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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
厨房の床に転がり出て、最初にしたのは、勝手口の鍵を確かめることだった。
震える指で、スマホを出した。
画面に、手のひらの擦り傷から、血がにじんだ。
「セラーに堂島。録音機を探していました。リフトで上がりました。無事です」
送って、十秒もしないうちに、画面が光った。
「今行く」
三分後、勝手口の戸が、外から二度、叩かれた。
開けると、榊さんが立っていた。
寝間着の上にコートを羽織り、包帯の左手に、懐中電灯を握っていた。
榊さんは、私の手のひらを見た。
それから、何も言わずに、厨房の椅子を一つ引いて、勝手口の脇に置いた。
「朝まで、ここにいる」
「でも、旦那様が」
「蒼真が起きてきたら、ムギの具合が悪くて、家政婦を起こしに来たと言う」
榊さんは、椅子に腰を下ろした。
「乗るなと、言った」
声は低かった。
怒っている声ではなかった。
「……ごめんなさい」
「謝るな。乗らなければ、あなたは、セラーで捕まっていた」
榊さんは、長く息を吐いた。
「だから、余計に腹が立つ」
その夜、私は厨房の上がり框に座って、お団子の粉を量り直した。
榊さんは、勝手口の脇の椅子で、一度も目を閉じなかった。
半地下からは、何の音もしなかった。
堂島は、来た道を、黙って帰ったらしかった。
*
朝、セラーの床を拭いた。
割れた瓶の破片を拾い、赤い染みに塩を盛った。
引き出された木箱は、全部、元の棚に戻されていた。
「今日は、休みだろう」
七時半、ムギを迎えに来た榊さんが、勝手口で言った。
「紹介所に、泊まってこい」
「トキさんに、会いに行きます。でも、夜には帰ってきます」
陽翔が、上がり框で、ムギの耳を撫でていた。
この子を、堂島のいる家に、一晩置いていけない。
榊さんは、陽翔を見て、それから私を見た。
「なら、帰りは駅から電話をしろ。迎えに行く。……必ずだ」
八時、堂島は、いつもの黒いスーツで、蒼真を駅へ送っていった。
ガレージの前ですれ違うとき、ハッカ飴を噛む音だけが、聞こえた。
目は、合わなかった。
九時過ぎ、麗奈が、和館から渡ってきた。
大きなサングラスをかけていた。
曇りの朝の、家の中で。
「観月会は、やるから」
厨房の入口で、麗奈は言った。
私にではなく、自分に言い聞かせるように。
「あの人が何を言っても。……奥様たちの前で、私は御影の奥様の顔をするの。それしか、もう残ってないんだから」
サングラスの縁から、腫れたまぶたが、少しだけのぞいていた。
「お団子、ちゃんと作ってよね」
「かしこまりました、奥様」
この人は、おとといの夜、自分の夫が何を笑ったのかを聞いた。
それでも、月見の席を守ろうとしている。
守れるものが、それしか残っていない人の背中だった。
*
木曜日の根津は、薄曇りだった。
紹介所の格子戸を開けると、台所から、湿布の匂いがした。
「腰をやっちまってね」
トキさんは、座布団を二つ重ねた上に、横向きに寝ていた。
割烹着のまま、丸眼鏡をずらして、私を見上げた。
「来週、登録さんの研修があるってのに。……凛ちゃん、悪いけど、晩のおかず、作ってっておくれ」
二階に住む登録の家政婦さんたちの分まで、筑前煮を炊いた。
凛さんのレシピの便箋を出してきて、くるみ味噌も擂った。
ずくを出して擂ると、なめらかになる。
丸い、右上がりの字の通りに。
夕食のあと、トキさんの腰に、新しい湿布を貼った。
トキさんは、うつ伏せのまま、私の手首を、ぽんと叩いた。
「あんた、顔つきが変わったね」
「……そうですか」
「誰かに、名乗ったろ」
手が、止まった。
「わかるさ。四十年、人の顔を見て、家に送り出してきたんだ」
トキさんは、枕に頬を押しつけたまま、私の手を探して握った。
乾いた、小さな手だった。
「坊は、元気かい」
「……はい。昨日、ムギの背中に顔をうずめて、朝ごはんを食べていました」
「そうかい。犬の背中は、あったかいからね」
トキさんは、少し笑った。
