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ガヌロンは朝日が昇る前に目覚めた。
酒瓶を隠し、割れたインク壺を掃除して、執務につく。
ガヌロンは酒浸りで、精神に不安を抱えていたが、人前ではそれを見せないように努めているのだ。
例外は、見られてもどうでもいい人間。あの令嬢のようにこれから死ぬと確信したものだけである。
もっとも、泥酔して酔い潰れる姿を見た一部の使用人にはガヌロンが相当な酒飲みだと気づかれているのだが、誰もそれを指摘しないだけ。隠し通せているつもりなのは本人だけだった。
見栄は彼を孤独にしたが、必要なものでもあった。
「おはようございます。ガヌロン様、アンシュロ領より通達が、リゼットとモンテスからも届いています」
「またか、少し待てと通達しておけ。戦争の影響は大きいと」
使用人は額に汗をかきながら言った。
「しかし、もう三度目ですので……」
ガヌロン・ヴィドールは複数の領地を同時経営している。
元々は前妻のクリスティーヌがやっていたことだが、令嬢を出産した際にクリスティーヌが死亡したことで、その役割はガヌロンに引き継がれた。
しかし、ガヌロンには広大な領地をいくつも運営できるほどの手腕はない。それは運営を続ければ続けるほどわかってくることである。しかし、ガヌロンはそれを認めることができなかった。
領地の運営権を返してくれと各領地を統べる伯爵たちが要求すると、すべては戦争が悪いのだとガヌロンは言った。領地の経営がうまくいかないのは、自分のせいではなく、戦争という特殊な事情のせいであると。
そう言えば皆、納得してくれた。
ならば弱みを見せるわけにはいかない。押しつぶされるような不安を握りつぶし、自分をとにかく立派に見せて、見栄を張り続ける必要があった。
ガヌロンの認識ではそもそも貴族とは、自分から商売するものではない。部下に勝手に仕事をさせ、その上前をはねて生きていくものである。見栄を張るのもひとつの仕事なのだ。
だが、と。考えずにはいられない。
あの娘さえ産まれてこなければ。産まれてさえこなければ、クリスティーヌは未だ健在で、領地の運営もうまくやれていたはずだ。あいつさえいなければ。
酒精が抜けた頭は昨日よりも少し明瞭に、憎しみの理由を理解できた。
しかし、明瞭であるが故にそれが横暴であることも理解できる。この時代において出産は死と隣り合わせだ。ガヌロンもクリスティーヌも、そのリスクを勘案していなかったわけがない。
勝手に産んでおいて勝手に呪うなど、令嬢からすればめちゃくちゃな話である。少なくとも、ガヌロンに正義はないだろう。
その事実はガヌロンの物語と衝突する。正しく、強く、男らしい鶏鳴卿がそのような惰弱な理由で幼子を恨むわけがない。何か恨むに値する別の理由があるはずだとガヌロンは考えて、やめた。
今はそんなことはどうでもいい。このままでは戦争は終わってしまう。
戦争が終われば伯爵たちはさらに激しく領地を返せと騒ぎ立てるだろう。
あの女が大人しく自殺していればこんなことには……!
「あの、ガヌロン様。モーリスが戻りました」
「おお、ようやく戻ったか」
ガヌロンはひとまずすべてを保留にし、人払いをすると、商人のような服装をした初老の男、モーリスを執務室に招いた。
別に令嬢が自殺しなくともかまわない。
一気呵成にフリージアに攻め込み、ついでに令嬢を殺した上で「フリージアに娘を殺された」と主張すれば、何も問題は無い。
すべての罪をあのアベルとかいう王子にかぶせ、踏み倒すことができる。
ただ、その為には一息に辺境城塞都市トロンを攻め落とし、令嬢を殺す必要があった。
諜報員モーリスを辺境城塞都市トロンに潜入させ、防衛上の穴を見つけ、そこを突く。和平が結ばれつつある今、トロンの防衛線は緩やかに解体され、平和に浮かれているはずだ。
奇襲攻撃である。
この二ヶ月、勝算は十分にあるとモーリスは手紙をよこしてきていた。
他の諜報員はというと「トロンの城塞は堅牢」だとか「経済が強靱」だとか嘘ばかり言うので、信じていない。戦後、たった二ヶ月でそんなことになるわけがない。我がランバルドなど、経済の立て直しに十年はかかると言われているのだ。
敵国であるフリージアがそこまで優勢であるはずがない。
ようやくこの時が来た。
戦争は再開され、あのやかましい領主たちの口を塞ぐことができる。
さらなる武功はヴィドール家の繁栄を約束するだろう。
上機嫌なガヌロンにモーリスが重々しく口を開く。
額から汗が流れていた。
「結論から申しますと、トロンを攻め落とすのは無理です……」