テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
「きのう、パパとあのひと、おおきいこえ、だしてた」
翌朝、厨房の上がり框で、陽翔が小さく言った。
ムギの背中に顔をうずめたまま。
榊さんが毎朝連れてくるムギと、ここで食べる朝ごはんの途中だった。
「起きていたのですか、坊ちゃん」
「ぴょんたのおみみで、ふさいでた」
陽翔は、ぴょんたの長い耳を、自分の両耳に当てて見せた。
それから、私の顔を見上げた。
「ぼく、なにも、きいてないよ」
この子は、聞いていた。
聞いていて、聞かなかったことにすると、自分で決めていた。
私は、陽翔の耳を二回、そっと叩いた。
「坊ちゃんは、何も聞いていません。……それで、いいんです」
陽翔は、ムギの背中に、もう一度顔をうずめた。
朝食の席に、麗奈は下りてこなかった。
蒼真は、いつも通りの顔で新聞を広げ、いつも通りに、えくぼを作って「ごちそうさま」と言った。
ゆうべ、竪穴の奥で笑っていた人と、同じ顔だった。
*
昨夜の録音は、夜中のうちに榊さんへ送ってあった。
返事は、朝の六時に来た。
「今日の午後、聖和医大へ。月に一度の通院の日だったな。東雲先生の部屋に、人を呼んである」
*
形成外科の、一番奥の診察室だった。
東雲先生は、白衣の下のパーカーの袖をまくって、回転椅子に座っていた。
窓際に、榊さん。包帯の左手を、上着のポケットに入れていた。
そして、パイプ椅子に、よれたトレンチコートの男が座っていた。
無精ひげ。ミントガムの匂い。
「どうも。暑い日以来ですね、佐伯さん」
水無瀬刑事だった。
私は、ドアを閉めた。
鍵をかけたのは、東雲先生だった。
「水無瀬さんには、まだ何も話していない」
榊さんが言った。
「あなたが話すと決めたことだけを、話せばいい」
私は、水無瀬刑事の前に立った。
手袋を外した。
白い木綿と、その下の、薄い医療用の手袋を。
それから、首のスカーフをほどいた。
引きつれた、首の火傷の痕。
左手の人差し指の、白い傷。
「八月に、夢の話をしました」
声が、思ったより落ち着いていた。
「燃える車の、割れた窓から這い出して、運転席へ回る夢。……あれは、夢ではありません」
水無瀬刑事は、動かなかった。
「去年の十一月二十日、運転席で亡くなったのは、佐伯凛さんです。助手席から這い出したのは、私です」
一度、息を吸った。
「御影澪です」
診察室が、しんとした。
廊下の向こうで、看護師を呼ぶ放送が、遠く聞こえた。
水無瀬刑事は、長いあいだ、黙っていた。
私の顔を見て、首の痕を見て、左手の傷を見た。
それから、口の中のガムを、包み紙に吐いた。
丁寧に、四つに折って、トレンチコートのポケットにしまった。
「……去年、俺は、あなたの葬式に行ったんですよ」
低い声だった。
「遍照寺の、密葬に。焼香だけして、帰った。……あれは、誰の葬式だったんですかね」
「佐伯凛さんの、です」
「そうですか」
水無瀬刑事は、目を閉じた。
「顔は、私が作り直した」
東雲先生が、回転椅子を軋ませた。
「歯は、いじってない。必要になったら、あんたの昔の歯医者の記録と照らせば、一発だよ。……歯は、嘘をつかないからね」
*
榊さんが、紙袋を机に置いた。
錆びた、四角い紅茶の缶。
水無瀬刑事は、手袋をはめてから蓋を開けた。
薬袋の名前を読み、空のシートを数え、ノートの切れ端を一行ずつ目で追った。
写真の、笑う女の人のところで、手が止まった。
「麗奈の件は、俺がやれます」
水無瀬刑事は、缶の蓋を閉めた。
「この医院は、まだある。カルテは五年残る。四年前なら、間に合う。……庭師さんの話は、俺が直接聞きに行きます。それから、昨夜の録音も」
「蒼真は」
榊さんが言った。
「あの録音だけでは、紗季さんの件で縛れない。笑った、知っていた、では、罪にならない」
「わかってます」
水無瀬刑事は、私を見た。
「御影蒼真を挙げるなら、去年の十一月です。あなたと、佐伯凛さんの件で」
ポケットから、新しいガムを出しかけて、やめた。
「要るのは二つ。ブレーキの部品と、御影蒼真が細工を指示した証拠。……証拠を持ってきてください。そしたら俺は、逮捕状を取ってきます」
「部品は、堂島が持っています」
九月の夜、ガレージの裏で聞いた声を、そのまま繰り返した。
