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立秋 芽々(りしゅう めめ)
219
『子供の絵』
6.『子供の絵』
(…今日もいる…)
息子の絋(ひろ)を連れて公園に行くと、隅にあるベンチに腰掛けた初老の男性が目についた。
黒いハットに色褪せたスーツは、いつものこと。
口元に笑みを浮かべて子供たちを見ている。
夫の転勤に合わせて最近ここに引っ越してきたけど、どうにもあのお爺さんを好きにはなれなかった。
「ああ、ハムおじさんのこと?」
職場の先輩─松永さんは、笑いながら答えた。
「ハムおじさん?」
「公園にいるお爺さんだから、ハムおじさん」
そう言って空中に「公」の字を書いた。
「いつも遠くから子供たちをみてて気味が悪いんですけど、何者なんですか?」
「元警察官よ」
松永さんはあっけらかんとして言い放った。
「とは言え、辞めてもう何十年も経ってるけどね。だから、悪い人じゃないわよ。不審者に襲われそうになった子を杖一本で助けてくれたり、行方不明になった子を日が暮れるまで探してくれたりしてるんだから。地元の警察官とも顔見知りで、信頼も厚いのよ」
「そうなんですか…」
あのお爺さんにそんな過去があったなんて知らなかった。
その話を聞いたおかげで、公園の隅で子供たちを見ている姿に違和感を覚えなくなった。
よく見ていれば子供たちには懐かれているようだったし、転がってきたボールを拾ってあげたり、喧嘩している子供の仲裁をしたりと思った以上に世話焼きなおじいさんだった。
でも、親、というか大人には少し冷たい印象を受けた。
私が息子が蹴飛ばしたボールを取ってくれたことに礼を言ってもぶっきら棒に「おう」とだけ返事がきたし、町のスーパーで見かけたときにはお爺さんより年上と見られる女性に対して「どけっババア!」と罵倒していた。
単なる子供好きではないような、そんな気がしたがあえて誰にもそのことは言えなかった。
何より息子の紘は、そのハムおじさんに懐いていたからだ。
公園に行けば、いの一番に彼の隣に座り絵を描く。
「絋は、絵が上手だねぇ」
そう、褒めてもらえるのが嬉しいらしい。
子供に危害を加えないならそれでいいかと、私は一人納得することにした。
そんなある日の土曜日。
目が覚めると、絋の姿はどこにも無かった。
「ねぇ!あなた、絋見てない?」
リビングのソファーに横になってスマホをいじっている夫に尋ねると、「公園行くって言ってたぞ」という言葉が返ってきた。
「公園!?一人で??」
「たぶん」
「ちょっと!なんで一人で行かせたのよ!」
怒る私に、夫は煩わしそうな視線を向ける。
「絋はもう五歳だろ?俺がそれぐらいのときには、一人で公園行って遊んでたよ」
「……そうですか!」
私はそれだけ言って、家を飛び出した。
自分はできたから、息子もできるという思考はいったいどこから生まれてくるのだろう。
夫の実家は田舎にあって、車の往来は少ない。
でも、今の家から公園まで大きな道路を渡らなければならない。
五歳になったからなんだ。
それでも絋は子供なんだから、公園までついていくのが親の責務じゃないのか。
夫の無頓着さに腹を立てながら公園に入ったが、そこにも絋の姿は無かった。
「ねぇ、絋見なかった?」
公園で遊んでいる子供に話しかけても、みんな一様に「見てないよ」「知らない」と言って首を傾げるばかり。
そのあともスーパーや別の公園、川沿いも見て歩いたが絋はどこにもいなかった。
家に帰っていないかと夫に電話をしてみる。
「公園にもいなくて…絋、帰ってきてない?」
「いやぁ…帰ってきてないけど」
「どこに行ったのかしら…」
「まだ遊んでるんだろ。腹が減ったらそのうち帰って来るよ」
夫は呑気にそんなことを言って、電話を切った。
人目が無ければスマホを地面に叩きつけて、叫んでいたかもしれない。
「今村さん、どうしたの?」
たぶん、鬼のような形相をしていたであろう私に声をかけてきたのは松永さんだった。
「絋が…絋がいなくなったんです」
「えぇ!!大変!探すの手伝うわ!」
こういうとき松永さんは本当に頼りになった。
地元の自治会の人に連絡したり、交番に行って私の代わりに絋がいなくなったことを説明してくれた。
