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エージェント67
#いじめ
#仕事
厨房は戦場だ。
だが、この『レクラ』の戦場はどこか歪んでいる。
蓮が放つ威圧感に怯え、若手たちは指示を待つだけの操り人形と化していた。
「遅い!そんなソースで客が出せると思っているのか!」
蓮の怒号が響く。
彼は手元の鍋をシンクに投げ捨てた。
かつての彼は、もっと愛想よく周囲を巻き込むのが上手かったはずだ。
それだけ、今の彼は「自分の才能の底」が見え始めている恐怖に駆られているのだろう。
「……僕がやりましょうか、シェフ」
僕は静かに、しかし確かな声で告げた。
苛立ちを隠そうともせず、蓮が僕を睨みつける。
「新人のお前が? 抜かすな。これはうちの看板メニューだぞ」
「今のソースは、バターの温度がコンマ数秒高すぎました。香りが開く前に、えぐみが出ています」
厨房の空気が凍りついた。
蓮の眉間に深い皺が寄る。
「……やってみろ。もし失敗したら、その足で叩き出してやる」
僕は頷き、コンロの前に立った。
右手には、特注の薄いシルクの手袋をしている。
火傷の痕を隠すためだが、周囲には「繊細な感覚を保つためのこだわり」だと説明してある。
包丁を握り、野菜を刻む。
リズミカルな音。
身体に染み付いた「湊」としての記憶が、カナタという器を通して解放されていく。
あいつが盗んだレシピ。
その「本当の正解」を知っているのは、世界で僕一人だけだ。
「……できました。どうぞ」
小皿に取ったソースを差し出す。
蓮は疑わしげにそれを口に運んだ。
その瞬間、彼の瞳が大きく見開かれた。
驚き、焦り、そして――抗いようのない渇望。
「これは……」
「今の季節の湿度と、お客様の年齢層に合わせた調整です。蓮シェフの素晴らしいレシピを、最大限に引き立てるのが僕の役目ですから」
僕は完璧な笑みを浮かべた。
蓮の喉が、ゴクリと鳴った。
あいつは確信したはずだ。
目の前の男が、自分の枯れ果てたインスピレーションを再び潤してくれる「魔法の杖」であることを。
「……カナタ。明日から、俺の横でソースを任せる」
蓮の声が、少しだけ震えていた。
それは、自分より優れた才能を見つけてしまった敗北感と
それを手に入れた優越感が混ざった、卑屈な響きだった。
「光栄です、シェフ。あなたの右腕として、死ぬまでお仕えしますよ」
死ぬまで───
そう、お前の料理人としての命が絶える、その瞬間まで。
その夜、営業が終わった後の静かな厨房で、僕は一人、包丁を研いでいた。
蓮が僕の肩に手を置く。
「カナタ、お前はいいな。海外で自由に腕を磨いてきたんだろう?俺は違う。この看板を背負い、常に完璧であり続けなきゃいけないんだ」
「大変ですね、シェフ。でも、あなたには僕がいます。あなたの『才能』を、僕が形にしますから」
「……ああ、頼むぞ。お前は、俺が今まで出会った誰よりも、俺のことを理解してくれている気がするよ」
蓮は満足げに、僕の右腕を叩いた。
そこは、かつて焼き潰された場所だ。
手袋の下で、火傷の痕がズキリと疼いた。
お前が僕を理解していると思っているのは、ただの錯覚だ。
僕がお前を理解しているのは、お前を「分解」するためだ。
信頼は、毒を盛るための器。
今、その器に最高に甘い蜜を注いでやった。
次の一皿では、お前の舌を
僕の味なしでは生きられないように「調教」してやる。
暗がりのなか
僕は磨き上げた包丁の切っ先に、自分の歪んだ笑みが映るのを見つめていた。
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