食事が終わり、台所でロイさんが鼻歌を歌いながら食器を洗っている。彼の事をよく知らない人が見ればその見目の麗しさとギャップで感動し過ぎて卒倒するか、もしくは私が怒られる光景を横目にしつつ、彼が淹れてくれたほうじ茶を口に運ぶ。
(い、いいのかな、ホントに任せてて)
罪悪感を感じつつも『ロイさんが自分からやるってんだから、いいのか』と思ったりもする。料理なんかするのは面倒だと、宅配ピザやお弁当、ネットで注文したインスタントや缶詰でたまにくる飢えを凌いできた身としては目にも心にも痛い光景だから直視はあんまり出来ないままだ。
『アンタはいい嫁になるよ』なんて上から目線の感想を胸に秘めつつ、居た堪れない気持ちから二階に逃げてしまおうと重い腰を上げると、それに気が付いたロイさんに声をかけられた。
「芙弓、お風呂が沸いてるから入って来てもらえるかい?」
「な、名前で呼ぶなって言ってますよね!?」
しかめっ面で返事しつつ、湯船に浸かるのは何年振りだろうなんて、料理の時と同じ誘惑が我が身を襲う。
「まぁまぁ、細かい事は置いておいてさ。先に入っていてくれるかい?僕もこれが終わったらすぐに——」に 続く言葉が安易に想像出来た私は、即座に「来たら舌を咬んで死んでやる!!」と彼に向かい吐き捨てる様に言った。なのに返ってきたのは変に高い声だった。
「もう、照れ屋さんだなぁ、芙弓は♡」
「照れてるんじゃない!常識を超えた発言に死にたくなってるだけだぁ!」
ダンッと床を足で踏み付けてヒステリックに叫ぶ。『駄々っ子のガキか!』って感じだが自分でも感情を抑えられない。
「分かった分かった。もうからかわないから入って入って。お湯冷めちゃうよ?」
なだめる様な声で言うと、ロイさんは私に向かい微笑んだ。
「……ホントに入って来たりしません?」
奇行が得意と雪乃から散々聞かされている為どうしたって信じられない。そのせいで疑う視線と声で彼に問う。
「そう訊くって事は、本当は、入浴中に入って来て欲しいのかい?」
大声でそう言い、私は居間から出て勢いよくドアを閉めた。
年単位で久しぶりに入る湯船は、体だけではなく、心の緊張をもほぐしてくれる様な気がする。ほのかに香る入浴剤の匂いがより一層それを加速してくれているんじゃないだろうか。
この香りと淡いピンクになっているお湯の色からきっと、ロイさんかメイドさんのどちらかが薔薇の入浴剤をお風呂に入れたのだと思う。薔薇は私が好きな香りの一つなのだが、そんな事をロイさんが知るはずがないので、きっとこれは彼の好きな香りなのだろう。
どういった理由で好きなのかは……今は考えないでおこう。彼の趣味思考なんてどうせ、雪乃が関係しているに違いないから。
(それにしても、いったいいつお風呂の用意までする時間があったんだろうか?)
ふと浮かんだその疑問は、温まっていく体から疲れと共にお湯の中へとあっさり溶けていった。
お湯をちゃんと湯船にためたくても、情けない事に『今から此処に入るのは絶対に嫌だ!』と感じてしまうレベルで汚かったこの風呂場で私は、いつもシャワーで体を洗うだけだった。何もかも面倒だと、スプレータイプの洗剤をかけては放置して、さっとそれを流す程度の掃除しかしてこなかったし。たとえ心機一転して掃除をしていたとしても『これはもう取れないだろう』と思うシミも多かったはずなのだが、今入っているこの風呂場は、同じ家の風呂場だとはとてもじゃないが思えないレベルで綺麗だ。
(流石、プロの仕事はひと味もふた味も違う!)