「……また」と言いかけて「わかりました。急いで探しましょう」と警察官が言ったのが気になった。
「絋くんが行きそうなところは?」
「ま、またってどういうことですか?」
私が尋ねると警察官と松永さんは困ったように顔を見合わせた。
「その話は私がするから、洋祐(ようすけ)くんは絋くんを探してきて」
「わかりました」
洋祐と呼ばれた警察官は小さく頷いて、交番を出ていった。
「松永さん…過去にも子供がいなくなったことがあるってことなんですか?」
「……今村さんは、相浦(さがうら)家一家惨殺事件って覚えてる?」
「……はい。五年前にあった事件ですよね?確か、最初は事業に失敗した父親が無理心中を図って家族全員殺害したと思われていたけど、その半年後に殺人事件であることが発覚したとか。犯人は、まだ捕まってないんですよね?」
「ええ、その事件があった屋敷が、あの山の中腹にあるの」
松永さんは交番の入口から見える山を指さした。
車で行けば一時間とかからないところにあるのだと説明してくれた。
「その事件と子供の行方不明になんの関係があるんですか?」
私は、嫌な予感しかしなかった。
喉の奥が妙に乾いてきて、指先も冷たくなってきた。
「……あの事件以降、子供が時々いなくなるの」
こぼしそうになった悲鳴が、乾いた喉に張り付いて声にならなかった。
体から血の気が引いていって、崩れるようにその場に膝をつく。
「今村さん!しっかりして!ごめんなさい。不安にさせるつもりはなかったんだけど…」
「い、いえ……」
そうだ、松永さんは何も悪くない。
「いなくなる、だけですか?…見つかることは…?」
私は松永さんにすがるように尋ねた。
松永さんは私の目を見て、それからそっと視線を外した。
「松永さん…」
「見つかる…よ。二、三日経ったら、帰って来るの」
「あ、そうなんですね」
安堵の息を吐こうとしたけれど、松永さんの晴れない表情を見て不安が過ぎる。
「でも、何も言わなくなるの。どこで何をしていたのか。何があったのか、けして語ろうとはしない。そして、そのほとんどの子供がPTSDと診断されるの」
「……」
何も言えなかった。頭の中が真っ白になって、それから絋の楽しそうに笑う顔が浮かんできた。
「絋……」
気がついたら泣いていた。言いようのない、どうしようもない不安に押しつぶされそうだった私を、松永さんが支えてくれた。
どうやって家に帰ったのか覚えていない。
夫が何か言っていたが、耳の中を通り抜けていく。
私はリビングのソファーに座り、絋が無事で帰って来ることだけをただ祈ることしかできなかった。
それから五時間ほど経って、警察から絋が見つかったという知らせが届いた。
なんでも、若いカップルが見つけてくれたのだそうだ。
擦り傷があったので、今病院で手当を受けているとのことだった。
夫も夫なりに心配していたのだろう。いや、息子を一人で公園に行かせたことに少なからず罪悪感があったのだろう。すぐに車を出してくれた。
「絋!!」
病院に駆けつけると、絋は処置が終わって手に包帯を巻いてもらっているところだった。
そばには若い女性が立っている。
「……ママ…」
「はい、もう大丈夫。お母さんところに行ってもいいよ」
お医者さんにそう言われて絋は椅子から飛び降りると、全力で駆け寄ってきて抱きついてきた。
「ああ、よかった!よかった!絋が無事で!!」
「絋、ごめんな。父さんも一緒に行けばよかった」
しかし、紘は首を大きく横に振った。
「あら、絋……それは?」
絋は真新しいぬいぐるみを抱えていた。
そう、あの世界的に有名なネズミのぬいぐるみを。
「お姉ちゃんがくれたの」
「お姉ちゃん?」
顔を上げると、あの若い女性がこちらを見て笑みを浮かべていた。
「あなたが、これを?」
「はい。山道で見つけたとき、すごく怯えてる様子だったので」
「そう、だったんですか」
「絋を見つけてくれて、ありがとうございます」
夫は女性に深々と頭を下げる。
「いえ、気にしないでください。本当にたまたまなんで」
「おーい!美果(みか)!こっち来て説明してくれよ。カーナビのこと言っても全然理解してくれなくて…」
弱々しい声が聞こえて振り返ると、そこには若い男性が三人の警察官に囲まれていた。
