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「まあまあ、芙弓がそう言うなら止めておこうか。——さて、じゃあそろそろ本題といこうかな」
「本題?——ぎゃ!!」
言葉の意味を考え、きょとん顔で立っていると、急に腕を引っ張られて私の身体がベッドの上に倒れこんでしまった。ふわふわの羽毛布団がお風呂でふやけた肌にとても気持ちいいのだが、今はそれどころじゃない。
「急に引っ張るなぁ!」
慌てて上半身を起こし、ロイさんに向かい文句を口にする。だが私は、その口を即座に閉じて黙り、への字口で眉間にシワを寄せる羽目になった。
……目の前に居るロイさんの表情が、暗い室内の照明効果もあってか、あまりにも淫靡過ぎたからだ。
白いワイシャツのボタンはほとんど止めておらず、はだけて見える胸元はとても筋肉質で細身の雰囲気からは想像出来ぬラインに嫌でもゾクッとしてしまう。彼の父親がアメリカ人だからか肌は透き通るように白く、母親譲りのキメ細かい肌質には軽い嫉妬心を抱いた。エーゲ海の様な青い瞳でじっとこちらを見詰めながら、言葉を失っている私を徐々に自分の方へ引っ張っていく。
少しづつ近くなっていく二人の距離。この部屋のメイン照明がついていたらきっと私の顔は林檎程に赤くなっていて、ロイさんが指を差して笑うレベルになっているだろう。
「え……あの……」
このままいくとロイさんの胸の中に閉じ込められてしまう。——そう思った私は、彼から視線を慌てて逸らし、短い声を発した。
「なぁに?」
ロイさんの低い声が耳の近くで響く。生では聴き慣れない声に身体が震えた。
「本題って?」
この雰囲気のせいか小さな声しか出てこない。 ロイさんが二十年ぶりにこんな場所にまでわざわざ私に会いに来たのは、人形師である私に、彼の妹・雪乃の人形を作らせる為のはずだ。その為に彼は『此処に居る』と、私の『傍を離れない』と言っていたのはたった数時間前の事なので、人形作り以外の事には多少疎い私でも流石にそれは理解しているし忘れてもいない。
だがそれと、今のこの状況がどういう繋がりがあってこうなっているってんだ!?
この状況になって改めて『本題』という言葉を使うって事は、本当の目的は違うって事なの?
「芙弓は、何だと思う?」
そう言うと同時に彼はグイッと強く私の肩を抱き、完全にロイさんの胸の中に自分の体が収まってしまった。
恥ずかしさに震えながら無意識にあがる品の無い大きな悲鳴。それなのに彼は、私の事を笑い飛ばす事無く、濡れる髪をそっと撫でてきた。
「ふふ……可愛いね。叫ぶ割にあんまり抵抗していないのは、湯上りだからかな?」
ロイさんの甘く囁く声が脳裏に響く。
「ひがっ!」
『違う』と言おうとして舌を咬んだ。それも、思いっ切り。
「ち、違う!私はただ『本題』ってやつを知りたいだけで——」
「うん、分かってるよ。大丈夫」
ロイさんの優しい声が耳の奥で甘く溶ける。私の濡れる髪を少し掴み、彼が軽く口付けてきた。
「僕はね——」
私の体を急に胸から引き剥がし、彼が私をベッドにドンッと勢いよく放り投げたかと思うと、私の太股の上に跨り、両腕を大きな白い手で押さえつけた。額をそっと重ね、二人の間に落ちる沈黙が私の心音を加速させる。
(こ、この大人な雰囲気はいったい何!?)
