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海外赴任してから、すちは職場であるあだ名をつけられていた。
「アイスウォール」――
冷徹、無表情、誰に対しても一定の距離を保ち、近づこうとする者をことごとく拒む存在。
特に、女性社員の間では「声をかけても無視された」「笑ったところを見たことがない」など、都市伝説のように語られていた。
だがそれはすちにとって、ただの防衛だった。
自分にとって最も大切な存在が別にいる――
みことのことを想えば、他の誰かに気を許す理由などなかった。
その日も、職場では表情ひとつ崩さず、必要な業務連絡を済ませ、定時には颯爽とオフィスを後にした。
「ほんと、いつも感情ゼロ……」「あれで誰かと結婚してるって信じられる?」
職場ではそんな噂がささやかれていたが、数日後の休日――。
女性社員数人と男性社員一部が、ショッピングモールで食事をしていたときのこと。
ふと視線の先に現れたのは、オフスタイルのすち。
その隣には、明らかに恋人らしい人物――
優しげな笑顔と細身のシルエットを持つ青年がいた。
「……あれ、まさか」
注目が集まったのは、すちの左手。
薬指には、輝くペアリング。
そしてみことの手にも、同じデザインのリングが。
ふたりは手を繋ぎながら、どこか嬉しそうに笑い合っていた。
「ねえ、これ美味しそうだよ?」「ほんとだね、買って帰ろうか」
そんな何気ない会話の中、すちはふと立ち止まり、みことの前髪を整えるようにそっと手を伸ばす。
「風で乱れてる。……ふふ、ほんと可愛い」
笑った――
あのすちが、あんなに柔らかく、あたたかく、優しい目で。
見たこともないような幸せそうな表情で、みことを見つめていた。
偶然その姿を目撃した職場の面々は、一瞬声を失った。
冷徹だと思っていたその人が、まるで別人のように柔らかく微笑み、恋人にそっと唇を重ねる光景。
「……あんな笑顔、初めて見た」
「……そっか。あれが、氷が溶ける相手なんだね」
誰にも見せない笑顔を、一人だけに。
一貫して他人に心を開かないのは、自分のすべてをすでに一人に預けているからだと、誰もが黙って納得した。
すちはその視線に気づくことなく、みことの手を優しく握りながら、いつものように愛しそうに名を呼ぶ。
「みこと」
――この人のそばでは、世界のすべてが、やわらかくなっていた。
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すちの職場では年1回、社員の家族を含めた食事会が開催される。
社員たちが家族やパートナーを連れて続々と会場へ集まるなか、すちは一歩後ろを歩くみことの手をやさしく引き、肩を抱いて「最愛のパートナーです」と紹介した。
普段は仕事一筋で知られ、笑顔すら見せないすちが、みことと共にいるときはあまりに自然で、穏やかな空気を纏っていることに、社員たちは思わず視線を送る。
「こういう顔、するんですね……」
誰かの小さなつぶやきに、何人もの頷きが続く。
食事が始まると、すちは隣に座ったみことに静かに料理を取り分け、会話の合間にも目を細めて微笑む。時折、ふとした瞬間に唇を軽く重ねては、恥ずかしがるみことの頭を撫でる。
「や、やめてよ……人前で……」
「かわいい顔してるのが悪い」
赤くなってすちの胸元をポカポカ叩くみことの姿に、周囲からはくすくすと微笑ましい笑いが漏れた。
そんな中、社員のひとりが冗談交じりにみことに話しかけた。
「もしすちさんがいなかったら、僕が先にアプローチしてたかもな」
言葉が終わるより早く、すちは微笑を消し、鋭く視線を向けた。
「……冗談でもやめてください。彼は僕のものなので」
静かだが凍るような声に、場の空気が一瞬で張り詰める。
それでもみことはすちの隣で、守られていることへの感謝と嬉しさに顔を染めながら、震える手でそっとすちの頬にキスをした。
「……俺は、すちのものだから……」
その一言に、すちはみことの顔を正面から見つめ、言葉より先に唇を深く重ねた。
まるで時間が止まったように、会場が静まり返る。ふたりの熱がまっすぐに伝わるような情熱的なキスに、誰もが息を呑む。
キスの後、みことの唇は赤く、瞳は潤んでいた。すちはその目元にそっと指を添えて、あたたかく微笑む。
「誰が見ていようと、愛してることに変わりはないから」
