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 ケイロー渓谷は、北と南を山脈に挟まれた谷でしかない。

 そうであろうと、シイダン耕地とミファレト荒野を繋ぐことから、僻地ながらもその意味は存在している。

 エウィンとアゲハはそこを目指して移動を開始した。朝の十時過ぎにシイダン村を出発したことから、王国軍と比べると少々遅い旅立ちだ。

 先んじて進軍を開始した部隊が、第一遠征部隊と第二遠征部隊。総勢四百人にも及ぶ大所帯ながらも、実際には二手に分かれてケイロー渓谷を目指す。

 第一遠征部隊は北上の後に西へ。

 第二遠征部隊は西へ進んでから北方面へ。

 地図で見た場合、ケイロー渓谷はシイダン村の北西に位置するため、どちらのルートを選ぼうとたどり着ける。

 王国軍が二手に分かれた理由は警戒のためだ。ゴブリンが大軍を率いて動き始めている可能性があるため、シイダン耕地を広い範囲でカバーしたいという目論見がこのような方法を選ばせた。

 そして、急遽加わった三本目の矢が、エウィンとアゲハだ。

 彼らは村を出た後、最短距離を進むため、農地を横切りながら北西を目指す。

 遅れて出発した理由は、そこまで急ぐ必要がないからだ。

 なぜなら、エウィン達は昼過ぎにはたどり着けてしまう。傭兵らしくこの地を走り抜けるため、ものの数時間で事足る。

 対して王国軍だが、残念ながらそうもいかない。人数が多いということは、その分、荷物の量も肥大する。武器や防具だけでなく、人数分かつ日数分の食料を運搬せねばならず、いかに手分けして運ぶとしても、全力疾走などおおよそ不可能だ。

 エウィンとアゲハ。

 第一遠征部隊。

 そして、第二遠征部隊。

 この三勢力が集うタイミングは、本日の夜を予定している。

 合流地点はケイロー渓谷の手前と定めた。

 ゴブリン達の目と鼻の先に陣取る以上、危険であることは間違いない。

 それでも、これほどの大部隊ならば問題ないと隊長達は判断した。

 足並みを揃えながらも二ルートで進軍する軍人とは対照的に、エウィンとアゲハはたった二人で先行する。身軽さがそれを可能とするのだが、もちろん、理由はそれだけではない。


「そろそろですよー、大丈夫ですか?」


 エウィンの声が、静かな草原地帯に木霊する。

 緑色の髪を揺らしながら振り向くと、黒髪のアゲハと視線が交わるのだが、その顔はいくらか疲弊気味だ。

 様子を見かねて立ち止まる。

 そのついでに空を見上げるも、今日の天気は曇りのようだ。白い雲が天を覆っており、雨の心配はなさそうだが、普段よりはわずかに暗い。


「さっき、食べ過ぎたかも……」


 わき腹を押さえている理由は、満腹が原因らしい。

 二人は先ほど、川沿いに腰を下ろして昼食を楽しんだ。時間的には余裕があるため、シイダン村で購入したパンをピクニック気分で食すも、調子に乗って買い込んでしまった弊害がこのタイミングで露見してしまう。


