コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
桜那と別れて地元に戻ってから、一年半が経過した。
家業を継いでからしばらくは覚える事も多く、多忙を極めていたが、ようやく慣れて生活は落ち着きつつあった。最初こそ俺には任せられないと自分を奮い立たせるように店に立っていた親父も、最近は体調に陰りが見え始め、入退院を繰り返す様になっていた。未玖と出会ったのは、そんな時だった。
「宏章!久しぶりだな!」
宏章は友人の慎也と久しぶりに飲む約束をしていた。慎也は高校の同級生で、東京の大学に進学した。宏章は上京してすぐの頃、しばらく慎也のアパートで世話になっていた。
慎也は大学卒業後、地元で就職したのでそれっきり会う事はなかったが、宏章が地元に戻ってから、また再びこうして会う様になっていた。
「久しぶり!結婚式以来だな」
慎也は半年前に2歳下の亜希と結婚していた。今日は新婚旅行のお土産を渡しがてら、宏章にある話を持ちかけようとしていたのだ。
「今度さ、亜希の友達も混ぜて四人で飲みに行かない?亜希の同期の子なんだけど、明るくていい子だよ」
慎也と亜希は会社の先輩後輩の間柄で、二人は職場結婚だった。
「あー、別にいいけど……」
宏章はあまり気乗りしなかったが、まあ飲み会くらいならと気のない返事をした。
「結構可愛い子だし、お前も気に入ると思うよ」
慎也は良かれと思って、宏章にお節介を焼いたのだ。
「俺、今親父もこんな状況だし、あんまそんな気分になれないんだけど……」
慎也の意図が分かり、宏章は断った。
「まあそう言うなって!会うだけ会ってみてよ」
だが慎也があまりに勧めるものだから、宏章は渋々了承した。
一ヶ月後、夫婦の行きつけの居酒屋で四人で会う約束をした。約束の時間までまだ少しあったので、宏章は時間を潰そうと近くのコンビニへ入った。
雑誌コーナーで週刊誌をパラパラめくっていると、ある記事が目に留まった。
つい最近始まった、戦隊モノの主演俳優の熱愛発覚の記事だった。そのドラマのヒロインに桜那が抜擢されていたので、宏章は毎週欠かさず観ていた。
まさかと思って記事を読むと、嫌な予感は的中した。
相手は桜那だった。
記事では二人が仲良さげに街を歩く写真が数枚掲載されていた。
宏章は雑誌を閉じて棚へ戻すと、コンビニを後にして待ち合わせ場所まで歩いた。桜那の幸せを願っていたはずなのに…… 胸の奥が痛んだ。
……立ち止まっているのは、俺だけだな。
宏章はもう忘れよう、前に進もうと自分に言い聞かせた。
待ち合わせ場所に着くと、すでに慎也と亜希は着いていた。亜希の友人は仕事が長引いて少し遅れるとの事だった。
宏章も腰掛けてしばらく慎也達と談笑していると、急ぎ足で亜希の友人がやって来た。
「あ!未玖こっちー」
亜希が声を掛けると、眉上にカットされた短い前髪がよく似合う、ボブヘアの可愛らしい女の子が宏章の隣に腰掛けた。
「遅れてごめんなさい!初めまして、橋本未玖です」
未玖は屈託のない、明るい笑顔で挨拶をした。
宏章もつられて、思わず笑顔を返した。
……笑顔が可愛い子だな。
宏章は未玖に対して、良い印象を抱いた。
未玖は慎也の言う通り、明るくて、細かい所まで良く気がつく女の子だった。
おっとりとした外見とは裏腹に、さっぱりした所もあって話も面白く、その日は結局楽しく過ごした。帰り際に連絡先を交換すると、その後も頻繁にやり取りをした。
未玖も宏章と同じく、洋楽のロックが好きで話も弾み、次第に二人きりで会う様になった。
二人きりでドライブをして、夕暮れの海を眺めていた時の事。
未玖が以前付き合っていた彼氏の話をして来た。
「私っていつの間にか相手に尽くし過ぎちゃって、結局いつも振り回されちゃうんだよね。それで重いって思われて浮気されたり、振られちゃうの」