その一言に、みことの顔はさらに赤く染まり、深く俯いた。
そんな二人のやり取りを見ていた社員たちは、すちの意外な一面と、彼がどれほどみことを大切に思っているのかを初めて知った。
それ以降、職場の空気はゆっくりと変わっていく。
すちの硬質な外見の裏に、真っ直ぐで誠実な愛情を持つ人物像が社員たちの間に広まり、敬意と理解が育ち始めていた。
後日、すちの職場にはすちがみことを溺愛しているという噂がひそかに広まっていた。社員たちは「すちのあの穏やかな笑顔はみことさんの前だけのものだ」と話し合い、彼の普段の冷徹な態度とのギャップに驚きつつも、どこか微笑ましく感じていた。
しかしその日、すちはまるで何事もなかったかのように、職場に戻ると鋭い眼差しと冷たい口調で業務をこなしていた。あの優しい表情は影を潜め、誰も近づきにくいほどの冷徹さが戻っている。
だが、周囲には誰も知らない。すちの心の中には、みことへの愛しさが確かに燻っていることを。あの柔らかな笑顔は「みことだけ」に見せる、彼の深い愛情の証だったのだ。
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食事会から数日後、みことは偶然すちの職場近くで待ち合わせをしていた。
周囲の視線を感じつつも、みことは「仕事中だから静かに待たなきゃ」と気を遣い、大人しく佇んでいた。しかし、社員たちの中にはみことの存在を面白く思わない者もいた。
特に女性社員たちは、冷徹なすちが唯一心を許す存在があの中性的で可憐な青年――みことであると知り、ざわつきを隠せなかった。
「なんであんな子が……」 「頼りなさそうに見えるけど、もしかして裏では猫かぶってるんじゃない?」 「すちさんの好み、正直ちょっと意外だよね」
そんな声が陰で囁かれる。
みことはそれらの声を耳にしてしまうが、表情には出さずに静かに微笑みを保っていた。
やがてすちが現れ、みことにだけ穏やかに「待たせたね」と優しく声をかける。その瞬間、周囲の女性たちの視線がいっそう鋭くなる。
みことが小さく微笑み「ううん」と首を横に振ると、すちはさりげなく彼の背に手を添えてエスコートする。その距離感と自然な触れ方に、嫉妬は確信へと変わっていく。
「本当に…あの人の特別なんだ…」
それは事実だった。
だがその事実が、すちを密かに好いていた女性たちにとっては、静かに胸を締めつけるものとなる。
___
すちとみことがその場を離れ、カフェで一息ついた頃。
みことはカップを両手で包みながら、小さく視線を落としていた。すちはそれに気づき、「……何かあった?」と穏やかな声で問う。
少し黙ってから、みことはぽつりとつぶやいた。
「……やっぱり、すちの周りの人には、嫌われちゃうかもしれないね」
その一言に、すちはゆっくりと眉をひそめる。そして、ため息のように静かに言った。
「気にしないでいい。俺にとっては、みことが一番大切なんだから」
「でも、ああいうのって…聞こえちゃうんだ。自分では何もしてないのに、冷たい目で見られると…ちょっと、胸がきゅっとする」
みことの正直な言葉に、すちはカップを置き、彼の手を取り、指を絡めた。
「そりゃ、俺が悪いのかもね。みことのこと、誰が見てもわかるくらい大事にしすぎた」
「……嬉しかったよ。あんなに堂々と、紹介してくれて、守ってくれて。なのに、僕、弱くてごめんね」
「弱くなんかないよ」
すちはその場で小さく手を引き寄せ、みことの額にそっと唇を落とした。
「どれだけ嫉妬されても、どれだけ誤解されても。俺が守る。みことは、俺の誇りだから」
その一言で、みことの瞳が潤む。照れたように笑いながら、小さく頷いた。
「……ありがとう。すちの言葉があるだけで、またがんばれる」
その後、すちは社内での態度を少しずつ変える。
仕事中は依然として冷徹だが、プライベートな話題に関しては、必要な場面では「パートナーと幸せに過ごしている」とだけ、静かに、だが誇りを持って口にするようになる。
みことの存在は、確かに特別だと社内にも少しずつ理解されていく。
それでもすちは、誰にもみことを奪わせない――そんな強い想いを胸に秘めながら、これまで以上に、みことを大切にしていく。
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