「子どもってのはね、大人が思うよりずっと、いろんなことを黙って抱えてるもんだよ。あんたが抱えてる分だけ、あの子も抱えてる。……忘れなさんな」
トキさんは、壁のほうへ目をやった。
「一周忌まで、あと三週間だね」
壁の手書きのカレンダーに、赤い丸が一つ、ついていた。
十一月二十日。
「凛ちゃんの名前は、ちゃんと、凛ちゃんに返すんだよ。……あんたの名前も、あんたに」
トキさんは、そのまま、眠ってしまった。
*
白樺台の駅に着いたのは、十一時二十分だった。
トキさんが寝入るのを見届けてから、二階の家政婦さんたちと洗い物をして、電車を一本逃した。
坂の上へ向かう最終バスは、十分前に出ていた。
タクシー乗り場には、一台もいなかった。
駅前のロータリーの灯りが、濡れたアスファルトに滲んでいた。
スマホを出した。
画面は、黒いままだった。
昨夜は、半地下の部屋に一度も戻らなかった。充電器は、鏡台の上に置いたままだった。
駅の公衆電話を探した。
改札の脇の電話は、「故障中」の札が下がっていた。
坂の上まで、歩いて三十分。
迎えに行く、と、あの人は言った。必ずだ、と。
電話をしなければ、来ない。電話ができなければ、歩くしかない。
私は、スカーフを鼻の上まで引き上げた。
*
七曲り坂を、一人で上るのは、初めてだった。
一年前のあの夜は、下っていた。
車の中で。凛さんの隣で。
七つ目のカーブ。
街灯が、ぽつりぽつりと、坂の内側の斜面を照らしていた。
見上げると、坂のずっと上に、街灯が一つ、小さく光っていた。
二つ目のカーブの手前。
あそこだった。
骨の折れた傘を差して、ずぶ濡れの凛さんが、下のバス停まで歩こうとしていた街灯の下。
私は、その小さな光を見上げて、少しだけ立ち止まった。
下のバス停まで歩こうと思ってたんだけど、傘がこんなになっちまって。
あの人は、そう言って、骨の折れた傘を照れたように振った。
採用、してもらえたんだに。そう言って、濡れた頬で笑った。
あの夜、私が車を止めなければ。
凛さんは、この坂を歩いて下りて、バスに乗って、根津の紹介所で、トキさんの高野豆腐を食べていた。
また、坂を上りはじめた。
六つ目。
後ろで、エンジンの音がした。
振り向くと、坂の下から、黒い車体がゆっくりと上ってきていた。
ライトが、ついていなかった。
足を速めた。
車も、速度を上げなかった。
私の歩く速さに合わせるように、二十メートルほど後ろを、ついてくる。
一年前、ミラーの中で見た、一つだけのライトを思い出した。
あの夜、私たちの後ろについていた車。
五つ目のカーブが、見えてきた。
新しい白いガードレールの、切れ目。
その向こうは、闇だった。崖の下の木々が、風に鳴っていた。
色の抜けた花束が、ガードレールの根元に、まだ一つ残っていた。
私が殺されかけて、凛さんが死んだ場所。
エンジンの音が、急に大きくなった。
振り向いた。
黒い車体が、まっすぐに、私のほうへ突っこんできた。
体が、勝手に跳んだ。
ガードレールの切れ目の脇、崖の縁に生えた低い茂みの中へ。
枝が頬を打ち、足首が、ぐきりと嫌な方向に曲がった。
茂みの根元に、両手でしがみついた。
足の下で、小石が、崖の暗がりへ転がり落ちていった。
すぐ頭の上を、タイヤの音が通り過ぎた。
開いた窓から、匂いが流れてきた。
甘くて、すうっと鼻に抜ける。
ハッカ飴。
ブレーキの音がした。
車が、ガードレールの切れ目で止まった。
エンジンが、切られた。
静かになった坂の上で、運転席のドアが開く音がした。
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第66話、読み終わりました。榊さんが「謝るな」と言ったところ、ああこの人は怒ってるんじゃなくて心配してるんだなと胸が熱くなりました。そして何より、トキさんの「顔つきが変わったね」「誰かに名乗ったろ」という言葉にぐっときました。凛さんの名前を自分に取り戻す日が近づいているんだなと。最後の坂道、ハッカ飴の匂いとともに車が迫る緊張感にはっとして…続きが気になりすぎます。凛さんがいたあの場所で、今度は主人公自身が立ち向かう展開、本当に引き込まれました。