気恥ずかしさに叫びたくても叫べず、抵抗したくても体が動かない。そんな私の姿を見て、フッとロイさんが微笑む。その優しい笑顔で頬が緩みそうになった。
だが数十秒後に彼の口から放たれたのは、とても冷たい言葉だった。
「芙弓に嫌われに来たんだよ。それも、心底……ね」
「なにを、言って……」
状況と不釣合いの言葉に、私は頭が真っ白になってしまった。
「誰にも入らせたくない領域を『侵食』された経験って、芙弓にはある?」
「あ、ある!今日、今この瞬間がまさにそうよ!!」
「あはは……そんな程度のモノと一緒にされたくないなぁ」
「程度って、アンタに何が分かるって言うんですか!」
「僕にはあるよ、絶対に誰も入れたくない領域に土足で踏み込まれた経験。それも、よりによって、キ・ミ・に・ね」
いつも通りの明るい声だが、その表情はとても不機嫌だ。顔が近過ぎて確信は無いけど多分そう。
「まぁ、正確にはちょーっと違うけど」
「二十年も会わなかった私が?でも、どうやってそんな——」
必死に考えても何も思い付かず、頭の中は無駄な動きをぐるぐると繰り返す。
「んー……どうしようかなぁ。教えるか、教えないか」
ロイさんが小声で低く呟き、私の耳を軽く咬んだ。
「ひっ!」
腰が軽く浮き、手に力が入る。瞼をギュッと強く瞑ると、私は胸の奥から湧き出てきた嫌悪感からくる吐き気をグッと堪えた。
「ははは、いいね。凄くいいよ、その反応」
「そ……んな声、止めてっ」
低い囁き声が否応なしに耳を擽ぐる。聞き慣れた声が、こんな状況で傍にある事が嫌で堪らない。
「ん?もしかして、芙弓は僕の低い声は嫌いなのかい?いいことを教えてもらっちゃったな。おっと、油断するとすぐに素が出るな。……今の君には言葉遣いも変えた方が良いかい?もっと丁寧にしたり、営業用トークみたいな話し方とか」
「そんなんヤダ……やだやだやだ!」
駄々をこねる子供のように声をあげる。
「もっと嫌がるといいよ、そして……僕の事を心底嫌ってはくれないかなぁ。ねぇ、頼むよ、芙弓」
首筋にそっとキスをし、ラインをなぞる様に舌が鎖骨へと這っていく。
「名前で呼ぶなぁっ」
「まだその程度の事を怒るのかい?そんな事よりも、窮地にある自分の貞操を心配したらどうだい?」
もっともな意見に一瞬我に返り『なるほど!』と思ったが、笑われそうだったので口にはしなかった。
「雪乃の人形を頼んでも、プライベートな空間を勝手に弄っても、居座るって言っても、僕の事を避けようとするだけで君は全然嫌う気配が無い」
(本心じゃなかったの?『人形を作れ』って、あの言葉は。——ん?でもちょっと待て!)
「あった!いっぱいあったよね!?嫌われてるって感じ取れる言葉いっぱい言ってるって!事実、もうとっくに私はアンタなんか——」
押さえられている両腕を振り解こうと暴れながら、私は悲痛な声で叫んだ。
「いいや、全然嫌ってくれていない。嫌ってくれないからもう、実力行使に出るしかないと思ったんだけど、芙弓はどこまでやれば僕を嫌いになってくれるのかなぁ……」
そう言う彼の頭が辛うじてある谷間に埋もれて胸に当たる眼鏡が少し硬くて痛いが、顎に当たる彼の柔らかい髪がくすぐったい。
「あれ、胸元がやけに柔らかいけど下着は着けてないの?……あぁ、本心では期待してたのか。案外イヤラシイ子だったんだね」
ロイさんが話す度に、彼の吐息で胸元が熱くなる。
「一階には着替えが無かっただけでっ」
「まぁ、そうだよな。芙弓はこういった事嫌いだし……ね?」
「何でその事知って……」
「知ってるよ、何でも。君が定期的に購読している雑誌も、入院寸前の栄養失調状態だって事も、どうして性的な行為が嫌いになったのかも。芙弓が、もっと秘密にしておきたい事だって僕は知ってるよって言ったら、君はどうする?」
(——は??どれ!?)
誰にだって知られたくない秘密の一つや二つや三つ——いっぱい、そりゃもう大量にあるはずだ。人との接触を極端に嫌い、貯金にモノを言わせて引き篭もっている私とて、もちろん例外じゃない。いや、引き篭もっていたせいで尚更と言うべきか……。
とにかくだ。他人には秘密にしておきたい事が多過ぎて、どれの事を言われているのか私にはさっぱり分からなかった。
「芙弓ってさ、ネット通販に依存して生きているだろう?だからそういう事って、ものすごく簡単に調べられるんだよね」
(個人情報保護法なんてもんは、大企業の御曹司相手ともなると適用されないのか!?)