未玖はため息をついて嘆いた。
「俺もいつもそんな感じだよ。俺たちって結構似てるよな」
同じように嘆く宏章を、未玖は上目遣いで見つめた。
「宏章とだったら、私も幸せになれるかな……」
未玖は宏章の優しさに惹かれ始めていた。
宏章もまた、未玖といる事で心が癒されていくのを感じていた。
「俺も同じ事思ってた……」
そうして二人は口づけを交わし、お互いの気持ちを確かめ合って、付き合う事にした。
未玖との付き合いは順調で、宏章は充実した日々を過ごしていた。
未玖とは色々な場所へ一緒に出かけた。ドライブや野外フェス、テーマパークなど普通の恋人同士のデートを楽しんだ。
どれも桜那と付き合っていた時は出来なかった事だ。
宏章は未玖との思い出を沢山作る事で、桜那を忘れようとしていた。まるで心の隙間を埋めるかの様に。
ある時ふと、未玖が宏章に尋ねた。
「宏章の前の彼女って、どんな娘なの?」
未玖は以前から、宏章の「前の彼女」の事が気になっていた。
宏章が地元に戻ってすぐの頃、慎也と二人で飲んでいた時の事だ。
宏章が珍しく泥酔して、慎也に桜那の事を溢した事があった。
自分の不甲斐なさで支えてやる事が出来なかった事、致し方無い事情で別れを選択せざるを得なかった事など……。相手の詳細はいくら聞いても口を割らなかったが、深い後悔の念が滲み出ていた。
酔いが醒めて、宏章は自分が話した事を覚えていなかった。その後は迂闊に聞けるような雰囲気ではなかった為、それっきり慎也もその話題に触れる事はなかったが、慎也はその出来事がずっと心に残っていた。
そんな事もあって、慎也は宏章に未玖を紹介したのだ。
未玖は慎也から宏章を紹介される時に、その話を聞かされていた。
「慎也さんから聞いたよ。こっち戻ってくる前に一年くらい付き合ってたって」
「……ああ、うん……」
宏章は困った顔をして、言葉を詰まらせた。
しばらく何も答えられずにいると、その様子から未玖が何かを察して宏章を気遣った。
「ごめん、嫌な思い出なら無理に話さなくていいよ。言いたくない事って誰にでもあるしね」
「……うん」
……嫌な思い出な訳ない、むしろ……。
宏章にとって、桜那との思い出は神聖なものだった。時間が経つほどにより美しくなる……。
その領域には、決して誰にも踏み入れられたくなかった。
たとえ未玖ですら。
未玖もまた、それ以降宏章に聞くことはなかったが、心のどこかで引っかかっていた。
それが次第に、後の二人の間に徐々に大きな溝となって、亀裂を生み出す様になり始めたのだ。
2
桜那と別れて二回目の春が訪れた。
ちょうど桜が見ごろの時期なので、花見がてらランチでもしようという話になり、宏章は未玖のアパートまで車を走らせた。
赤信号で停車すると、街路樹の鮮やかな桜並木が視界に入った。
「春になったらお花見行こうよ。毎年一緒に見れたらいいな」
宏章はふと、桜那と付き合っていた時に交わした約束を思い出した。
あれは確か、桜那と一緒に入浴していた時だ。桜那の香りに包まれた幸せな時間。きっともう、桜那は忘れているだろう……。
宏章は遠い目をしながら、過去の記憶に想いを馳せた。
青信号になると、想いを振り切るように発車した。
アパートに着いて未玖を乗せ、カフェが併設されている市街地の大きな公園へ向かった。
車を降りて公園を歩いていると、満開の桜に、未玖は喜びから声を弾ませた。
「綺麗だねー!宏章と来れて嬉しいよ」
宏章は心に切なさを抱えていたが、未玖の笑顔に少し救われた。
その瞬間、突風で桜の花びらが舞い上がり、辺り一面ピンクに染まった。
思わず目を瞑ると、宏章の脳裏に目まぐるしく変わる桜那の表情が蘇った。苦いものが込み上げ、途端に胸が苦しくなり出した。
……俺は春が苦手だ。桜那の事、思い出してしまうから。
……このまま未玖と過ごして、時を重ねていけば、桜那の事忘れられるのかな?