「サンドイッチとコロッケパンがめちゃくちゃ美味しくてビックリしました。食べ応えもあって、僕もお腹パンパンです」

「お野菜が、シャリシャリしてて、コロッケの風味も、素敵だったよね。また、食べたいな」


 舌鼓を打つとはこのことだ。

 百イールから二百イールのお手頃なパンを買い漁るも、得られた満足感は非常に高い。


「結局、ここまではゴブリンを見かけませんでしたね。まぁ、本番はこの辺りからって気もしますけど」


 エウィンがさらに振り向くと、その方角は進行方向だ。

 遥か彼方には壁のような山脈がそびえ立っている。それらを越えるこどなど到底不可能ながらも、実際にはケイロー渓谷という隙間があるため、直進してしまって構わない。

 追い付いたアゲハが寄り添うように立ち止まると、小さな背負い鞄から革製の水筒を取り出す。


「わたしも、気合入れ直すね」


 言い終えると同時に喉を潤すアゲハだが、体力の消耗は見て取れない。エウィンがそのように配慮した結果なのだが、彼女自身の成長があってこそだ。

 緑色の服で風景に溶け込みながら、少年は静かに空を見上げる。


「偵察……。無茶はするなって言われてますけど、その線引きが実はわかってなかったり」


 二人が先行する理由はゴブリンの動向を窺うためだ。

 そして、作戦立案のために情報を持ち帰る。


「ケイロー渓谷付近の、探索だけでもいいって、言ってたけど……」

「そうですね。と言うことで、もうちょい進みましょう。ゴブリンはおろか、芋虫すらぜーんぜんいませんし」


 エウィンの言う通り、この地は魔物が少ない。

 だからこそ耕地に選ばれたのだが、傭兵にとっては退屈な土地と言えよう。

 そうであろうと、走るしかない。


「うん」

「いざ」


 休憩は一瞬だ。

 二人は改めて、ゴブリンの巣窟を目指す。

 塗装された道などないのだが、エウィンの疾走に迷いは感じられない。顔だけがキョロキョロと周囲を見渡すも、この土地について学ぶためであり、何かを探しているわけではない。


「そういえば……」


 走り出した直後、エウィンが思い出したように語りだす。


「この川にも甌穴群ってあるのかな?」


 二人が地図なしに進めている理由の一つが、左手側に流れる河川のおかげだ。

 シイダン耕地には二本の川が存在するのだが、その内の一本がケイロー渓谷由来ゆえ、辿ればあっさりとたどり着けてしまう。


「どう……かな? あれって確か、水流とかの条件が厳しかったと思う……」

「そうなんですか。まぁ、それならそれでって思えちゃうくらいには、興味がないんですけど」

「そ、そうなんだ……」


 川底に発生する、えぐられたような穴ぼこ。魚やカニが巣穴として作るわけではなく、へこみ部分に小石が入り込みそれが水流によって踊り続けた結果、球状に拡張された結果だ。

 つまりは自然現象であり、その集団を甌穴群と呼称した。


「あっさりと着けそうですし、ちょい減速しましょう。見渡す限り、ゴブリンは全くいませんけど……」


 エウィンの魔物感知も、敵影を捉えていない。

 つまりは、この辺りは完全な安全地帯だ。見慣れない風景を楽しんだところで何一つ問題ない。


「山が、すごく高い……」


 アゲハが感嘆の声を漏らす。

 現在地は、シイダン耕地の南西付近。二人は川沿いに西へ進んでいるのだが、その先には壁のような岩山が健在だ。


「地球も、こんなに山だらけなんですか?」

「あ、ううん、日本は多い方だけど、それだって、こんなじゃないかな」


 アゲハの言う通り、日本列島は傾斜だらけの国だ。土地の半分以上が山地だと言われており、人口の密集地帯はどうしても偏ってしまう。


「コンティティ大陸って、山があちこちを通せんぼするから、思ってるより自由じゃないと言うか……。あ、ちなみに、前方の山のずっとずっと先にあるのがミファレト荒野、僕達のゴールです」