勝手にメイドさんが掃除してくれたのだろうと決め付け、そう感心しつつ私は、少し熱めのお湯の中へと鼻先近くまで自ら沈んでいった。
いつ、ロイさんが『やぁ!僕が背中を流してあげようか』なんてアホな声をあげながら風呂場に入って来るんじゃないかとビクビクしながらも私は、久しぶりのお湯を堪能もしていたため、かなりの長湯になってしまった。
途中でお湯も冷めていくので熱い湯をちょくちょくと足しながら小窓を開けて、贅沢に月見風呂なんかも嗜みつつ、優雅に温泉気分を楽しんだ。洗い場に置いてあったシャンプーやコンディショナーなどが何の断りもなく知らない銘柄に一新されていたので、その裏側に書かれた効能なんかを無駄にダラダラ読みながら、のんびりとゆっくりと。
此処には時計が無いので正確な時間は分からないが、たぶん一時間位は経ったと思う。
お風呂を上がった後も、脱衣場に入って来ないか気が気じゃ無かった。鍵があってもアイツ相手じゃ不安は拭えない。
緊張しながら慌てて着替えようとして……今度は、肝心の着替えを用意していなかった事に今更気が付いた。仕方なくさっきまで着ていた服だけを着て、私は濡れる髪をタオルで無造作に拭きながら、逃げるようにこっそりと二階に戻った。
風呂上りのこんな無防備な姿をロイさんには見られたくない。部屋に戻ったらすぐにタンスから下着を出さないと。
服の中がスースーして気持ち悪いなと考えつつ、寝室のドアノブを握る。慌て過ぎて着替えを一式用意せずにお風呂に入るとか、ホントアホかと。今の私は黒いパンツスタイルの室内着のみという有様だ。 厚手の生地なので透けて見える心配は全く無いけど、こんな姿をロイさんには見られてたまるものか。私がお風呂からあがった事に気付いて、彼が二階に上がって来る前に着替えを済ませないと。——そう思いながらドアを開けて一歩前に出た時、私の体が石像の様に固まった。
「やあ!お風呂は気持ちよかったかい?」
にこやかな笑顔でそう言うロイさんの姿が目に入ったからだ。
太陽の様だと言う表現が適切な程の明るい笑顔で、彼がこちらに向かい手招きしている。それだけならば私は固まったりなどせず、大声で『出て行けぇ!』と言って終わっただろう。
だがしかし、私はそれをしなかった。
いや、『出来なかった』の方が正しいか。
六畳程度しかないだろう自分の寝室に、いつの間にか見覚えの無い天蓋付キングサイズのベッドが運び込まれていたからだ。そしてそのベッドの中には英字新聞を広げているロイさんが、背中に大きな枕を背にして座りながらゆったりとくつろいでいる。
ベッドサイドにはアールヌーボー様式のルームランプが設置されており、部屋の明かりはそれ一つしか灯っておらず、サラサラとした金色の髪を妖艶に照らす。まるでそこだけホテルの高級スイートルームか映画のワンシーンを切り取って置いたみたいで全く現実味が無い。ってか、ハッキリ言ってこの部屋に、全てが全て、全く似合わない。
(他の家具はいったいどうした!?)
部屋の床が抜けてしまわないかも心配だ。
「……あの、アンタ、何してるんですか?」
叫ぶ気力も無く、怒る気にもなれぬまま、出たのは無気力な声だった。その場にあったはずの、もうある訳のない安っぽいシングルベッドを探してキョロキョロと周囲を見ながら訊いた。
「芙弓の湯上り姿を心待ちにしていたんだよ。湯上りは誰でも美人って言うけど、君も例外じゃなくって安心したよ」
微妙に癇に障る言葉を聞き流し、呆れた顔で私がベッドを指差す。
「や、違うでしょ。んな事は訊いてませんから。それ何?」
「気に入ってくれたかい?キミのベッドは二人で寝るには狭かったからね。このベッドならゆっくり眠れるよ」
「一緒に?ね……ね、寝る訳ないでしょうがぁ!!それなら床か外で寝る方がずっとマシ!」
濡れる髪のままブンブンと頭を横に振る。濡れ鼠の動物が体を振った時の様に周囲にやたらと水滴が飛んだが、そんな事を気にしている余裕も無く私は言葉を続けた。
「さっきまで普通の部屋だったのに、何で急にこんなモンが部屋にあんのかを訊いてるんです!」
「あぁ、訊いていたのはそこか」
どうせ分かっているクセに、とぼけた顔をされた。
「答えは簡単だよ、芙弓がお風呂に入っている間にこっそりとね」
「家ん中、ずっと静かだったじゃない!」
「凄いだろう?僕の部下は優秀揃いだからね。最低限の音だけでベッドを組み立てる事くらい何て事はないさ。前もって二階の別室に運んでおけば、組み立てる事自体は簡単だしね」
「……アンタの部下は忍者か何かなの?」
「『服部』って苗字や『小太郎』って名前の人は企業全体を探せば何人かいるけど、忍者の家系なのかは調べていなかったな。その発想は面白いね、今度調べてみようか」
「嫌味を真に受けて、部下の内情を探らせるなぁ!」
私の言葉に対しロイさんはニッと口の端を少し上げ、楽しそうに微笑んだ。
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