「びっくりしちゃった!急に風強くなったね!寒くなってきたし、そろそろお店入ろう」
未玖はそう言って宏章の手を引くと、指を絡ませて足早にカフェへ向かった。
未玖の温もりが伝わり、宏章は次第に心が落ち着いた。
……未玖が居てくれてよかった。
カフェに入店して談笑しながらランチをしていると、少し間を置いてから未玖が宏章へ真剣に尋ねた。
「宏章はさ、私との将来をどう考えてるの?」
宏章は突然の質問に戸惑った。
未玖と過ごす日々は楽しくて充実していたが、正直そこまで将来について考えていた訳ではなかった。
父の病状は日増しに悪化の一途を辿り、最初こそ気丈に振る舞っていた父も、最近は目に見えて弱って来ていた。店の方も慣れて来たとは言え、父がいない分一人で決めなければならない事も多く、宏章は責任感で押しつぶされそうになっていた。
ただ未玖の事を思うと、将来について真剣に考えてやらないとな、と感じてもいた。徐々に周りは結婚し始めていたし、子どもの事を考えたら年齢的な焦りもあるだろう。未玖はかねてから子どもが欲しいと言っていたし、最近友人の亜希が妊娠した事もあって、未玖の気持ちは充分理解できた。
「……もちろん、将来的には未玖と結婚できたらって思ってるよ」
「本当?嬉しい!」
宏章は今出来る精一杯の回答をしたつもりだった。
未玖は宏章が自分との将来を真剣に考えていると分かって、心から喜んでいた。未玖は満面の笑みを浮かべていたが、宏章は未玖を騙している気がして、どこか罪悪感を感じていた。
その後は結婚について具体的な話が出る事はなかったが、初夏を迎えた頃、二人で行きつけのファミレスで食事をしていた時、未玖が宏章へ切り出した。
「今度のお盆休みなんだけど、私の実家へ一緒に帰省してくれないかな?」
未玖の実家は県境の山間部で、冬には雪も降る所だった。交通の便も悪く、帰省に時間がかかるので正月に帰るのは見送っていた。
その為お盆に帰省し、両親と祖母に宏章を会わせたいと思っていたのだ。
「お盆か……、お店も休みじゃないしな」
宏章はあまり気乗りせず、曖昧に答えを濁した。
「一日だけでいいんだよ!宏章の事話したら、ばあちゃんも会うの楽しみにしてたし……」
未玖が必死に訴えるので、宏章は少し可哀想に思い、ひとまず返事を保留した。
「分かった。じゃあ近くなってお店休めそうなら行くよ。そのつもりで頑張るから」
未玖には宏章があまり乗り気ではない事が伝わっていた。
そこで未玖はずっと抱えていた心の靄を、思い切って宏章へとぶつけた。
「宏章は、前の彼女との結婚は考えなかったの?」
「……どうしてそんな事聞くの?」
宏章は急に真顔になり、未玖に聞き返した。
「どうしてって……、だって気になるじゃない。深い意味はないよ。逆にそんな風に返されたら、何かあるんじゃないかって不安になるよ!」
宏章はうんざりした様子で、ため息をついた。
「俺が今付き合ってるのは未玖なんだから、不安になる事なんか何もないだろ?」
「そうだけど……」
宏章の様子に、未玖はさらに不安が募った。
「その事で不安にさせてるなら謝るよ。ただ正直、前の彼女の事は触れてほしくないんだ。それにもう終わった事だから。今は未玖との将来について、真剣に考えているから」
宏章にそう言われても、未玖は釈然としなかった。ただこれ以上言うと、険悪な雰囲気になりそうで、未玖はもう何も言えなくなってしまった。
夏になり、次第にお盆が近づいてきた。
その頃父は話す事もままならない日が増えて、ますます宏章に責任が重くのしかかる様になっていた。
古い店の為、あちこち設備が故障し、資金繰りにも頭を悩ませていた。連日の茹だる様な暑さも相まって、宏章は寝付けない日が続いた。
その晩、宏章は眠りにつくと桜那の夢を見た。
高いビルの屋上らしき場所で、桜那が一人裸足で立っている。小さく華奢な体が風に煽られて、今にも落ちてしまいそうだ。
「宏章……」
桜那は怯えた表情を浮かべて、こちらを見ていた。
「桜那!そこから動くな!今すぐそっちに行くから!」
一生懸命叫んでいるのに、金縛りにあったかの様に声が出せない。
その瞬間、桜那がビルから落ちた。
急に動けるようになり、急いで駆けて地面を覗く。だがそこに桜那の姿はなく、血溜まりが出来ているだけだった。
宏章はそこでハッと目を覚ました。
……夢か。
宏章はむくりと体を起こした。
寝覚めは最悪で、体には嫌な怠さだけが残っていた。
……何でこんな夢なんか見たんだ。
宏章は両手で顔を覆った。
びっしょり汗をかいて、体は冷たくなっていた。最近は色々な事が重なって、疲れていたんだろう。
……今何時だ?