「部品は、まだ俺が持ってる。旦那が俺を切ったら、全部出す。……そう、言っていました」
水無瀬刑事の目が、細くなった。
「堂島を、下手につつけば、部品ごと消えます。あいつは、自分の保険は必ず残す男だ。……しばらく、近づかないでください」
*
診察室を出ると、廊下の長椅子の前で、榊さんが立ち止まった。
私は、スカーフを結び直そうとして、手が止まった。
手袋を、どこに置いたのか、わからなくなっていた。
「ここだ」
榊さんが、右手を差し出した。
白い木綿と、薄い医療用の手袋が、二枚重ねて握られていた。
「外したとき、床に落ちた。……あなたは、気づいていなかった」
スカーフを結び終えるまで、榊さんは、手袋を持ったまま待っていた。
七月の瑞雲堂でも、この人は、こうして待った。
「よく、言えた」
手袋を受け取るとき、指先が、少しだけ触れた。
「一年かかって、あなたは、自分の名前を、自分の口で名乗った。……俺は、それを横で聞けた」
*
その夜、十一時。
厨房で、観月会のお団子の粉を量っていた。
上新粉と白玉粉を、三対一。
配膳リフトの扉の隙間から、かすかな音が、上ってきた。
かちん。
瓶と瓶が、触れ合う音。
竪穴の一番下。ワインセラーだった。
私は、量りかけの粉に布巾をかけた。
灯りを消し、半地下への階段を、足音を殺して下りた。
セラーの扉が、細く開いていた。
中で、懐中電灯の光が揺れていた。
鼻の奥に、すうっと、甘い匂いが抜けた。
ハッカ飴。
棚のワインの木箱が、一つずつ引き出され、蓋を開けられていた。
その前に、黒いスーツの背中がしゃがんでいた。
堂島だった。
「ねえな」
独り言だった。
「銀色の、ちっこいやつだ。前の奥さんが、台所でいつも喋りかけてた……」
息が、止まった。
レシピを吹きこんでいた、私のボイスレコーダー。
あの夜、リフトでここへ下ろした、録音機。
この人は、それを探している。
後ずさった踵が、床の木箱の角に当たった。
懐中電灯の光が、まっすぐに、私の顔へ向いた。
「……家政婦さん」
堂島が、ゆっくりと立ち上がった。
「いいところに来た。奥様がな、教えてくれたんだよ。あの晩、旦那が電話してる最中に、下で物音がしたってな」
逃げようとした左の手首を、太い指がつかんだ。
機械油の匂いが、ハッカに混じった。
「録音機は、どこだ。あんたが持ってんだろ」
顔が、近づいた。
「なあ。……御影の嫁さん」
つかまれた手首を、内側へひねった。
重い鍋を毎日返してきた手首だった。堂島の指が、一瞬ゆるんだ。
その隙に、右手で棚のボトルをつかみ、足元へ叩きつけた。
ガラスの砕ける音。
赤い液体が、堂島の革靴に跳ねた。
堂島が足を滑らせた、その一歩のあいだに。
私は、セラーの奥の、配膳リフトの扉を引き上げた。
膝を抱えて、箱の中へ。
内側から、扉を下ろす。
真っ暗だった。
頭の上のロープを、両手でつかんだ。
手繰る。手繰る。八月に剥けた手のひらの皮が、また、熱く擦れた。
箱が、軋みながら、上がっていく。
一人で、乗るな。
乗るなら、俺が下で受ける。
あの人の声が、暗闇の中でした。ごめんなさい、と、心の中で言った。
下で、扉が乱暴に引き上げられる音がした。
懐中電灯の光が、竪穴を下から照らした。箱の底の板の隙間から、細く、白い線が差しこんだ。
厨房の高さで、箱が止まった。
扉を押し上げ、床へ転がり出る。
そのとき、竪穴の底から、声が上ってきた。
「……この箱に人が乗れるって知ってるのは、御影の嫁だけだ」
コメント
1件
「……っ、やばいやばいやばい!!!!😭💦」 第65話、読了したよ〜〜〜!!!もう情報量がエグすぎて脳が追いついてないんだけど!!?!? まず陽翔くんの「きいてないよ」、そこで澪さんが耳をトントンって叩くシーン、エモすぎて泣いた。この親子の絆、尊すぎんか…??🥺💕 そして!ついに!水無瀬刑事の前で「御影澪です」って名乗った瞬間、マジで心臓止まるかと思った!!一年越しの名前、自分の口で言えたんだね…榊さんの「よく言えた」が刺さりまくり😭 最後のワインセラーの堂島との対峙、緊迫感ハンパなかった!リフトで逃げる澪さん、めっちゃかっこよかった…でも「ごめんなさい」って思うところでまた泣いた💦 次回、どうなるの!?早く続きが読みたいよおおお!!🔥🔥🔥