「うん、楽しみだね」


 傭兵の等級を一から二へ上げた理由。

 こうしてシイダン耕地へ立ち寄った理由。

 そのどちらもが、ミファレト荒野を訪れるためだ。

 その地にはクレパスのような亀裂が存在しており、これの観光こそがアゲハのリクエストだ。


「甌穴群みたいな感想しか抱けなかったら、どうしようって今からちょっと不安だったり……」

「ふふ、それならそれで、良い思い出かな」


 ジョギングのようなペースで彼らは進む。

 談笑が盛り上がる理由はシイダン耕地が初めてだからか。

 もしくは、二人っきりのおかげか。

 どちらにせよ、河川をなぞるように前進あるのみだ。

 青々とした大地を見渡しながら、エウィン達は渓谷を目指す。

 そしてその時が訪れるのだが、当然ながら異変の察知はこの少年が先だ。


「う、アゲハさん止まってください。ゴブリンっぽい気配があります」


 幼い顔でしかめっ面を作りながら、エウィンが足を止める。

 それを合図にアゲハも立ち止まるも、聞き返さずにはいられなかった。


「わたしには、何も見えないけど……。さすが、エウィンさん。方向は、やっぱり……」

「はい。進行方向にいます。数は三。ん? 近づいてきてる?」


 エウィンの索敵は正確だ。方角はおろか個体数まで言い当てられるのだから、視覚情報よりも精度は高い。

 一方で、この能力が万能でないことを本人は気づいている。


「ゴブリン……とは断定出来ないけど、アゲハさん、気を付けてください。けっこうなスピードで近づいて来てます」


 レーダーが敵影を捉えたが、その正体まではわからない。

 エウィンが凝視する先には、岩山と岩山に挟まれた谷のような地形が確認出来る。

 ケイロー渓谷の入り口だ。よほどの理由がない限りは、傭兵すらも寄り付かない溝状の土地。

 ゴブリンの巣窟と化しているのだが、その数が増大している理由は依然としてわからない。

 調査も大事だが、既に被害が出始めていることから、王国はゴブリンの殲滅を決断した。

 そのための軍隊は既に進軍しており、開戦は明日を予定している。


「こ、こっちに?」

「はい。まだまだ遠いし、ただ走ってるだけかもですけど……」


 先端だけが青い黒髪を揺らしながら、アゲハが周囲を見渡す。

 ぽつぽつと樹木が案山子のように立っているも、それ以外は特徴のない平原だ。幅広な河川で水遊びくらいなら可能だろうが、村からはかなり離れているため、農民は当然ながら傭兵すらも見当たらない。

 つまりは、二人が黙った場合、その静けさは異常だ。

 山脈を越えた風が、でっぱりのようなエウィン達をそっと撫でる。わずかに肌寒いものの、この少年を怯ませるには至らない。


「あ、立ち止まったっぽいです。もうちょっとだけ進んでみましょっか」

「うん」


 本来はありえない行為だ。

 魔物が待ち構えているとわかっていながらも近づこうとしているのだから、愚か者以外の何者でもない。

 それでも進む。

 これが傭兵であり、今回はそれこそが仕事だからだ。


「ところで、渓谷ってどんなところなんですか? 地理の教科書や新・地理学六版を読んでもいまいちわからなくて……」


 細心の注意を払うべきだが、エウィンはこのタイミングで問いかける。

 ここはまだ安全だ。相手の姿が視認出来ないのだから、逆説的にはこの二人の接近についても気づかれていない。


「えっと、山と山に挟まれた、谷みたいな場所、かな。入り組んだ、険しい道のりだと、思う……」

「へー、そんなところでゴブリンと戦闘……。それってめちゃくちゃ大変なんじゃ?」

「そうかも……」


 河川に沿って進むのなら、直進は可能なのだろう。

 しかし、その場合は左右からの挟撃に晒されてしまう。ゴブリンは知恵を持った魔物ゆえ、その程度の戦法はお手の物だ。


「そこらへんは数の暴力でどうこうしちゃうとか? まぁ、数で上回ってるのはあっちなんですけど……」

「相手は、少なくとも、千以上……。大丈夫なのかな?」


 第一遠征部隊と第二遠征部隊合わせて、軍人の総数は四百人。

 エウィンとアゲハが加わることで四百二人となるのだが、人数の差は覆せない。


「軍人さんは勉強も出来る人達でしょうし、作戦の一つや二つは思いついてるのかも? 昨日の話し合いはそこまで踏み込めませんでしたけど、後で合流したらさすがに教えてもらいましょう」


 実はこの考え方は誤りだ。

 軍人が優秀であることは間違いない。イダンリネア王国を守るために日夜鍛錬に取り組んでいるのだから、その戦力は傭兵と同等かそれ以上だ。

 その合間に軍学校での勉学にも励まなければならないため、博識であることは疑いようがない。

 こういった事実を積み重ねた結果、世間の目には傭兵が落ちこぼれに見えてしまう。エウィン自身もそのように勘違いしてしまうのだから、王国民の大多数もそのような幻想を抱いて当然だ。

