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柔らかな風が頬を撫でた。
焼けた血と土の匂いのない、静かな風だった。
少女はゆっくりと目を開けた。
視界に広がるのは、淡い光を帯びた青い世界。
天と地の境がわからないほど透き通る湖、その上に浮かぶように建つ宮。
「……ここは……?」
起き上がると、肩口から布がずれ、白い包帯が見えた。
傷は、もう痛まない。
けれど、心の中の痛みだけはまだ残っていた。
「目を覚ましたか。」
その声に、少女は顔を上げる。
柱の陰から現れたのは、昨夜の男――青龍。
衣は淡い青で、まるで空そのものを纏ったようだった。
「……あなたが、助けてくれたの?」
「助けたというより、拾っただけだ。」
青龍は淡々と答えた。
けれど、その瞳の奥には、静かな優しさが見える。
「ここは天と地の境――“蒼の神域”。我が住まう場所だ。」
「神域……」
少女は思わず言葉を詰まらせた。
人間が踏み入れることを許されぬ領域。
自分がそこにいるという事実が、どこか現実味を欠いていた。
沈黙が流れたあと、青龍は彼女をじっと見つめた。
「名は?」
「……レイ。」
そう名乗ると、青龍は小さく頷いた。
「レイ。お前の体に残る“闇気”が強い。魔物と共にあったな。」
「……昔は、仲間だった。でも今は――敵。」
レイの声には怒りも悲しみもなく、ただ乾いた響きがあった。
青龍はしばらく目を伏せ、やがて静かに言った。
「その傷は、神でも人でも癒せぬ。だが――」
青龍が手を伸ばし、レイの額に指先を触れさせた。
一瞬、蒼い光が揺らめき、心の奥に何か温かいものが流れ込む。
「……これは?」
「我が気を分け与えた。少しは、楽になるだろう。」
レイは思わず息を呑んだ。
その光は痛みを鎮めるだけでなく、心の底の冷たさをも溶かしていくようだった。
「なぜ……助けたの?」
「理由が必要か?」
青龍は少しだけ微笑んだ。
それは氷のように冷たい美しさの中に、確かな温度を持っていた。
「お前の目を見た。――まだ、諦めていない目をしていた。」
レイの胸がわずかに鳴る。
忘れていた“生きる意味”が、再び脈を打ち始めた気がした。
その瞬間――
扉の向こうで、朱の光が一閃する。
「おやおや、青龍。ずいぶん面白い客を拾ったじゃないか。」
鮮やかな紅の衣を纏った朱雀が、扉を押し開けて立っていた。
金の飾りが揺れ、紅の瞳がレイを見つめる。
「ふむ……この娘、人の身でここに生きてるとは。いい匂いがする。」
「朱雀、戯れるな。」
青龍が低く言い放つが、朱雀は笑いながらレイに顔を寄せた。
「名前は?」
「レイ……です。」
「いい名前だね。炎に耐える者の名だ。」
その瞳の奥に、獲物を見つけた猛禽の光が宿る。
「ふふ……青龍だけのものにしておくには惜しい。」
朱雀の唇が、意味ありげに微笑んだ。
青龍の眉がわずかに動く。
静寂の空気が、一瞬で熱を帯びていく。
レイは息を呑み、胸の鼓動を押さえた。
――運命は、再び彼女を四神の渦へと引きずり込もうとしていた。