時刻は朝の五時半だ。いつもより少し早いが、喉が乾いていたので、そのまま起きることにした。宏章はため息をついてベッドから出ると、ふらふらと浴室へ向かった。
ここの所、定休日もやる事が山程あり、なかなか未玖とも会えずにいた。今晩は未玖と会う約束をしており、会うのは数週間ぶりだ。
宏章は未玖のアパートを訪れるが、連日の疲れと寝不足から、ソファに腰掛けてぼんやりとしていた。
未玖は宏章がなかなかお盆の都合を話してこない事に業を煮やし、痺れを切らして思い切って尋ねた。
「宏章、お盆の事なんだけど……」
宏章はお盆の事をすっかり忘れていた。
お盆は何とか都合をつければ休めそうではあったが、宏章はもう今の現状に精一杯で、そこまで心の余裕が持てなかった。
「ごめん……、やっぱりお盆は難しそうなんだ。親父の体調も悪化してきたし、銀行にも出向かないといけなくて」
未玖は期待していた分、落胆した。
ただ宏章の現状は充分理解していたし、ここで自分の意思を無理矢理通しても、宏章の負担になる事は目に見えていた。
未玖は泣きそうになるのをぐっと堪えて、笑顔を作った。
「分かった。今大変だもんね。また今度だね」
宏章は未玖のその笑顔に胸が痛んだ。
だがそれ以上に、未玖の存在がプレッシャーに感じ始めていた。
お盆が過ぎて、店の設備修繕の為の融資が無事下りたので、とりあえず仕事が一段落ついた。
未玖との交際はもうすぐ一年を迎えようとしていた。
交際一年の記念日はちょうど定休日で、前日夜にホテルでディナーをしてそのまま宿泊し、翌日どこかへ出かけようと話していた。
そこは職場の福利厚生で利用できる会員制のリゾートホテルで、前々から未玖が行きたがっていた所だった。
ここのところ宏章は仕事がずっと忙しく、泊まりで出かけるのは久しぶりだった。未玖はだいぶ前から、その日を心待ちにしていた。
宏章はお盆の帰省を断った事で、未玖に対して後ろめたさを感じていた。記念日は未玖を楽しませようと、半ば罪滅ぼしの様な気持ちでいた。
当日を迎え、店を早めに切り上げて出掛ける支度をしているところで電話が鳴った。
父が入院している医大病院からの着信だ。
宏章は胸騒ぎがして、心を落ち着けようと一呼吸置いてから電話に出た。
「医大病院ですが、斎藤宏章さんの携帯でしょうか?お父様の容態が……」
父の容態が急変した。
約束の時間が迫っていたので、宏章は慌てて未玖に電話をかけた。
未玖は仕事を早退して、オシャレをして宏章の迎えを待っていた。宏章からの着信に気付いて、声を弾ませながら笑顔で電話に出る。
「もしもーし!」
「未玖!ごめん!親父の容態が急変して、今病院から呼ばれて……、今日行けなくなった……。今度必ず埋め合わせするから!本当にごめん!」
未玖は突然の事に戸惑ったが、押し寄せてくる感情を抑えて冷静に答えた。
「ううん、仕方ないよ……。それより早くお父さんの所に行ってあげて。ホテルならまたいつでも行けるから」
未玖は何とか気丈に振る舞って電話を切ると、その場で泣き崩れた。
仕方ない事だと自分に言い聞かせても、涙が止まらなかった。宏章を一番に心配したが、こんな時まで落胆している自分に嫌気がさした。宏章といると、どんどん自分の嫌な所が見えて来る。未玖はこの関係に、次第に疲れ始めていた。
宏章が母を伴って病院に駆け付けると、父は懸命な処置の甲斐あってどうにか一命を取り留めたが、予断を許さない状況がしばらく続いた。
宏章もまた、この状況に疲れ果てていた。
その後、数日経ってようやく未玖に会えたので、宏章は記念日の事を詫びた。
「こないだは本当にごめん。もう少し親父の容態が落ち着いたら、またホテル予約しよう」
「ううん、しばらくはやめとこう。こんな状況だし、なるべくお父さんの側にいてあげて」