 そう、傭兵の方が劣るという客観的事実はどこにも見当たらない。

 確かに、彼らは軍人とは異なり、統率の取れた行動は苦手だ。

 教養についても、色々と足りていないのだろう。

 そうであろうと、傭兵は立派な専門家だ。魔物と戦い、勝てる時点で上澄みであることは間違いない。

 魔物を狩ることしか出来ない、社会の不適合者。こういった指摘に関しては、残念ながら否定など出来ない。強者ではあるが、同時に狂者でもあるからだ。

 しかしながら、この荒くれ者達は体だけでなく頭も使っている。

 魔物に負けないために。

 効率的に狩るために。

 そして、金を稼ぐために。

 思考を停止していては、生き残れるはずなどない。

 依頼という導線のおかげで食事代程度なら稼げるも、その先を目指すとなるとやはり自分達の頭で考えなければならない。

 鎧やローブが汚れていようと。

 近寄りがたい雰囲気をまとっていようと。

 彼らは見た目に反して勤勉だ。

 一般教養や学問に関しては疎いのだろう。

 そうであろうと、魔物を狩ることに関しては軍人と同等かそれ以上だ。

 それが傭兵であり、少数精鋭で動くことを生業としていることから、軍人とは本質からして異なる。

 ゆえに見下すべきではないのだが、エウィンが経験不足であることは疑いようがない。

 傭兵歴は十一年。この長さだけで判断するのなら、最前線を走るベテランそのものだ。

 そのはずなのだが、現実は異なる。その年月を草原ウサギを狩ることだけに費やしたのだから、経験も視野も新人と大差ない。

 エウィンの境遇を変化させた張本人が、寄り添って走るこの女性だ。


「いっきに、攻め込んで、短期決戦で終わらせるのかな? 無茶せずじりじりと、籠城戦に持ち込むのかな? どっちも、大変そうだね」


 アゲハは博識な女性ながらも、軍事作戦についてはまるでわからない。

 それはエウィンについても同様だ。のんびりと走りながら、持論を述べる。


「僕としては、王国から全軍を率いて根絶やしにしちゃってもいいと思いますけどねー。ゴブリンなんて、百害あって一利なしですし」


 辛口な発言だが、平和な日常を望むのならあながち誤りでもない。

 軍人全員で攻め込むという方針は極端過ぎる上、王国が無防備になることから却下されるだろうが、さらなる増員は検討の余地がある。


「ゴブリンって、世界各地に、潜んでるんだよね?」

「そうみたいですね。やっかいなこ……」


 アゲハへの返答が、とある事情によって遮られる。

 思考が停止したからではない。

 言い淀んだわけでもない。

 少年の瞳が、遥か前方に小さな人影を捉えたからだ。

 それは走りながら、明らかに二人の方へ近づいている。

 ケイロー渓谷から、シイダン耕地へ。

 つまりは先ほど感知したゴブリンの一体であり、遠方ゆえに姿かたちは不明瞭ながらも、そのシルエットは二本の足で走っている。


「お、見えました。ん? いや、まさか、人間? 傭兵っぽいです!」


 さすがのエウィンも、目を見開いてしまう。

 同時に、先ほどの謎もこのタイミングで明らかとなった。

 なぜなら、現れた人影に続き、三体のゴブリンも姿を現したからだ。

 アゲハは状況が飲み込めないため、走りながらも慌てふためく。


「え? え?」

「く、そういうこと……! 誰かがゴブリンに追われてます! 走ったり止まったりは、戦ってるってことか!」


 正しくは、逃亡なのだろう。

 遠方ゆえに米粒のように小さいが、傭兵らしき人間がゴブリン三体に追われている。

 男か、女か。

 大人か子供か。

 何もかもが不明ながら、肌の露出が多いことからも先頭を走る誰かが人間であることは間違いない。

 なぜなら、ゴブリンは鎧ないしローブで顔を含む全身を完全に隠す。

 接近戦を主体とする個体はフルプレートアーマーで、魔法の使い手なら頭部を布切れで包み、体もローブで覆い尽くす。

 ゆえに、肌の露出は一切ない。


「助けて、あげないと……」


 アゲハが咄嗟につぶやくも、エウィンとしては言われるまでもない。

 しかし、逃亡者が逃げ切れるかどうかは当人次第だ。二人は依然として離れており、手を差し伸べるにしても時間がかかってしまう。

 そうであろうと、走るしかない。


「先行ってます!」


 この発言は決意表明だ。

 エウィンは脱ぐように巨大なリュックサックを捨てると、全力疾走を試みる。

 当然ながら、同行者は置き去りだ。アゲハは少年の力強い背中を眺めながら、放されながらも追いかけるしかない。

 眼前には障害物などなく、まばらな木々も進行方向には見当たらない。エウィンは風すらも追い抜きながら、見知らぬ逃亡者を目指す。


(女の人⁉ レザーハーネス系の鎧で、足は速そうだけど……)


 距離が縮まったことで、わかったことがいくつかある。

 視覚から得られた情報通り、追われている人物は女性だ。職業については推測ながらも、革鎧を身に着けていることと短剣を携えていることから傭兵の可能性が高い。

 黄色い髪は少年のように短く、一方で顔立ちは大人の女性だ。

 その顔が苦痛に歪んでおり、疲労のせいなのか負傷しているのか、真正面から眺めた限りではわからない。


(あ、こっちに気づいた。そのまま逃げてください!)