「拓弥(たくみ)さぁ、そんな話、警察が信じるわけないじゃん」
美果と呼ばれた女性は呆れたように言いながら、男性に近づく。
「え、でも、じゃあなんであそこに行こうとしてたのかって説明できないだろ?」
「もぉ、拓弥は妙なところで正直者なんだから」
そう言って美果さんは、警察官に”あの山にある屋敷に行くつもりだった”とか”興味本位だったけど彼氏がビビって全然前に進んでくれなかった”とか話していて、多いに隣に立っている彼氏さんを困惑させていた。
「絋、怖かったね。もう、大丈夫だから」
腕の中で小さく震える我が子をしっかりと抱きしめると、血と土の臭いがした。
怖い思いをしたのだろう。何があって、どうして怪我をしたのか聞きたかったが、それは今聞くべきことじゃないと思って黙っておいた。
夫も珍しく空気を読んだのか、「明日、絋の大好きなオムライスを食べに行こう」と言い、それに絋も小さく頷いて見せた。
「あ、そのぬいぐるみ、あげるね」
美果さんたちが戻ってくるなり、優しい笑みを浮かべてそう言ってくれた。
「え、それ、俺が美果に上げたやつ」
「うるさいなぁ、また買いに行けばいいでしょ?」
「……いや、まぁ…ねぇ」
絋がぎゅっと抱きしめているものだから、拓弥くんも観念したようだった。
「いえ、そういうわけには」
夫がすぐにポケットから財布を取り出す。
「息子を見つけてもらった上に、ぬいぐるみまで。せめて、お礼をさせてください」
「そのお気持ちだけで十分です」
丁重に断ったのは拓弥くんだった。
「それに、今はヒロくんのことを気にかけてあげてください。大丈夫のように見えますけど……」
四人の大人に見つめられて、絋は少し複雑な表情を浮かべていた。
それでも、と食い下がる夫を尻目に美果さんと拓弥さんは笑顔で去っていった。
二人は病院の入口付近で一回立ち止まり、振り返ると大きく絋に向かって手を振ってくれた。
それを見て、絋も手を振り返す。
本当にいい人に見つけてもらってよかったと思った。
───数日後。
絋はあのとき何があったのか、語ろうとはしなかった。
怪我も転けただけ、とだけ言って、どこでどう転んだのかは教えてくれなかった。
警察も絋が何も言わないので事件性の有無も問えず、この件はうやむやになりそうだった。
絋はあの日から口数が少し減り、時々怖い夢を見るようだった。
ある夜のこと、物音がして目が覚めると隣で寝ているはずの絋の姿が無くなっていた。
慌ててリビングに行くと、電気が煌々とついており、絋は何かに取り憑かれたようにスケッチブックにクレヨンを走らせていた。
「絋、どうした……の?」
覗き込んだスケッチブックに描かれていたのは、黒い紐で上から吊るされた黒い人、人、人。その黒い紐の先を持っているのは、口角が耳元まで吊り上がっている黒いハットを被った人。
(子供を吊るして……笑ってる?)
「絋……これは…?」
尋ねる私の声は微かに震えていた。
「”ショー”だよ……楽しい”ショー”なんだって。あの子は生きたまま宙ぶらりんになってた」
その何の感情も宿さない声を聞いて、背筋に冷たいものが走った。
「でもね」
絋はスケッチブックをめくり、私に見せてくる。
そこには黒いハットを被った人と刃物を持った真っ赤な人が描かれていた。
よく見れば黒いハットを被った人の手首が切られ、泣いていた。
「これで、”ショー”は終わったんだ」
そう言って、絋はゆっくりと床に倒れる。
「絋!?」
慌てて抱き起こすと、気を失っているようだった。
”平気そうに見えても───”
そう言った拓弥くんの顔が脳裏を過ぎった。
そうだ、普通にしているけど、大丈夫なわけがない。
誰にも言えないような、経験を絋はしてしまったのだ。
私は絋の描いた絵を見る。
これが何を意味するのかわからない。
でも、何か事件を解決する糸口になるかもしれない。
私は絋を夫に預けて、家を出た。
その途中、たまたま通りかかった公園。
絋が行方不明になってから、ハムおじさんを見ていないような気がする。
(そういえば、あの人……)
いつも色褪せたスーツに、黒いハットを被っていた。
その事実に気がついた私は、急いで警察署に向かった。
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