テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
177
#🐢投稿
(ゝω・) ねこウサギ
502
3,194
コンクリートの壁に滲んだ夜気が、静かに部屋を侵食していた。
チャンスはベッド脇の古びた椅子に腰掛けたまま、ほとんど身動き一つしなかった。黒スーツの肩には、先ほどiTrappedに掴まれた皺が深く刻まれている。いつもなら鬱陶しく感じるはずのそれを、彼は直す気にもなれなかった。
ベッドの上では、iTrappedが浅く不規則な呼吸を繰り返している。
氷の王冠は、悪夢に呼応するように鈍く軋み、白い冷気を吐き出していた。まるで主の精神が砕けかけているのを、そのまま可視化しているみたいだった。
「……Ellernate……」
「Caleb……待って……」
掠れた声。
その名前が呼ばれるたびに、チャンスの胸の奥が鈍く軋む。
嫉妬――とは少し違った。
もっと静かで、もっと決定的な何かだ。
勝負の席に着いた瞬間から、自分だけ配られるカードが存在していなかったことを知る感覚。
どれだけレイズしても、どれだけ命を積み上げても、相手の視線が一度もこちらに向かなかったと悟る瞬間。
「……参ったな」
チャンスは小さく笑った。
笑ったつもりだったが、声は妙に掠れていた。
彼はサングラスを外し、両手で顔を覆う。ギャンブルでも銃でも味わったことのない種類の敗北感が、じわじわと全身を侵食していた。
それでも。
それでも彼は立ち去れなかった。
iTrappedが再び苦しげに身を捩る。冷気が爆ぜ、シーツの端が白く凍りついた。
「っ……!」
チャンスは反射的に身を乗り出し、その肩を抱き留めた。
触れた瞬間、ぞっとするほど冷たい。
死体みたいな温度だった。
「おい、ペテン師……。死ぬなら、せめて俺の見てるところで死ねよ」
低く呟きながら、チャンスはiTrappedをゆっくり抱き起こす。
青いシャツ越しに伝わる体温は希薄で、氷の彫刻を抱えているようだった。だが、腕の中の男は苦しげに眉を寄せ、無意識にチャンスの胸元へ額を擦り寄せる。
ほんの、本当に無意識の動作。
それだけで、チャンスの心臓がひどく痛んだ。
「……ずるい男だな、あんた」
チャンスは乾いた笑みを漏らし、黄色い髪を指先でそっと梳いた。
普段なら挑発を返してくるはずの唇は、今は微かに震えるだけだ。
「俺を利用するだけ利用して、心の一番深い場所には、最初から別の奴らを閉じ込めてやがる」
返事はない。
あるのは、荒い呼吸音と、時折漏れる悪夢の呻きだけ。
それでもチャンスは、iTrappedを抱く腕を緩めなかった。
「……でもさ」
彼はぽつりと呟く。
「最高なんだよ。そういう、絶対に手に入らないもんに命ごと賭けるのが」
サングラス越しではない裸の瞳が、静かに細められる。
スリルを求めていた。
退屈を壊したかった。
その果てに辿り着いたのが、このどうしようもなく壊れた男だった。
自分を愛さない。
自分を見てすらいない。
ただ仲間の亡霊だけを追い続けている冷たい詐欺師。
なのに、その凍えた腕の中が、世界のどこよりも刺激的だった。
チャンスは目を伏せると、iTrappedの額へ静かに口づけを落とした。
熱を奪われるような冷たさ。
それでも離れられない。
「安心しろよ、iTrapped」
彼は囁く。
「EllernateもCaleb244も、あんたの悪夢も、全部まとめて――最後まで俺が付き合ってやる」
その声には、いつもの狂った高揚感はなかった。
代わりに滲んでいたのは、破滅すると分かっていながら、それでも賭け金を下ろせないギャンブラーだけが抱える、静かな執着だった。
窓の外では、夜明け前の薄青い光がゆっくり滲み始めている。
だがその部屋だけは、まだ深い深い夜の底に取り残されたままだった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!