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彼に告げられた“彼氏”という言葉がぐるぐると脳内を駆け回る。何かの間違いなのではという戸惑いを含んだ視線を彼へと向けるが、当の本人は嬉しそうにニコニコと笑うだけで、とても嘘をついている風には見えなかった。
『えっと、あの…』
そこまで言葉を紡いで、ゆっくりと口を閉じる。
嘘じゃないと分かっても、まったく身に覚えがない。どうにか思い出そうと思考を働かした瞬間、頭の芯がズキズキと刺すように痛んだ。神経を直接触られているかのような不快感が肌にぴとりと触れ、それと同時に収まったはずの吐き気が咳とともに喉元にせり上げてきて、つい眉の間を歪めてしまう。
何一つ思い出せない自分の不甲斐なさと、目の前の青年へ対する罪悪感と、未だに理解できていないこの状況への恐怖心が一つに固まり、雨後の雫に似た細い涙が頬を滴り落ちた。
『…ごめん、なさい。なにも覚えてないです。』
頼りなく震える自身の声が、耳の中を這っていくように大きく伝わってくる。
細い声で告げた自身の言葉に、性格も名前も知らない目の前の青年の表情が一瞬だけ曇ったのを見た瞬間、頭の中が申し訳なさでいっぱいになって冷たい汗が背筋を撫でた。
なんていえばいいか分からないままオロオロとしていると、青年はどこか腑に落ちないような表情を浮かべながらそっか、とだけ告げた。
そんな彼に私は涙に濡れた声で「ごめんなさい」とだけ言葉を零して恐る恐る視線を外す。突然、それまでしゃがみ込んでいた青年が立ち上がった。そのままこちらにゆっくりと近づいてくる青年の行動にもしかしたら怒られるかもしれない、殴られるかもしれないという更なる不安の息が絶望の風船を膨らませていき、体が何かの板のように硬直する。
だけどそんな不安とは反対に、ガラガタと震えながら小さく縮まって涙を流す私を、青年は責めなかった。何か壊れ物を扱うような手つきで私の頭を優しく撫で、笑ってくれた。
その優しさに胸がまたずきりと痛んだ。
「オレは黒川イザナ」
ぽつり、と耳の中に青年の言葉が流れ込んでくる。初めて知る彼の名前。
『イザナ……くん』
飴玉の味を確認するように何度もその名前を口の中で唱え、ゆっくりと飲み込む。
周りではあまり聞かない響きを持ったその名前は、案外すんなりと自身の耳の中に落ちていき、鼓膜を震わせた。先ほど感じていた恐怖心が煙のように消失していくのが分かる。
「…別に無理に思い出せなんて言わねぇから、ずっとオレの傍に居ろ。」
その言葉とともに腕を引かれ、彼の腕の中に閉じ込められた。鼻の中に広がる匂いと体全体に伝わる自分のものではない暖かさに心臓が早鐘となって胸をドクドクと突き続ける。
『…は、い』
顔に紅葉のような赤を散らしながらそう頷くと、イザナくんは嬉しそうに笑った。
彼──イザナくんが言うには、私は記憶喪失だそうだ。
ニュースや架空のお話でしか聞いたことがなかったその単語は、大きなしこりとなって私の胸の中に埋め込まれた。
『あの…なんで記憶喪失なんかに…?』
原因を知れたらもしかしたら全部思い出せるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、控えめな口調でそう問いかけ、視線をイザナくんへと向ける。
だがそんな私の視界に映ったイザナくんの冷たい表情を見た瞬間、そんな考えは瞬く間にどこかへ飛んでいき、背中に鋭いツララで撫でられたかのような悪寒が走った。
私をジッと見つめるガラス細工のように綺麗な瞳に僅かに苛立ちが漂っており、先ほどと表情に変わりはないはずなのに彼の動作一つ一つに怒りが宿っているように見える。
ギュッと私の腕を掴んだイザナくんの力の強さに、ヒュッと息が喉に詰まった。
「無理に思い出さなくていいっつ ったろ?」
低く、ドスの利いた声。
そんな凄みのある声を耳に放り込まれれば頷くしか道はなく、結局私が記憶喪失なんかになってしまった理由は聞き出せなかった。
たぶん、私の彼氏を名乗るこの“黒川イザナ”という人物は怖い人だ。
それから数分、私が落ち着いたのを確認すると、イザナくんは口を開いた。
「オレと3つ、約束しろ。」
一、
無理に記憶を思い出そうとしないこと
二、
勝手に外へ、特に渋谷辺りには行かないこと
三、
洗面所の引き出しは絶対に開けないこと
どうして記憶を思い出しちゃいけないのとか、なんで渋谷にこだわるのとか、引き出しに何が入っているのか。色々と問いかけたいことはあったが、先ほどの恐怖が邪魔をして舌が上手く動かず、ただ静かに頷きを零すことしか出来なかった。
私の返答に安心したような微笑みを浮かべるイザナくんの姿を見た瞬間、胸に胸騒ぎめいた黒い影がどろりと漂い始めた。耳元でカラカラと澄んだ音を響かせるイザナくんのピアスの赤色が嫌でも視界に映ってきて私の不安を煽る。
「○○」
考えに浸かっていると不意に名を呼ばれた。そのまま急いで視線をイザナくんへと向ける。
心臓が嫌な予感を感じ取った。
「…“今度”はオレから逃げるなよ」
そう意味の分からない言葉を吐いて、イザナくんはまたにこりと笑った。
続きます→♡1000