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「ああっ、もう!」
悔しそうに瑞奈が声を絞り出した。俺や拓真さんたちは声を失っている。
ありえなかった。あれほどの急角度で曲がるボールをドリブルしながらフェイントする過程で蹴るなんて。プロの試合でも見たことがない。それを川南はやってのけた。身体の舵を切る足もとのステップワークもハンパないものだ。
「あんなの普通はできねえよ」
幸成が鼻から息を吐きながら零した。
「だが、俺達は川南と戦う」
拓真さんが皆の耳に届くぎりぎりの声量で言う。
「川南との対決方法を、瑞奈は俺達に見せてくれている。まさに命を賭して。俺達はそれを見届けなくてはいけないんだ」
ゴールネットからボールを取ってきた瑞奈が、バスケの選手みたいに指先でボールをくるくると回す。寄り目になった瑞奈が無邪気に顔を綻ばせた。
「うわ。できちゃった。前まで全然できにゃかったのに」
しかし、くるくる回っていたボールが回転しながら落下した。瑞奈の手が強ばるように、不自然に浮いている。
ひょっとして、身体が……。駆け寄ろうとする俺を、瑞奈が制した。
「大丈夫! 大丈夫だかりゃ」
「でも、おまえ、いきなり身体が動かなくなったんじゃ」
瑞奈は俺の言葉を背中で聞いたまま、落ちて転がったボールに近づき、ひょいとボールを足でリフトアップした。ボールがふわりと浮き瑞奈の頭上を跨ぐ。ボールが落ちる直前で、瑞奈がそのボールを踵でトラップした。
「凄ぇ……。踵でトラップなんて」
プレーに見惚れるように、幸成が息を漏らした。
「ほりゃ、ちゃんと動く」
瑞奈がけろりとした表情で俺を見返してきた。へっへっへと、笑むことも忘れずに。
でも、俺は気づいていた。
瑞奈の動きが固い。
「もしも、もしもだよ。あたしに何かあったりゃ」
一度視線を落としてから、俺を見つめ直す瑞奈。瞳がぱっと光沢を帯びる。「あとは任せた。あたしがパスを繋ぐのは、繋ぎたいのは、晴翔くんだけ」
すぐにくるりとターンした瑞奈が、川南に声をかけた。
「さあ、川南ちゃん。今度はあたしの番だよ」
瑞奈がボールを川南に向けて蹴る。川南はボールの感触を確かめるように一度、足の腹でトラップしてから、ボールを瑞奈に戻した。
「川南がトラップするときのクッションもハンパねえな」
間近で見たいのか幸成が一歩前へ出た。他のチームメイトも、瑞奈と川南のプレーに引き寄せられるように立ち位置を前進させる。
瑞奈が突如として駆けだした。いきなり仕掛けてきたのだ。
川南との距離はまだ三メートルほどもある。
だが、瑞奈にとって、相手との距離は問題ではないのかもしれない。距離を無視できるほどのフェイントのアイディアが、瑞奈の頭の中にはぎゅうぎゅうにつまっている。
川南と違い、瑞奈は川南にぶつからん大胆さで真っすぐボールを運ぶ。このように真正面から正対する場合、左右ともに同じだけのスペースがあるため、守る方にとっては攻め手がどちらにフェイントをしてくるのかが読みづらい。
そのため、川南はバックステップを踏み、瑞奈の出方を待つ。
瑞奈の前足がボールを素早く跨いだ。シザーズだ。
普通ならば、ここで慌てた守り手は重心を崩壊させる。しかし、川南はその動きを予測していたのか、身体をブレさせずに腰を落としバランスを保っている。足をしっかりと曲げたまま、瑞奈の次なる動きへ対処する体勢を整えていた。落ち着きと、しっかり相手を見る動体視力が備わっていないと、こうはできない。
対する瑞奈も冷静だった。
食いつかない川南の動きを逆手に取るように、フェイントで左右に揺さぶることなく正面から川南に突っ込んでいく。バックステップをしていた川南が、その足を止めた。前進へと舵を切り、一気に間合いを詰める。ボールを刈り取るように、腰から瑞奈にぶつかろうとする。
二人が交錯する瞬間、瑞奈がボールを前方に浮かせた。同時にくるりとその身を翻し、川南の脇を瑞奈はすり抜ける。
勢いのままに瑞奈が前傾姿勢で駆け抜けようとした。
だが、足が伸びた。
先ほどまで地面で踏んばっていたはずの川南の軸足だった。
馬鹿な。
川南の体重移動は無重力の中で行っているみたいだ。足腰に強靭なバネがないと、踏ん張っていた軸足を咄嗟に動かすなんて、とてもじゃないができない。
――と、瑞奈が笑んだ……のは俺の気のせいか。
ドリブルする瑞奈の前足が、ボールに触れずに空をかく。……ミス?