 エウィンは祈るように走る。

 両腕を力強く前後させ、右足と左足についても競うように大地を蹴り続ける。

 後方にアゲハの姿はなく、二人の身体能力を加味すれば当然の結果だ。

 見知らぬ傭兵との距離が縮まったことで、少年はさらなる情報を掴む。


(走り方がぎこちない? 足を怪我してる? だけどもうすぐ追い付け……)


 楽観的思考は、残念ながら砕かれてしまう。

 逃亡者は追い付かれていない。

 転んだわけでもない。

 にも関わらず、救助が間に合わないと悟ってしまった理由は、彼女の背中に矢が撃ち込まれたためだ。

 こうなってしまっては、両者共にどうすることも出来ない。

 彼女は崩れ落ちるように倒れ込み、エウィンは走りながらもその様子を見届ける。

 その時だった。

 少年の脳裏に、かつての光景が蘇ってしまう。

 森の中で、子供を逃がすために身代わりとなった母。視界の端には、黒いフルプレートの小鬼がクロスボウを構えていた。

 その矢が放たれるよりも早く逃げ出したため、母の最後を見届けたわけではない。

 しかし、おそらくはこうなのだろう。そう思い描いた妄想が、今この瞬間に再現されてしまった。

 この心理的ストレスが、エウィンの戦意を奪い去る。フラッシュバックによってトラウマが刺激されてしまったばかりか、その先を見せつけられたことから、思考の停止は必然だ。

 手足が思い通りに動いてくれない。瞬く間に減速し、よろめいてしまう。

 母の死を連想してしまったのだから、他者を助けるどころではない。

 エウィンの頭の中に、母の叫び声がこだまする。

 逃げなさい!

 この声に背中を押され、六歳の子供は逃げ出した。

 涙を流し、見知らぬ森の中を必死に走り続けた。

 この事実を思い出してしまった以上、おごっていた自分がただただ情けない。

 助けられなくて当然だ。母を見捨て、自分だけが逃げたのだから、見知らぬ誰かを庇いたいという感情こそが欺瞞だと断罪せざるを得ない。

 諦める。何を?

 諦めたくない。何を?

