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Smile
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研究施設で暮らし始めて、一か月。
朔水は少しずつ笑うことを覚え始めていた。
朝になると、自分で着替えをして、博士の研究室へ向かう。
「おはようございます。」
小さな声で挨拶をすると、机に向かっていた博士が顔を上げる。
「おはよう、朔水。」
その一言だけで、朔水の表情は少し明るくなる。
「今日は字の勉強から始めよう。」
「うん!」
まだ四歳にも満たない朔水だったが、覚えるのは早かった。
博士がノートへ「さ」と書けば、その隣へ真似して書く。
「うーん……。」
曲がった文字を見て首を傾げる朔水。
博士は隣へ椅子を寄せると、小さな手を包み込むように持った。
「こうやって力を抜くんだ。」
「……こう?」
「そう。」
朔水は何度も何度も書き直した。
やがて、綺麗な「さ」が書けるようになる。
「できた!」
「よくできた。」
博士が優しく頭を撫でる。
その温もりが嬉しくて、朔水は照れくさそうに笑った。
昼になると、二人は研究室の奥にある小さな休憩室で昼食を食べる。
「今日はオムライスだ。」
「ほんと?」
「厨房の人に頼んで作ってもらった。」
「わあ……!」
以前は栄養ゼリーしか口にしていなかった朔水も、今では好き嫌いを言うようになっていた。
「にんじん……。」
「食べなさい。」
「えぇ……。」
「一口でいい。」
「……うん。」
嫌そうに口へ運びながらも、ちゃんと食べる。
博士はそんな姿を見て、小さく笑った。
「偉いな。」
「えへへ。」
その笑顔を見るたび、博士は思う。
(このまま普通の子どもとして育てられたら……。)
しかし、その願いは口には出せなかった。
ある日の夕方。
朔水は研究室の隅で積み木を積んでいた。
博士は論文を書いている。
静かな時間。
ふと朔水が口を開く。
「ねぇ。」
「なんだ。」
「ぼく、お父さんっているの?」
ペンが止まった。
博士は答えに詰まる。
「……分からない。」
「そっか。」
朔水は少し寂しそうに笑う。
「じゃあ。」
博士を見上げた。
「父さんって呼んでもいい?」
その言葉に、博士の胸が大きく締め付けられた。
心のどこかでは、ずっとそう呼んでほしかった。
だが。
研究施設には監視カメラがある。
いつ誰が聞いているか分からない。
「……。」
長い沈黙。
朔水は不安そうな顔になる。
「だめ……?」
博士はゆっくり立ち上がると、研究室の扉を閉め、カーテンも引いた。
監視カメラの死角へ移動する。
そして朔水の前にしゃがみ込んだ。
「ここだけなら。」
「え?」
「誰もいない時だけなら……呼んでもいい。」
朔水の瞳が大きく輝いた。
「ほんと!?」
「ああ。」
「父さん!」
勢いよく抱きついてくる。
博士は少し驚きながらも、その小さな身体を抱きしめ返した。
「父さん!」
「父さん!」
何度も嬉しそうに呼ぶ声が、静かな部屋へ響く。
博士は笑っていた。
研究施設へ来てから、初めて心から笑った。
「……朔水。」
「なあに?」
「ありがとう。」
「?」
意味は分からなくても、朔水はにこっと笑った。
その夜。
朔水は自室でぐっすり眠っていた。
博士は一人、研究室へ戻る。
引き出しを開けると、一冊のアルバムが入っていた。
今日撮った写真を挟む。
そこには、オムライスを食べて笑う朔水。
積み木で遊ぶ朔水。
字を書いている朔水。
そして――。
「父さん。」
そう呼びながら抱きついてきた瞬間の写真。
博士は写真を指先でなぞる。
「……本当なら。」
静かな声が漏れる。
「私は、お前を公園へ連れて行きたかった。」
「運動会も、遠足も、誕生日も……。」
「普通の父親として、生きたかった。」
眼鏡を外し、目元を押さえる。
ぽたり、と涙が写真の上へ落ちた。
「私は研究者だ。」
「親として生きることすら、許されない。」
声を殺して泣く。
誰にも聞かれないように。
誰にも見られないように。
「すまない……朔水。」
「こんな場所でしか、お前を育てられなくて。」
その夜も、研究室には一人の父親のすすり泣く声だけが、小さく響いていた。
翌朝。
何事もなかったように白衣を整えた博士は、いつものように研究室へ向かう。
扉が開く。
「おはよう、父さん!」
元気いっぱいの朔水が駆け寄ってきた。
博士は一瞬だけ驚く。
すぐに研究員の気配を感じ、表情を引き締めた。
「……朔水。」
研究員が近づいてきている。
博士は小さく首を横に振る。
朔水はその意味を理解し、小さく頷いた。
「……博士。」
その呼び方に変えた朔水の笑顔は少しだけ寂しそうだった。
博士は胸の奥に痛みを抱えながら、静かに研究者としての一日を始めるのだった。
コメント
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読ませていただきました…!「父さん」と呼んでいいか訊く朔水くんの勇気と、その願いを叶えてあげたいけど立場が許さない博士の苦しさが、本当に胸に沁みました。カメラの死角でだけ許される親子の時間、その温かさと切なさの両方がしっかり描かれていて、涙が滲みました…。最後に「博士」と呼び直す朔水くんの、小さな寂しげな笑顔が、もうずっと心に残っています。続きがすごく気になります!