未玖は物分かりのいい様に答えたが、内心では宏章の都合に振り回されて疲れていた。仕方ない事だと分かっていても悲しかったし、もう期待もしたくなかった。
宏章はその一件以来、罪滅ぼしをするかの様になるべく未玖と会う時間を作った。宏章が明らかに気を遣っている事が伝わり、何とも言えない居心地の悪さを感じていたが、未玖は次第に、宏章のそんな態度に苛立ちを覚え始めた。
会話も続かず沈黙が多くなり始め、二人の間はギクシャクしていた。
そんな時、ちょうど慎也から連絡が来た。
仕事終わりに飲もうという事になり、いつもの居酒屋で待ち合わせた。「最近どうだ?」と尋ねられ、宏章は現状を話し始めた。
「こないだ親父の容態が急変して、未玖との記念日の約束ドタキャンしたんだ。親父はとりあえず持ち直したんだけど、その時から未玖とギクシャクして……」
宏章は深いため息をついてビールを口にした。
慎也から見ても、宏章は相当参っている様子だった。
「そういえば、俺たちが挙式した式場でブライダルフェアやってるんだよ。未玖もあの式場気に入ってたらしいし、気晴らしに二人で行ってみれば?あそこなら近場だし、未玖も喜ぶと思うよ」
……ブライダルフェアか。
これなら未玖も喜ぶかもと思い、自宅に戻ってから式場のHPを調べてみた。開催日は土日で、ちょうど未玖は休みだ。思い切って誘ってみる事にした。
いつものファミレスで仕事帰りに食事をした後、宏章がスマホを開いて切り出した。
「慎也達が挙式した式場で、今度ブライダルフェアやるらしいんだよ。行ってみないか?ここなら近場だしさ」
未玖はまさか宏章の方からそんな事を言ってくるとは思っていなかったので、嬉しさのあまり思わず笑みが溢れた。だが開催日を見ると土曜だったので、未玖は宏章の仕事を気遣った。
「でも土曜は仕事じゃないの?」
「最近忙しかったし、臨時休業にするよ。たまにはいいだろ」
宏章が自分の都合に合わせてまで誘ってくれて、未玖は喜んだ。ちゃんと自分との将来を考えてくれていると分かり、安心もした。
そんな未玖の気持ちとは裏腹に、宏章は安堵していた。これで未玖も少しは機嫌が良くなるだろうと思っていた。
宏章からしてみれば、後ろめたさと気まずさから逃れる為の、一時凌ぎの対応でしかなかったのだ。
3
……明日は13時か。
宏章は浮かない顔でため息をついた。
明日は未玖と約束したブライダルフェアの日だ。ソファに腰掛け、スマホで会場までのルートをチェックしてからテレビを点けた。
今日は桜那が出演する深夜ドラマの日だ。
婚活がテーマのドラマで、桜那は婚活に奮闘する主人公を差し置いて、早々に結婚を決める会社の同僚の役だった。
今日の回は、まさにその結婚式のシーンの日だった。純白のウエディングドレスに身を包んだ桜那はとても美しく、宏章は思わず見入ってしまった。
ふと桜那の熱愛報道が頭に浮かんだ。
……あの俳優と、いつかこんな風に結婚する時が来るのかな。
宏章はまた胸の奥が傷んだ。
もうあれから二年以上経つのに……いい加減忘れよう、自分も前に進まなければと、気持ちを立て直して眠りについた。
翌日会場に着くなり、未玖は「わぁ!凄い素敵!」と感嘆の声を上げてはしゃいだ。未玖は終始ご機嫌で、ずっとニコニコ笑顔を浮かべていた。宏章は未玖の機嫌を取り戻せた事に安堵していた。
豪華なコース料理を試食してドレスの試着会が始まると、色鮮やかなドレスに未玖は気分が最高潮に達していた。
「どれがいいかな?」
未玖は気に入ったドレスを数着手に取り、宏章に笑顔で尋ねる。
「……これなんかいいんじゃない?」
宏章は未玖に合わせていたが、内心では早く帰りたいと思っていた。
「あ!私あれが着たい!」
未玖が白いドレスを指さした。
そのドレスは桜那がドラマで着ていた純白のドレスとよく似ていた。未玖が試着している間、宏章はソファに腰掛けて疲労のため息をついた。
……よりによってあのドレスか……。
昨日ドラマを見てしまった事を後悔した。
その時、試着室のカーテンが開いて未玖が出てきた。
宏章が顔を上げると、咄嗟に昨日の桜那のドレス姿が浮かんで来て、思わず未玖のドレス姿とダブらせてしまった。
「宏章、どう?」
未玖が上機嫌に尋ねると、宏章は明らかに困惑した顔で言葉に詰まっていた。
宏章はハッと我に返り、取り繕うように「うん!似合ってるよ」と言って笑顔を作った。
宏章の様子から未玖は何かを察した。
「……帰ろ」
未玖は途端に無表情になり、着替え始めた。
……俺、何考えてたんだ。
宏章はしまった!と焦った。
未玖が足早に式場を後にして外へ出ると、宏章は慌てて後を追った。未玖は後ろをついて歩く宏章へと振り返った。
「宏章……、何考えてたの?今日ずっと上の空だったよ」
未玖は静かに問い詰めた。
その声は怒りで震えていたが、今にも泣き出しそうな目をしていた。
「ごめん、ここの所忙しくて……。親父の事もまだ安心できないし、それで頭が一杯で……」
宏章は頭を抱えて、済まなそうに言った。
「……宏章、前の彼女が忘れられないんじゃないの?」
未玖が唐突に尋ねる。
宏章はまさに核心を突かれて、慌てて否定した。
「何言ってんだよ!そんな訳ないだろ!」
「じゃあどうしてその娘の事は教えてくれないの⁈私との結婚に乗り気じゃないのも、その娘が忘れられないからじゃないの⁈」
「だから違うって!」
宏章は未玖に責め立てられて、咄嗟に声を荒げた。
ハッと我に返り「ごめん……」と呟くが、未玖は抑えていた感情が溢れ出し、とうとう泣き出してしまった。
「宏章はずるい……、仕事とかお父さんの事言われたら、仕方ないよねって言うしかないじゃん!私には本当の事も話してくれないのに……!私もう三十だよ?子どもだってタイムリミットもあるんだよ?自分の都合ばかりで、私の事なんて少しも考えてくれないじゃない……」
未玖は嗚咽を漏らしながら、今まで抑えていた不満を全部ぶち撒けた。
宏章は俯いて「ごめん……」と呟いた。
未玖の言う事は尤もすぎて、宏章は反論出来ずに、ただ謝る事しか出来なかった。
「今日はもう帰る」
未玖は少し冷静になり、宏章へ背を向けた。
「……さっきは本当に悪かった。ちゃんと話合おう」
宏章はそう言って、未玖へ向き合おうとした。だが未玖はそれすら拒絶した。
「お願いだから、今日はもう一人にして。今は宏章の顔見たくない!」
未玖は宏章を残して、一人で式場を後にした。
宏章はどうしていいか分からず、追いかける事も出来ずに、しばらくその場に立ち尽くしていた。
慎也と亜希がリビングで赤ちゃんの名付け辞典を眺めながら談笑していると、突然チャイムが鳴った。
亜希がインターホンで確認すると、未玖が俯きながら立ち尽くしていた。
只事ではない雰囲気を感じ取り、急いでドアを開けると、未玖は亜希に泣きついた。
「未玖、どうしたの?何かあったの?」
亜希は心配して未玖を宥めながら尋ねるが、未玖は泣きじゃくるだけで言葉にならなかった。
慎也もリビングから顔を出して、その様子を心配そうに眺めていた。
ひとまず未玖をリビングまで通して、亜希は未玖の背中をさすりながら慰めた。
慎也は暖かいハーブティーを二人分淹れてそっとテーブルに置くと、気を利かせてリビングを後にした。
未玖はしばし泣いた後、少し落ち着いたのか、亜希に突然訪ねて来た事を詫びた。
「亜希、連絡もしないで突然ごめんね……」
亜希は首を横に振って、未玖に尋ねた。
「ううん、大丈夫だよ。それよりも何かあったの?今日は宏章くんとブライダルフェアに行ったんじゃなかったの?」
未玖はまた涙を流して、嗚咽を漏らしながら亜希に話し始めた。
「何かあった訳じゃないの……。でも、もう私が耐えられなくて全部ぶち撒けちゃって……。宏章、今日ずっと上の空だった。前からそうだったの、結婚の話になるとはