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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
砂利を踏む音が、ガードレールの切れ目から下りてきた。
懐中電灯の光が、茂みの上を、ゆっくりと撫でた。
私は、枝の陰で、息を止めた。
「出てきなよ」
堂島の声だった。
「そこにいるのは、わかってる。……この下は崖だ。どこにも行けやしねえ」
光が、私の頭の少し上で止まった。
崖の下から、湿った風が吹き上げてきた。
一年前も、この風の中にいた。焼けたガラスの匂いと、雨と、運転席の窓の向こうの、動かない袖と。
あのとき、私の手を一度だけ握り返して、押し戻した手があった。
行って。
凛さんの唇は、そう動いた気がした。
その手に押し戻されて、私は、ここから這い上がった。
同じ場所で、同じ車の音を聞いて、今度は誰の手もない。
堂島は、右手に、何かを提げていた。
光の端で、鈍く光った。車の工具箱に入っている、長いスパナだった。
「去年も、ここだったな」
堂島は、ガードレールの切れ目に、片足をかけた。
「俺はな、あの晩、上から見てたんだよ。燃える車の、助手席から這い出してくる女を」
足首が、脈を打つたびに痛んだ。
茂みの根元を握る手袋の指に、土が食いこんだ。
「あんたが御影の嫁なら、俺の命綱だと思ってた。旦那に売りゃあ、一生食える」
ハッカ飴を、奥歯で噛み砕く音がした。
「けどな、奥様が言ってたぜ。あの晩、旦那の電話を、下で誰かが聞いてたって。……録音機に、俺の名前が入ってんだろ。ブレーキは堂島に、ってな」
光が、ゆっくりと下りてきた。
「あんたが喋ったら、先に吊られるのは、俺だ」
懐中電灯の光が、私の顔を、真正面から照らした。
*
太い指が、私の襟元をつかんだ。
体が、茂みから引きずり上げられた。
ひねった足首に、体重がかかって、声が漏れた。
スカーフが、首から引き剥がされた。
光の中に、首の火傷の痕が、さらされた。
「……やっぱりな」
堂島の息が、顔にかかった。
ハッカと、機械油と、古い煙草の匂い。
「録音機は、どこだ。言えば、命だけは助けてやる」
嘘だと、わかった。
この人は、去年も、坂の上から見ていただけで、何もしなかった。助けを呼ぶことも。
「知りません」
「強情な嫁だ」
スパナを握った手が、持ち上がった。
そのときだった。
坂の上から、エンジンの音が下りてきた。
ヘッドライトが、カーブを曲がって、まっすぐにこちらを照らした。
車が、止まりきらないうちに、運転席のドアが開いた。
吠え声がした。
赤い影が、ライトの中を一直線に走ってきた。
赤いバンダナ。少し折れた右の耳。
ムギ。
ムギは、ガードレールの切れ目を飛び越え、堂島の右腕に、真横から噛みついた。
堂島が、獣のような声を上げた。
私の襟から、指が離れた。
私は、茂みの根元に倒れこんだ。
「この、くそ犬が――」
堂島が、ムギを腕にぶら下げたまま、スパナを振りかぶった。
ムギの頭の上に。
考えるより先に、唇が動いた。
短く、短く、長く。
口笛だった。
この顔になってから、一度も吹かなかった、私だけの合図。
四月の終わり、紹介所の裏で、紙に書いて燃やした。ムギに、口笛と左手の合図を使わない。
燃やした紙の灰ごと、私は、その約束を捨てた。
左手を、地面に向けて、二回、振り下ろした。
ムギが、口を離した。
その場に、ぺたりと伏せた。
腹を地面につけ、耳を後ろに倒して。
スパナが、ムギの頭の上の、何もない空気を切った。
空振りした堂島の体が、前によろめいた。
その胸ぐらを、横から、別の手がつかんだ。
榊さんだった。
右の拳が、堂島の顎に入った。
鈍い音がして、堂島の体が、ガードレールに叩きつけられた。スパナが、砂利の上を転がった。
「……その人に、触るな」
榊さんの声は、聞いたことのない低さだった。
堂島は、ガードレールにすがって立ち上がった。
噛まれた右腕を抱えて、血の垂れる袖を押さえて。