 くだらない問答だ。

 自分は助ける側ではなく、助けられた側だ。

 他者を守りたいという感情は、子供のわがままでしかない。

 わかっている。

 わかっているからこそ、エウィンは無力感に打ちひしがれる。

 同時に、わかっていてもなお、体を突き動かす何かが心の奥底から湧き上がり始める。

 右足が前へ動いてくれた理由はシンプルだ。

 続いて、左足も追い抜くように前進する。


「うおおぉぉ!」


 背中を押された。もちろん、背後には誰もいない。

 否、遠く離れていようと、二人は既に繋がっている。

 零れた涙がもたらした奇跡。

 さらには、契約さえも成立した間柄だ。

 無力だった自分に恐怖しようと、諦める必要はない。

 両親との別離から十二年。

 六歳だった子供は十八歳の傭兵となり、今はシイダン耕地を誰よりも速く走れている。

 その速度はクロスボウの比ではない。負傷者を瞬く間に追い抜くと、次弾の装填を試みるゴブリンへ渾身の打撃をめり込ませる。

 谷の入り口に響く、異質な激突音。それは命が一つ散った証であり、吹き飛んだ魔物のフルフェイスは痛ましくもへこんでいた。


「次!」


 残りは二体。片方は古ぼけた剣を構えており、もう片方は短剣を握って逃亡者へ迫ろうとしている。

 それらは突然の突風が何を意味するのか、未だ飲み込めていない。耳を覆いたくなるほどの騒音には怯まされたが、反応としてはせいぜいそれくらいだ。

 エウィンは右隣の個体へ、狙いを定める。

 頑丈そうな黒い鎧も、長く見える片手剣も、もはや意味を成さない。

 音もなくゴブリンの背後にまわり、排除するように蹴とばせば、二体目の討伐も完了だ。

 この個体は自身が死んだことにすら気づけないまま、地平線の彼方へ転がっていく。

 残りは一体。

 そして、その排除も一瞬だ。

 走り続けたゴブリンだが、その位置は二人の人間の中間付近。

 つまりは、射抜いた獲物に駆け寄ることすら出来ていない。進みはしたのだろうが、その時間でエウィンはゴブリンを二体仕留めたのだから、両者の力量者は歴然だ。

 ゆえに、三個目の死体が出来上がる。

 漆黒のフルプレートアーマーを着こんでいようと、その背中は子供のように小さい。ゴブリンとはそういう魔物であり、小柄な体には人間離れした身体能力が宿っているのだが、今回ばかりは相手が悪かった。

 追いかけ、追い付き、潰すように右手を振り下ろす。トンカチのように頭頂部を叩けば、最後の一体は倒れるしかない。首の骨が折れ、ヘルムの中の頭部も破壊されたのだから、絶命は必然だ。

 魔物の掃討が完了したことから、本当ならば一息つきたい。

 しかし、エウィンは冷静さを取り戻しながらも、被害者の元へ駆け寄る。


「だ、大丈夫ですか?」


 痛々しい姿だ。茶色の革鎧を貫通して、彼女の背中には矢が一本、突き刺さっている。

 この問いかけに対して、傭兵はうつ伏せのままピクリとも動かない。

 死んでしまったのか?

 気絶しているだけなのか?

 わからないまま、エウィンは顔を歪ませる。


(運んでもいいのかな? それとも、こういう時は動かしたらまずい? わからない、アゲハさん、早く……)


