ヴィドール家の執務室にて。インク壺が割れる音がした。
「おのれ、あの馬鹿娘……! まだ死なないのか!?」
令嬢の父にして鶏鳴卿、ガヌロン・ヴィドールは荒れていた。
顔を真っ赤にして酒を煽っている。
娘をフリージアに嫁がせてから早二ヶ月、あれだけ念入りに自殺するよう刷り込んで、毒薬まで持たせたというのに、一向に死んだという話が入ってこない。
和平の為に嫁がせたはずの娘が、敵国で非業の死を遂げる。
それに憤怒した父ガヌロンが正義を叫び、フリージアに攻め込むというシナリオは、そう思うようにはいかなかった。
「何の役にも立たないばかりか、俺の邪魔をするなど。あの愚か者はただ死ぬことすらできないのか!」
令嬢が命令に逆らったことは一度もなかった。幼い頃から意思の一切を摘み取り、育てず。何も与えなかった。
からっぽの人形が、意思を持つだと?
そんなことはありえない。
そもそも、意思を持ったところで何もできないはずだった。令嬢としての教育を与えられず、立ち回りも知らぬ愚かな娘が王侯貴族とやっていけるわけがない。
早々に不興を買って殺されているはずだ。
令嬢の顔を思い浮かべると。ガヌロンはその小さな顔を両手で掴み、握りつぶしたくなった。理由はわからない。ただ、無性に苛々して殺してしまいたくなるのだ。
あそこまで忌々しい命、殺さぬ方が難しい。
今の今まで耐えてきたことを褒めてもらいたいくらいだ。
もはやそこに理屈はなく、殺したいから殺したいとしか言いようがなかった。皮膚の内側に熱いものがうごきまわるような狂気の顕現にどうにか耐えようと次の酒瓶を開けた。
ガヌロンはこの異様な加害欲求を自分のせいではなく、令嬢のせいだと考えている。
何もしていない娘に対して、一方的に殺意を振りまき、攻撃しているとすれば、悪いのはガヌロンということになる。そんなことはあってはならない。
彼の物語において、鶏鳴卿ガヌロンは正しく、正義のひとであるはずだ。
ならば悪いのは、こんなに自分を怒り狂わせるあの娘のせいに違いない。
だから悪いのは娘の方で、虐待はむしろ正しい行いなのだとすら感じていた。
もっとも、ガヌロンにここまで複雑な思考はできない。
なんとなく自分は正しく、悪いのは令嬢であると盲信しているだけである。
だからこそ、令嬢が命令に逆らったことが心の底から不可解だった。
ここまで俺を苛立たせるのだから、死んで詫びるのは当然ではないか。もちろん、死んで詫びたところで、これまでの借りを少しだって返してもらえたとは思わないが、せめて言われた通りに死ぬべきだろう。なぜそれができない。恥ずかしいとは思わないのか?
毒薬だって、ちゃんと長く苦しんで死ねるものを選んでやったのに。あの毒にいくらかかったと思っているのだ。毒を用意するのだってタダではないのだ。穀潰しの上に無駄金まで使わせて。やはり、やはり、あいつがあの女(・)が悪い。俺は何も間違っていないのだ。
ふと。何か心の奥に凍り付いているものがあるような気がした。
ひどく酔っ払うと、まれにこうした気持ちになることがあるのだ。なんとなく自分の胸を掻き出そうとしてみるが、何かがえぐり出せるわけもない。
それでも胸の奥にあるこのつかえを取り出してしまいたくなった。
意識を心に向け、手を伸ばすと、ふいに冷たさを覚える。それでも触れ続けるとだんだんと氷が溶けてきた。ああ、痛みが来る。
「ひっ」
ガヌロンは床に転がって天井を見上げていた。
息を荒くし、顔を振り、何かに怯えている。
わからない、わからない。
そして、わかりたくない。
更に酒を煽ると、急速に思考がぼやけていく。
凍てつく心は感覚を失い、もはや寒さすら感じない。
何もかもが冷たくなり、わからなくなっていく。
その氷の呪いは人間性と引き換えに、ヒトに安寧を齎す魔性の業。
解呪方法はただひとつ、愛されること。
自らの心に触れることすら恐れた愚かな男は、何も思い出すことなく曖昧に落ちていく。深い深い闇の底へ、どこまでも。
誰にも、自分にすら、愛されることなく。
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