倍相課長と営業の五代を交えて、領収書などの回し方のことを話題に出してみるのも悪くないかも?
(となると、五代くんの直属の上司の雨衣課長も一緒の方がいいかなぁ)
あれこれ考えていたら、心がお留守になっていたらしい。
「荒木? おい、荒木羽理!」
目の前でパチン!と大葉に両手を打ち鳴らされて、羽理はハッとした。
「ふ、フルネームで呼ばないで下さい!」
そうされると、「あらキュウリ!」と揶揄われたのを思い出してしまうではないか。
自分がぼんやりしていたのを棚上げしてプンスカしたら、大葉がキョトンとして……。
「だ、だったら」……とかゴニョゴニョ言いながら……「う、羽理……さん?」と何故か照れ臭そうに下の名前で呼び掛けて来る。
「えっ!? な、何でいきなり下の名前になるんですかっ。そんなのされたら私も……たっ、大葉さんって呼んじゃいますよ!?」
羽理としては『もぉ、部長ったら冗談が過ぎますよぅ?』と、彼を諫めたつもりだったのだけれど。
「な、何なら……呼び捨てでも構わんぞ?」
とか、どういうことだろう?
「はいっ!?」
「だから……〝さん〟はなくても平気だ。というかむしろない方がいいな、うん。……お、俺もお前のこと、その……う、羽理って呼び捨てるからお前もそれで」
まるで羽理に口を挟ませたくないみたいに、しどろもどろになりつつも口早にまくし立てた大葉が、「よし、行くぞ、う、羽理! 駐車場でいつまでもモタモタしてたら店が閉まっちまう」と羽理の手首を握ってスタスタと歩き出してしまう。
「あ、あの……ちょっと、屋久蓑ぶちょ……」
羽理がそんな大葉にいつも通り。〝屋久蓑部長〟と呼び掛けようとしたら華麗に無視されて。
「あ、あのっ。部長……」
足の長さの差だろうか。
速足で歩く大葉について行くのがしんどくて、小走りになりながら何度も部長、部長と呼び続けていたら、だんだん息が上がってきてしまった羽理だ。
「た、た、た、た、た、た……」
息苦しいし、何とか止まって欲しくて「大葉」呼びを試みてみたものの、何だか照れ臭くてやっぱり難しくて。
「お前は壊れたレコードか……!」
とうとう我慢しきれなくなったらしい大葉に、こちらを見ないままに突っ込まれてしまう。
「だって……た、いよ……ぶちょぉ、が……」
「俺は誰にも貸与された覚えはない。もっとスムーズに呼べ」
「もぉ! 上司の下の名前を呼び捨てするのがどれだけハードル高いと思ってるんですかっ。意地悪ですか! ドSですかっ!」
「なっ。お、俺は極めて温厚だぞ? なぁ、う、……り。いつものお前ならそんなの楽々越えられるはずだろ。――ほ、ほら、遠慮せず越えて来い!」
大葉は、自身も羽理のことを呼ぶのがしどろもどろなくせに、あくまでも羽理が「大葉」と呼ぶまで許してくれる気はないみたいで。
(どうしてこうなったの!)
羽理は「うーーー」と唸り声を上げながら、先程の会話の中の敗因を必死に探る。
だが、これと言って思いあたる節はなくて、早々に諦めた。
(ホント、部長は何をそんな、ムキになってるんでしょうね!?)
代わりの心の中。
盛大に大葉に不平不満をぶちまけた。
***
(荒木は倍相からのディナーの誘い――荒木は「夕飯」と言ったけれど、絶対相手はディナーという感覚に違いない!――を断ったと言ったが、一度断られたくらいで倍相が引き下がるとは思えん!)
羽理が倍相岳斗の誘惑に屈しなかったと言うのは大葉にとって物凄く喜ばしいことだったけれど、その反面、そう危機感を募らせた大葉だ。
(倍相岳斗は油断ならんからな)
のほほんとしているように見えるけれど、あの若さで管理職になるくらいだ。一筋縄でいく男でないのは容易に推察できる。
(まぁ、それを言うと俺もか)
岳斗とは六つ違いだが、大葉も彼ぐらいの年齢の頃には課長職にいた。
とはいえ、自分は優しくて話しかけやすいと評判の倍相岳斗とは違って、取っつきにくいことで有名な仏頂面課長だったのだけれど。
(いや、俺だって別に部下に対してにこやかに接したくなかったわけじゃねぇぞ? ただ……)
羽理の手を引きながら化粧品売り場までやって来た大葉は、一人色々と頭の中で考え事をしていたのだけれど。
「そう言えばぶちょ、じゃなくて……えっと……あ、あなた様……は昔、倍相課長と違って人を――特に女性社員を寄せ付けない鬼課長さんだったって……人事課の那須さんが仰ってたんですけど……」
立ち止まったことで、やっと呼吸が整ってきたらしい羽理から話しかけられて、慌てて彼女に意識を戻した。
(おい、荒木羽理! お前いま、しれっと名前呼び回避で変な呼称持って来やがったな!?)
などと思いつつ、羽理の口から出た〝那須〟という名にあからさまに眉をしかめた大葉だ。
というのも、人事課にいる〝那須みのり〟は大葉と同期の女性社員の名で、割と美人だが色んな意味で圧が強すぎて大葉は余り得意じゃないからだ。
「私もこうやって話せるようになるまでは、……たっ、たっ、……た、い……よぉ?……のこと、取っつきにくい雲上の部長様だと思っていたんですけど……」
と、やたら名前のところだけしどろもどろで前置きをしてから、羽理がすぐそばの大葉を猫のような大きな目でじっと見上げてくる。
(その上目遣いはやめろ、荒木羽理! 可愛すぎて照れるだろーが!)
とソワソワと顔を背ける大葉を興味深げに観察してから、クスッと笑うと、
「……実際お話してみると、ちょっぴり挙動不審なところはありますけど……全然怖いとかはないですよね? ……ひょっとして、那須さんが言ってたのは別人のお話でしょうか?」
と問いかけてくる。
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