 そう、ここからはアゲハの領分だ。

 ゆえに戸惑いながらもその到来を願うのだが、今の彼女なら期待に答えられる。


「すぐに、手当てするね」


 わずかに呼吸を乱しながらも、アゲハが颯爽とたどり着く。随分と離されてしまったが、積み重ねた努力は本物ゆえ、こうして追い付くことが出来た。

 そんな彼女に驚きながらも、エウィンはすがることしか出来ない。


「お願いします。こういう時って、僕の時みたいに矢を取り除くんですか?」

「うん、そのつもり……」


 生死の確認は処置を終えてからだ。

 それをわかっているからこそ、アゲハはその矢にそっと触れる。

 抜くためではない。そんなことをせずとも、対応は可能だ。

 彼女の指が無機質な棒に触れた途端、それは青い炎に包まれる。横たわる傭兵に燃え移りそうだが、その心配がないことを二人は十分理解している。

 深葬と名付けたこの能力は、触れた対象だけを塵一つ残さず焼却可能だ。

 今回の場合、突き刺さった矢だけを人体に悪影響を与えず消し去ってみせた。手品のような芸当だが、神の寵愛を受ける彼女ならば造作もない。

 もっとも、本番はここからだ。

 二人の眼下では、女性が横たわっている。背中からの出血が増したことからも、治療を急がなければならない。

 アゲハはつぶやくように、服越しに彼女へ触れる。


「傷だけなら、わたしの折り紙で、すぐにでも……」


 有言実行だ。

 衣服の赤い染みはそのままだが、負傷者の傷は例外なく再生される。

 この手応えを受けて、アゲハはエウィンに目配せを送るも、この傭兵は依然として伏したままだ。

 救った者としては、ダメ元であっても問いかけずにはいられない。


「大丈夫ですか? ゴブリンでしたら退治したので、もう大丈夫ですよ」


 先ほどは戸惑ってしまったが、今は躊躇なく彼女の肩を揺らす。

 しかし、リアクションはない。

 ピクリとも動いてくれないことから、エウィンはアゲハを見つめ返す。


「ど、どうしたら?」

「えっと、呼吸の有無とか、心臓の音を確認する、とか……」

「なるほど」


 その指示を実行するため、エウィンは女性をゴロンと転がすと、彼女の口元へ顔を近づける。

 その時だった。


「あ! イダッ!」

「僕も痛い!」


 死体が勢いよく起き上がった結果、二つの叫び声が生まれる。

 一つ目は女の声だ。彼女は黄色い髪ごとおでこを押さえ、苦痛に顔を歪ませている。

 二つ目はエウィン。仰け反りながら側頭部をさする理由は、頭突きをおみまいされたからだ。

 この光景を眺めながら、アゲハが静かに安堵する。


「よかった……。あの、大丈夫ですか?」


 彼女が見つめる先では、見知らぬ傭兵が仰向けのまま苦しんでいる。

 歯を食いしばっている理由は新たな負傷が原因であり、返答は至極当然なものだった。


「おでこがー!」

「あ、今、治します……」


 額を押さえるその腕へ、アゲハの右手がそっと触れる。

 たったそれだけの行為ながらも、頭痛のような痛みが消え去ったことから、女は驚きを隠せない。


「え、嘘。魔法じゃ……ないよな?」

「あ、は、はい……」

「まぁ、いいや。ありがと。そっちの君も……、大丈夫?」

「ナンテコトナイデス」


 エウィンは側頭部を摩りながらも、ぎこちない笑顔を作る。

 こうして起き上がってくれたことを喜びたいところだが、実はそれどころではない。


「そうだ! あいつらがまだ! なぁ、助けてくれないか!」


 必死に訴える彼女に対して、二人の反応は正反対だ。

 アゲハはただただ戸惑うも、エウィンの状況把握は早い。


「お仲間さんが、ゴブリンと戦ってる? ケイロー渓谷のどこかで?」


 だとしたら最悪だ。

 この傭兵の仲間は、間違いなく包囲されている。そのような窮地でゴブリン相手に食い下がれるとは思えない。

 エウィンはそのことに気づいているため、表情はどうしても暗くなってしまう。


「頼むよ! プリムとヨグルンは、まだ戦ってるはずなんだ! 俺を逃がした理由も、こうして助けを呼ぶためで!」


 彼女の発言から得られた情報は二つ。

 仲間が二人いることと、その名前。

 もっとも、これだけでは明らかに不足だ。


「その二人はどこにいるんですか?」


 エウィンは問う。ただの確認ではなく、行動に移るためだ。

 確実に救えるとは思っていない。既に殺されている可能性の方が高いため、死体の回収が現実的な落としどころだろう。

 それでも、一か八かに賭けてみる。

 眼前の傭兵が諦めていないのだから、ダメ元でも挑戦すべきと判断した。


「あいつらなら、歩いて十五分くらいの川沿いにいるはず……」

「わかりました。アゲハさん、この人と一緒に向こうで待っててください。僕は……」

「うん、気を付けてね」


 残念ながら、この二人を連れては行けない。ここから先はゴブリンの縄張りであり、間違いなく、多数の攻撃に晒される。

 庇いながらの進行はそれ自体が時間のロスに繋がるため、単身での救助は最適解のはずだ。

 名も知らぬこの傭兵を、救うことは出来た。

 しかし、全ての人間を助けられるとは微塵も思っていない。

 プリムとヨグルン。この二人に関しては、亡骸を持ち帰ることになるだろう。

 そう思いながらも、一縷の望みを胸にエウィンは走り出す。

 単なる偵察のはずだった。

 しかし、居合わせてしまったのだから、手を差し伸べずにはいられない。

 左右を岩山に挟まれたここはケイロー渓谷。山脈の隙間が作り出す低地であり、エウィンは川上をひたすら目指す。


(考えてみたら、さっきの人って母さんには全然似てなかったな。だから、驚きはしたけど卒倒せずに済んだのかな?)


 そう自分に言い聞かせる。

 記憶のフラッシュバックに耐えられた理由など、もはやどうでもよい。

 それよりも今は、赤の他人であろうとその二人を助けることに尽力する。


(間に合って!)


 風よりも速く。

 誰よりも速く。

 緑髪の傭兵が、この地を割くように突き進む。

 ゴブリンは手ごわい。そんなことは百も承知だ。

 それでも前へ進める理由は、自信も去ることながら、復讐心が混じっているのかもしれない。

 母を殺された子供ゆえ、拭えない感情だ。

 しかし、それだけではないことを、エウィンは自分のことながらも気づけていない。

 ただただシンプルな感情だ。

 アゲハの前ではかっこつけたい。

 もっともこれは、恋愛感情とは異なる。

 つまりは、彼女の信頼に答えたいだけであり、今回は他者に手を差し伸べることでアゲハの期待に答えようとしている。

 そのためには、やはり二人の救出を成功させたい。

 手遅れであろうと。

 そうでなかろうと。

 今はひたすらに走るしかない。

戦場のウルフィエナ~その人は異世界から来たお姉さん~

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