風が牧草を揺らしていた。ニュージーランドの広大な丘陵地帯、片瀬牧場の朝は、いつも風とともに始まる。羊たちはゆっくりと草を食み、遠くでカウベルが鳴る。空は高く、雲は薄く、空気は澄んでいる。
陸翔は、その風の中に立っていた。17歳、高校卒業まであと半年。進路希望調査票はまだ白紙のまま。何になりたいのか、何をしたいのか、考えようとしても霧のようにぼんやりしていて、答えは見えなかった。
牧場の仕事は日常の一部でしかなく、羊の世話も草刈りも、犬の訓練も、ただの「手伝い」だった。犬に対しても、特別な感情はなかった。ただ、祖父の代から続くこの土地で、家族とともに生きているだけ。
片瀬牧場には牧羊犬として二頭のボーダーコリーがいる。ミルク4歳とハイド6歳。
その日の午後、父・ハリスが呼びに来た。
「ミルクが産気づいた。手伝ってくれ」
「俺が? 別に興味ないし」
「いいから来い。命が生まれる瞬間を見ておけ」
しぶしぶ小屋に入った陸翔は、母犬ミルクの荒い呼吸と、静かな緊張感に包まれた空気に、思わず息を呑んだ。母・梨咲がそっと背を撫でている。陸翔は戸惑いながらも、父の指示に従ってタオルを手に取った。
一頭、二頭、三頭……そして四頭目。
その子犬は、他の兄弟より少し小さく、濡れた体を震わせながら、ゆっくりと目を開いた。
陸翔は思わず息を呑んだ。
その瞳の片方が、蒼かった。
澄んだ蒼。空の色よりも深く、冷たさと温もりが同居するような、不思議な光を宿していた。
産まれたばかりなのに、どこか力強く生きようとする意志を感じた。小さな体が震えながらも、確かにこの世界に立とうとしている。
自分はどうだろう。将来のことを考えるたびに、何かが引っかかって、前に進めない。何かを選ぶことが怖くて、ただ流されているだけのような気がしていた。
でも、この蒼い目の子犬となら——。
この子と歩むことで、自分を変えられるかもしれない。そんな思いが、胸の奥に静かに灯った。
その様子を黙って見ていた父・ハリスが、低く、しかしはっきりとした声で言った。
「陸翔、お前がこの子たちの世話を担当しろ。牧場の手伝いの中でも、最優先だ」
陸翔は驚いて父を見た。これまで犬の世話など任されたことはなかった。だが、ハリスの目は真剣だった。
「命が生まれた以上、育てる責任がある。お前がこの子に何かを感じたなら、それを形にしてみろ」
母・梨咲が、そっとミルクの背を撫でながら言葉を添えた。
「ミルクも、子犬たちも、命を育てる時間が必要だからね。陸翔がそばにいてくれたら、きっと安心する」
陸翔は蒼い目の子犬を見つめた。その小さな体が、確かに彼の手の中で生きようとしていた。
「……わかった。俺がやるよ」
その言葉は、風のように静かで、しかし確かに彼の中で何かが動き始めた証だった
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