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陸翔がこの牧場で育ったのは、生まれたときからだった。祖父が日本から移住し、ニュージーランドの地に根を張って始めた羊牧。父・ハリスはイングランド系のニュージーランド人で、祖父の牧場を継ぎ、母・梨咲は祖父の娘として、異国の地に馴染みながら家族を支えてきた。
陸翔にとって、牧場は「日常」であり「義務」だった。朝は羊の世話、昼は草刈り、夕方には犬の訓練。自然に囲まれた生活は穏やかだが、どこか閉じられた世界のようにも感じていた。
「お前は、何をしたいんだ?」
進路希望調査票を前に、父にそう問われたとき、陸翔は答えられなかった。何かを選ぶことが、怖かった。選んだ先に何があるのか、何を失うのか、それが見えなかった。
「別に……まだ考えてない」
その言葉に、父は何も言わずに頷いた。母は少しだけ眉をひそめたが、何も言わなかった。
陸翔は、家族の中で「何も問題のない子」として育ってきた。反抗もせず、成績もそこそこ、友達もいる。だが、心の奥ではいつも、何かが足りないと感じていた。
兄がいた。名前は陽翔(はると)。陸翔が10歳のとき、事故で亡くなった。陽翔は犬が好きで、牧場の犬たちとよく遊んでいた。アジリティー競技にも興味を持ち、いつか出場したいと話していた。
陸翔は、兄の死をきっかけに、犬との距離を置くようになった。犬を見るたびに、兄の笑顔が浮かんでしまうから。それが痛かった。
だからこそ、ミルクの出産に立ち会うことも、最初は気が進まなかった。
けれど——蒼い目の子犬を見た瞬間、何かが変わった。
あの目には、兄が持っていた「前を向く力」が宿っているように感じた。小さな体で、震えながらも生きようとする姿に、陸翔は自分の中の何かが揺れるのを感じた。
「この子たちの世話は、陸翔に任せよう」
父の言葉は、命令だった。だが、陸翔はそれを拒まなかった。むしろ、受け止めた。
「……わかった。俺がやるよ」
その言葉を聞いた母は、静かに微笑んだ。
「ありがとう。ミルクも、きっと安心するわ」
陸翔は、蒼い目の子犬をそっと胸に抱いた。その鼓動が、自分の中の空白を少しだけ埋めてくれる気がした。
風が吹いた。小屋の隙間から、柔らかく、優しく。
それは、兄が残してくれた風のようだった