ムギが、伏せたまま、喉の奥で唸った。
堂島は、後ずさった。
車に転がりこみ、ドアも閉めきらないまま、エンジンをかけた。
ライトをつけずに、黒い車は坂を下っていった。
タイヤの音が、カーブを一つ、二つと遠ざかり、聞こえなくなった。
*
榊さんが、茂みの縁に膝をついた。
包帯の左手が、私の肩をつかみ、右手が、私の頬の土を払った。
その指が、震えていた。
「怪我は」
「足首を……ひねった、だけです」
「立つな」
榊さんは、私の背中と膝の裏に腕を差しこんだ。
体が、ふわりと浮いた。
崖の縁の茂みから、道の上へ。
ガードレールの切れ目の、内側へ。
「電話が、通じなかった」
私を抱えたまま、榊さんは言った。
「紹介所に掛けたら、とっくに出たと言われた。駅まで下りるつもりで、坂を下りてきた。……ムギが、この曲がり角で、窓を引っかいて騒いだ」
ムギが、榊さんの足元から伸び上がって、私の垂れた手袋の指を、舐めた。
それから、砂利の上に、ごろりと転がった。
腹を見せて。四本の足を、ばたばたさせて。
五月、家に戻った日にも、この子はこうした。
あのとき、私は腹を撫でなかった。撫でたら、澪に戻ってしまう気がした。
榊さんの腕の中から、手を伸ばした。
手袋の指で、温かい腹を、ゆっくりと撫でた。
ムギが、鼻を鳴らした。
一年前、門の内側で、ずっと坂の下を見て鳴いていた犬。
私が帰ってこなかった夜に。
榊さんは、私を車の助手席に下ろした。
それから、もう一度、ガードレールの切れ目まで戻っていった。
砂利の上のスパナを、ハンカチでくるんで拾い上げる。上着のポケットから出したスマホを、耳に当てた。
「水無瀬さん。榊です。夜分に。……ええ、七曲り坂の、五つ目のカーブです」
声は、いつもの温度に戻っていた。
道具を拾う手つきも、法廷で書類をめくるときのように、正確だった。
電話を切ると、榊さんは、茂みの縁にしゃがみこんだ。
枝に引っかかっていた布を、そっと外した。
私のスカーフだった。
土を払い、皺を伸ばして、助手席のドアの前に戻ってきた。
何も言わずに、私の首に、スカーフを巻いた。
一度、ほどけかけて、包帯の指で結び直した。
「首を、冷やすな」
七月の雨の日、傘の下で、この人は同じことを言った。
喉を焼いた人間は、首を冷やすと声が出なくなる。調べました、と。
「さっきの、口笛は」
榊さんが、言いかけた。
「……いや。今は、いい」
榊さんは、開いた助手席のドアの前に、片膝をついた。
私の両肩に、手を置いた。
街灯のない五つ目のカーブで、榊さんの顔は、よく見えなかった。
ただ、肩に置かれた手が、さっきの指と同じに、細かく震えていた。
氷の榊、と呼ばれる人だった。
役員を三人、刑務所に送った人。眉一つ動かさずに、人を追い詰める人。
その人が、震えていた。
肩の手が、ゆっくりと私を引き寄せた。
額が、榊さんの胸に当たった。シャツの下で、心臓が、ひどく速く打っていた。
「澪」
耳元で、声がした。
さん、もつけずに。
一年ぶりに、誰かが、私をただの澪と呼んだ。
二人きりのときでさえ、この人が、六月の夜から一度も口にしなかった名前だった。
壁に耳がある家だ、と言って。
「……もう、他人の名前のまま、死にかけるな」
声が、かすれていた。
私は、榊さんのシャツの胸を、両手でつかんだ。
ひねった足首よりも、擦りむいた頬よりも、胸の奥が痛かった。
一年分の何かが、喉の火傷の痕を押し上げて、外へ出ようとしていた。
凛の声ではない声で、私は泣いた。
子どものように、しゃくりあげて。
この人のシャツを、涙で汚しながら。
この人の前でだけは、私は、澪に戻っていいのだと思った。
コメント
1件
このエピソード、すごく胸に迫るものがありました……。ムギが口笛と合図で伏せて、堂島のスパナを空振りさせる場面、読んでいて息が止まりました。それに、榊さんが「澪」と呼んだ瞬間——あの一言に、これまでの距離感や二人の関係の重みが全部詰まっている気がして、涙がじわっと滲みました。自分の名前で泣ける場所があるって、それだけで救いですよね。本当に温かい話でした。