そう思うや、後ろ足で瑞奈がボールを真横に叩いた。
川南の股下をボールが通過する、股抜き――。
かわしていく瑞奈の服を、ファール覚悟で川南が掴もうとするも、その手は空を掴んだ。
ボールを確保した瑞奈のスピードが、ぐん、と増す。
決着はついた――かに思われた……直後、ゴムの繊維が断ち切られたような反動で瑞奈の身体が吹っ飛んだ。
川南のスライディングタックルがボールごと瑞奈の足を刈っていた。振り切ろうとする瑞奈に向けて、川南は体勢をすぐさまスライディングタックルに切り替えていたのだ。またもや、常人ではありえない重心の移動を川南が難なくこなしていた。
ボールがタッチライン際へと転がっていく。
まだラインを割っていなかった。
俺はそのことを転びかけている瑞奈に伝えるべく口を開き、躊躇した。
まだ続けるのか?
もう……いいのではないのか?
声をかけたら、瑞奈はまた力一杯にボールを追うだろう。
身体がこれ以上もつはずがない。
しかし、瑞奈は転びかけていた体勢を持ち直すや、再び駆け出した。光が眩く瑞奈を照らす。
瑞奈は、勝負を終わらせようとはしていない――
ドラマはまだフィナーレを迎えていない。
川南もダッシュしていた。走りながら肩を瑞奈にぶつける。瑞奈が歯を食いしばり、負けじと川南を押し返した。
ボールは止まらずに転がっていく。
瑞奈と川南は、お互い相手の動きを封じながら走る。川南の表情が歪んだ。瑞奈が目を険しくさせる。渾身の力をぶつけ合う二人。ボールが止まる。タッチラインのすぐ手前だ。瑞奈がバランスを失いかけた。川南がボールをラインの外へ蹴りだそうとする。
「情熱ぅうーっ!」
傾いた身体を、瑞奈は自ら前方へと投げた。ダイヴ。
目を疑うほどの虚をついた瑞奈の行動だった。瑞奈がそのまま前転する。その余勢をもってボールへと足を伸ばす。川南もボールに向けて足を出していた。両者の足が同時にボールを蹴った。
二人からの圧迫から逃れるように、ボールがするりと上方へ弾け飛ぶ。
ぎゅるぎゅるとボールが回転し、浮きながらピッチの内側へと向かっていく。瑞奈の勢いが勝ったのだ。
瑞奈がすぐに立ち上がり、浮いたボールに向けて駆けだす。
ボールが橙色に輝く夕陽を隠した。日食時のような暗がりに侵食される。すぐにボールから淡い光が零れてきた。
ボールの落下点に、瑞奈がどんぴしゃのタイミングで走り込んでいた。
しかし、川南も瑞奈の背中に食らいついていた。浮いたボールを瑞奈がボレーシュートに持ち込むタイミングを狙っていた。
瑞奈が足を浮かせた。
川南がシュートブロックのために、瑞奈の背後から足ごと身体を投げ出す。
炸裂したボレーシュートは、ボールを地面に叩きつけた。……ミスキック? でも、瑞奈は動きを止めていない。どうしてか彼女が輝いた気がした。
跳び込む川南の身体の下方を潜ったボールが、高く跳ね上がっていく。
川南が吠える。
瑞奈がバウンドしたボールへと、跳んだ。
走り高跳びの背面跳びのようにくるりと空中で身体を回転させた瑞奈は、地面に背を向けたまま空中に浮くボールを右足で蹴った。オーバーヘッドキック。
輝く流星の軌跡を描くように、ボールがゴールネットに突き刺さる――
茜色と藍色のまだら空を揺さぶる歓声が俺たちからあがった。
駆けだしていた、瑞奈のもとへと。
背後からは、朔太郎や幸成、拓真さん、チームメイト達が追随する足音が聞こえる。
「瑞奈! 瑞奈!」
声の限りに瑞奈の名を連呼する。嬉しかった。瑞奈の全力プレーをまた見ることができた。瑞奈を抱き締めたい。感情が昂り、興奮を抑え切れなかった。「瑞奈! 瑞奈ぁあっ!」
しかし、瑞奈はピッチに背中から落ちたせいか、ぐったりと横たわっている。ぴくりとも動く気配がなかった。
悪寒が体内を駆け抜けていく。
黄昏の光は、もう、届いていなかった。
帳が落ち始めた空。あっという間に闇が瑞奈を、俺たちを覆っていた。圧倒的な黒暮色があった。
吸い込むほどに痛い。目にするほどに感情を萎えさせる。太刀打ちできない現実を突き付けてくる闇がそこにはあった。
視界が斜めに割れた。耳が遠くなる。襟元を突風が吹き抜けていく。
異変を察知した川南が瑞奈に向けて声をかける。耳鳴りが俺を襲う。今まで見せたことのない動揺を表情に浮かべた川南がこちらを向いた。忙しなく、怒鳴るように口を開閉させる川南。俺の耳はその声を知覚できない。足が地面を踏む感触もあやふやだった。視界がひび割れ亀裂がびしびし入っていく。
横たわる瑞奈だけがくっきりと存在していた。