁を、私に組ませていただけませんか」
大庭さんは、目をぱちくりさせた。
「組むって、活字を? 三輪さんが?」
「文選も、植字もできます。父の店で、十の年から手伝っていましたから」
親方が、階段の下から顔を出した。インクで黒い前垂れで手を拭きながら、私の顔をじっと見る。
「志摩さんの娘なら、腕は確かだろうよ。うちの若いのは、近ごろ拾い違いばかりだ」
大庭さんは、まだ迷っていた。
「白百合先生の頁は、うちの看板なんですよ。誤植でも出したら、先生にどやされる」
「一字でも間違えたら、二度と参りません」
親方が、ふん、と笑った。
「主任さん、組ませてみな。駄目なら、わしが崩して組み直す」
本当の理由は、言えなかった。
三人目の妻には、秘密がある。その続きを、白百合が何と書いてくるのか。
誰より先に、私の目で見たかった。そして、それが活字になる前に、一字ずつ自分の指で拾いたかった。
活字になったものは、もう消せないから。
活字は嘘をつかん。嘘をつくのは組む人間だ。
父の口癖を思い出して、私は少しだけ笑った。今度の私は、嘘を組む側に立とうとしている。
*
七月十日。
階下の活字棚の前で、私は植字の組み枠を左手に持ち、文選箱を見下ろしていた。
八月号の原稿どおりに拾ったばかりの活字が、箱の中で鉛色に鈍く光っている。
一本一本、指先でネッキを揃え、組み枠に並べていく。三人目の妻が家令室の帳簿を盗み見る話。本当の私より、ずっと卑しい女の話。
「三人目の妻には、秘密がある」
最後の一行を組み終えたところで、二階から大庭さんの声がした。
「三輪さん! 白百合先生から、最終稿が来たよ。最後の一枚だけ差し替えてくれってさ。消印は昨日の麹町、ずいぶん急いだもんだ」
麹町。番町は、麹町区だ。
階段を駆け上がると、大庭さんが一枚の便箋をひらひらさせていた。
受け取る指が、冷たかった。
下がり藤の透かし。紫のインク。かすれた横画。
前の原稿と同じ、「三人目の妻には、秘密がある」の一行。
その後ろに、一行だけ、書き足されていた。
「三人目の妻は、二人目の妻の友であった」
コメント
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第26話、読み終えたよ……。 字の癖から白百合の正体にたどり着くシーン、すごく丁寧でゾクゾクした。左利きの“押す”筆跡とか、透かしの一致とか、最後の一行の差し替えとか、全部が美しく繋がってて。 そして最後の「二人目の妻の友」——もうここで胸がぎゅっとなったよ。嘘を“組む”側に立つ決意も、重いけど、ちゃんと響いた。 続きが待ちきれないよ、草原草原さん🤍🌙