午前十一時。
西の国・ユーラナイト王宮の中庭には、春の花々が満開に咲き誇り、柔らかな風がそよいでいた。
その穏やかな景色の中心で――
「……顔が、近いです……っ」
「……すまん、動けん……」
なぜか、オリビアとアルベール王子が、
“あと数センチで唇が触れそうな距離”で、静止していた。
状況を説明しよう。
ことの発端は、ふたりが「恋人のフリ」の一環として散歩をしていた時だった。
「……オリビア、ここで写真を撮るのはどうだ?」
「えっ、王子様から“撮りましょう”と提案なさるなんて、珍しいですね……」
ふたりで中庭の一角にある、花に囲まれた石造りのアーチの下に立った時。
「……髪、風で乱れてる」
そう言って、王子が思わず手を伸ばした。
いつも通りの無表情だったが、指先は驚くほど優しく、白銀の髪を整えてくれる仕草は、まるで恋人そのもの。
(な、なにこれ……近い……!)
顔と顔の距離は、たったの15センチ。
風が吹き、花びらが舞う。
オリビアがほんの少しバランスを崩した、そのとき――
ぐらっ。
「……!」
思わずよろけたオリビアを、アルベールが咄嗟に抱き留めた。
その勢いで、ふたりの距離は――
あと数センチ。
本当に、あと“数センチ”。
キス、直前。
「……っ!」
「………………」
その状態で止まった二人は、お互いの顔をまじまじと見つめるしかなかった。
目が合う。
睫毛が、触れそうなほど近く。
口元が、震える。
(……な、なにこの状況……!?)
(お、落ち着け俺……これは事故……事故だ……)
王子の背筋に汗が流れる。
けれどその瞬間――
「オリビア様ーーーっ!!!」
「王子様あああっ!!」
侍女たちと近衛兵たちが、一斉に“突撃”してきた。
「おやめください、貴族の令嬢に手を出すなど――」
「王子様の純潔が危ないッ!!」
「って違うだろうお前ら!」
パニック状態。
結果――王子とオリビアは、慌てて距離を取り、何もなかったふりを装ってその場を離れる。
しかし……目撃者は、多かった。
翌日には、王宮内の掲示板にて以下のような張り紙が出回っていた。
【緊急速報】
王子様とオリビア様が中庭で“キス未遂”をされました――!?
目撃者多数、詳細調査中。
そして、その余波は……
***
「……どうして、朝から報告書の山が“キス関連”なんだ……」
アルベールは執務机にうずくまっていた。
机の上には、「民からの祝福の声」「舞踏会での再ダンス希望」「早くご結婚を」などの署名の束。
「王子様、今や完全に“理想のロイヤルカップル”ですよ」
「……俺の知らぬ間に何が起きている」
「まあ、キスしそうなほど顔を近づければ、そうなりますよ」
「事故だった……! 風が! 重力が! 全部物理現象だ!」
「誰も信じませんよ」
王子の耳は、またもや真っ赤だった。
***
その夜、オリビアの部屋では。
「……どうしよう、ミーナ」
「はい?」
「もう、“嫌われてる”って思えない……」
ミーナは、やっと気づいたのですね、という顔で頷く。
「王子様、オリビア様のこと大好きですよ」
「えっ!? で、でも……あの冷たい目とか、無口とか……!」
「全部、照れ隠しです」
「……じゃあ、昨日の……顔を近づけてきたのも……」
「思わず、じゃないですか?」
「……思わず、私に……?」
「それ以外、考えられません!」
「………………」
オリビアはベッドに顔をうずめて叫んだ。
「わ、私、もう“恋人のフリ”じゃなくなるかもしれない……!」
***
その晩、それぞれの部屋で眠れなかったふたりは、
“同じ夢”を見ることになる。
それは――手を繋いで歩く夢。
言葉を交わして、笑い合う夢。
そして、なぜか最後は――
そっと唇が触れそうな瞬間で、目が覚める。
***
(……なぜ、夢でもキス未遂……)
(……もう“フリ”なんて言えない……)
気持ちが、少しずつ、追いついていく。
恋が、まだ“名前のない状態”で、じわじわと動き出していた。
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