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(も、もう……なに……)
状況についていけない。
うつむいてぜいぜい言っていると、涼やかな風が渡った。
そっと顔をあげれば、視界が大きく開けている。
「………わぁ」
空が近い。
思わず声を漏らすと、あがってきたレイが、私の背を軽くたたいた。
屋上を横切り、彼は柵に身体を預ける。
私はそのとなりに並んだ。
あれだけ暑くて汗をかいていたのに、下からあがってくる風が心地いい。
遠くで高層ビルのアンテナが点滅している。
その下で、電車が音をたててゆっくり遠ざかっていった。
『子供のころ、家を抜け出して、こういった廃ビルでよく遊んでたんだ。
たまたま当時と似たようなビルを見つけて、入れるかなと思ったのが、ここに来るようになった始まり』
『……そうなんだ』
相槌を打ったけど、こんなビルに、私なら絶対入ろうとは思わない。
『ここの見晴らしが気に入ったんだ。
ぼうっとしたい時はたまに来る』
レイは眼下に目を落とし、かすかに笑う。
それには納得だった。
私も来れるならまた来たいと、景色を見てすぐに思ったから。
あと数時間で電車が止まる。
そんな眠りにつく少し前の街を眺めていると、鞄の中でスマホが震えた。
―――――――――――――――――――
会議が長引いてて、帰るのがちょっと遅くなりそう。
戸締りには気をつけてね。
―――――――――――――――――――
メッセージはけい子さんからだった。
この文章だと、私がもう家に帰っていると思っているんだろう。
まさかレイとビルの屋上にいるなんて、夢にも思わないに違いない。
『わかった』とすぐに返事をした時、スマホの充電があと1%と気付いた。
(……えっ)
驚いたけど、杏と電話してからずっと動画を見たのを思い出し、しまったと思う。
『けい子さん、予定よりちょっと遅くなるんだって』
帰るまでにスマホは完全に落ちてしまう。
けい子さんからまた連絡が入ったらと思うと、そうそうゆっくりもしていられなくなった。
『そう』と短く頷いたレイは、いつの間にか空を見上げていた。
『ねぇミオ。どれがアマノガワ?』
『え?』
『タナバタの時、ケイコが生徒に説明してたのを聞いて、気になってたんだ。
あと、オリヒメとヒコボシって、どの星?』
私は彼につられて空を見上げる。
『ええと……天の川は東京からは見えないよ。
織姫と彦星は……』
そういえば、昔けい子さんに織姫と彦星はベガとアルタイルだって教えてもらったけど、どれだろう。
『たぶん、あっちのほう』
『どっち?』
私は夏の大三角を指さし、レイは私の指先を辿る。
『あそこでよく光っている星をみっつ結んだら、三角形になるの。
そのうちのふたつが織姫と彦星なんだけど……どれかはわかんない』
『わかんないって……。
てっきりミオなら知ってるのかと思ってたのに』
『だって……』
幻滅され、私は頬を膨らます。
けれどふと、自分とレイにあの星を重ねてしまった。
私たちは恋人同士じゃないから、織姫と彦星とは違うけど、もう少ししたら私とレイは遠く離れてしまう。
ちらりとレイを見れば、彼はさっきと変わらず空を見つめていた。
ロサンゼルスと日本。
太平洋を挟んで、私とレイ。
……だめだ。天の川じゃないけど、あまりにも遠すぎる。
私はため息をついた。
ずいぶん恋心が膨らんでしまったけど、二度目の恋も叶いそうにない。
(……レイへの気持ち、失くさなきゃいけなくなるのかな)
私は柵を握しめ、遠くで点滅するアンテナを眺めた。
下から吹き上げた風が、崩れた遅れ毛を耳元で揺らす。
「レイのこと……好きなんだけどな……」
真横に彼がいるせいで、呟いた途端、胸が苦しくなった。
口にしてもこの想いは届かない。
それならいっそ、風が攫って無くならないかな。
涙が出そうで、鼻の奥がつんとしかけた時、声が聞こえた。
「今、なんて?」
日本語だった。
だから一瞬、空耳かと聞き流そうとした。
なのにレイが体ごとこちらを向き直るから、私もつい彼を見上げてしまう。
「え……」
「今、なんて言ったの。澪」
彼の唇が動き、流暢な日本語が滑り落ちる。
それを目に、私の心臓と脳が一度に止まった気がした。