——なんて、今考えるべき事は他にあるっていうのに無性に気になる。
「どうしてそんな事を調べる意味が?その、『侵食』だなんだってやつと何か関係があるの?」
「んー……嫌ってもらう為にちょっと、ね」
「……『嫌われたい』って言うけど、わざわざ会いになんか来なけりゃ良かっただけじゃ?接点なんか雪乃しかないんだし、私からそっちに行く事なんか絶対に無かったんだから」
「んー……そうだな、うん。芙弓って色々と疎い割には、気が付いては欲しくない事ばかりに目がいくんだね。何だかそれって、もの凄く気に入らないんだけど」
ロイさんの手に力が入り、掴まれている腕の骨に少し痛みが走った。
「ぃっ!」
痛みに顔をしかめる私に向かい、彼が力なく私の胸元から顔を上げ、「大丈夫?」と辛そうな顔で訊いてくる。『やったのはアンタだろうが!』とは思うが、体の心配をしてくれた事はちょっと嬉しかったりする自分に腹が立つ。
「ア、アンタなんか嫌いですからさっさと帰ってくれません?これでもう充分でしょ?」
「……でも、このベッドと布団は僕のだし」
彼は顔を背けながらそう呟くと、今度は私の体の上に覆い被さり、ロイさんと完全に密着した状態になってしまった。
「ん、んな事言うんなら、また分解して持って帰ればいいじゃないですか!」
体重をかけて圧し掛かっている訳ではないので重くはないが、ぴったり重なるせいで全く動く事が出来ない。
「えー。ベッドって重いし、解体するのは面倒だからヤダ」と、 いつもの無駄に子供っぽい声で、彼が言う。
「どうせアンタがする訳じゃないでしょうが!」
「それに、雪乃の人形も手に入ってないし、言葉だけの『嫌い』なんて信用できないから……この状況だし、いっそ、もっと傍にいこうかな」
ちょっと楽しそうな声でそう囁くと、私の脚の間に膝を埋め、頬をペロッと舐め上げてきた。
「ねぇ、どこまでしたら嫌いになる?嫌悪感に満ちた目で僕を見て、罵倒してくれる?君は案外忍耐強い子だから、最後までシないと嫌ってはくれないかもねぇ」
気怠げな表情で囁いているのが声の感じから何となく分かる。コロコロ変わる態度と表情、そして声で頭がくらくらしてきた。 『嫌いになって』と言いながらも、私に触れるロイさんの体はとても熱くて重なる胸元からは激しい心音がハッキリと伝わってくる。 肌をゆっくりと這う舌は優しいながらも甘く、とてもじゃないが嫌って欲しい人の行為とは、どうしても受け取る事が出来ない。言葉とは裏腹な彼の行為に、性的な事に嫌悪感しか持たぬはずの自分の体の奥に、少しだけ、今までに感じた事のない衝動が疼いた。
「……くっ」
乱れそうな呼吸をどうにかしたいのに、どうにも出来ない。
「……え?まさか、感じてるの?嘘だよね?」
そうなっても可笑しくない事を自分で私にやっているクセに、戸惑った様な声でロイさんが呟く。
「んな訳がぁ!」
強がった声をあげたが表情まではどうにもならず、情けない顔になる。
「そうだよね、うん。芙弓はそうじゃなきゃ」
無表情で頷くと、ロイさんの柔らかそうな唇がそっと近づき、私の唇に重なってきた。
「んくっ!」
警戒心と怖さから……悲しいかな、ソレ以外にも、認めたくない衝動を内側に押し戻す為に瞼をぎゅっと強く瞑る。閉じられた瞳の端からは涙がぽろっと流れ落ち、否応無しに高揚で火照る頬を伝った。
脚の間にある彼の膝が少しづつ上へと忍び寄り、ショーツを着用していない下半身にそっと触れる。そんな彼の行動のせいで体をビクッと震わせると、こちらの動きに呼応する様にロイさんは私の口の中へ灼熱とも感じられる舌を強引に押し入れてきた。
「んぁ……んっ!?」
いつかは自分も大好きな人と甘いキスを——と、夢見ていた自分が遥か過去には存在していたが、夢見ていたのはこんなシーンではなかった。 自分はまだ歯磨きもしていないせいで多分魚臭いし、状況もこんなモノではない予定だった。納得いく状況ではないせいもあってか、それとももっと別の感情からくるものなのか……。理解しがたい涙が次々にボロボロと私の頬を流れ落ち始めた。
「泣いてるね、悔しいのかい?それとも——」
ブルルルルッ!!ガタタタタタタッ!!
受け止めきれぬ怪しき雰囲気の間に割って入る、急に鳴り出した何かが震える様な音と、それに伴う何かを小刻みに叩くような振動音でロイさんの言葉は途切れた。
振動音にビクッとしながら音のする方を私達が同時に見ると、部屋にある物の種類がものすごく減っているおかげで音の正体はすぐに分かった。
この異様な状況を一瞬で破壊してくれた物。—— それはサイドテーブルの上に置かれたままになっていた、彼の黒いスマートフォンだった。
音も振動もすぐに鳴り止んだのできっと、着信があったのは何らかのメッセージの方だろう。
ロイさんは軽く息を吐きながら金色の柔らかい髪を掻き上げると、無言のまま私の体から離れ、小さな光をチカチカと点滅させているスマートフォンを手に取った。
床に脚を下ろしてベッドに腰掛けると、どこからの着信なのかチェックを始める。『こんな状況で、今確認するのかよ』とも思うが、この場合は『助かった』と受け止めておこう。
やっと自由になった体を起こして画面を見る彼の背中に視線を向ける。するとロイさんは嬉しそうな顔でスマートフォンの表示を消し、急にクルッと私の方へ振り返ってきた。突然戻ってきた彼の視線に体がビクッと震える。今度は何が起きるのかを全く予測出来ないせいだろう。
ニッコリと微笑みを浮かべる彼の顔を戸惑いに満ちた目で黙って見ていると、彼はある意味では納得の、それでも今言うには相応しく無い言葉を口にした。
「雪乃からメールがあったから、僕はもう行くね!短い時間しか居られなかったけど、とっても楽しかったよ」
手を軽く上げ、「——じゃ!」と言いながらスマホの側にあったネクタイを手に取り、それを首にかけて身支度をさっさと済ませる。床に置かれていた自分のビジネス鞄を持ち、窓側にある椅子にかけてあったスーツのジャケットをムカつくくらいにカッコ良い所作で羽織ると、何事も無かったような清々しい顔で私の寝室のドアを開けた。
「……え?」
急転した展開に顔が呆けてしまう。『帰って欲しい』という私の望みが叶い、嬉しいはずなのに、何故だか気持ちがすっきりしない。ついでに、体も……。
たった数時間前までアンタは『此処に居る』と、私に『人形を作って貰えるまでずっと傍に居る』と。その為ならば『結婚までしよう』と言い出す程、強情で独断的な案を振りかざしていたというのに——
(たった一通のメール程度で考えを変えるのか、お前は!)
やっぱりアンタは、偽物でしかない人形を作るだけの女に『嫌われたい』なんて理解不能な『本題』とやらよりも、愛おしい生身の妹を取るんだな。
——そう思うと、『怒り』というよりもむしろ『悔しい』感情が心の中でマグマのように噴出し、全身を満たし始めてきた。
自分勝手で、マイペースで、実妹しか見ていない彼が、絶句したままの私に向かい、満面の笑顔で「じゃあね」と手を振る。華美なベッドの上に居る私を放置して家に帰るロイさんに向かい「……もう二度と、此処には来ないで下さいね」と無表情で言うのが、自分の中では精一杯マシな見送りだった。
ふと見上げた壁の時計は今、深夜十二時半を指している。ロイさんに対し、何かを期待などしていなかったし(そもそも何を期待するというんだ)、『帰って欲しい』と考えていたのも事実だが、心の何処かで彼は本当に家に泊まっていくものだと思っていた。もう今から帰るには時間も遅いし、準備よく寝室にベッドまで設置していたせいもあってだ。
いつ呼んだのかも分からない黒塗りのリムジンが一台、私の家の玄関前に止まったのが窓越しに見えた。迎えの車にそそくさと嬉しそうに乗り込むロイさんの後ろ姿を、二階の窓から見下ろす自分の顔が悔しさに歪んでいるのが自分でもハッキリ分かる。
「アンタなんか大っ嫌い!嫌い嫌いきら……ぃ!」
過ぎ去った嵐に文句など言っても全くもって無意味なのだが感情の制御が効かない。地団駄を踏みながら叫んだその声は、引っ越し以来初めて小奇麗になった部屋の中で空しく響いた。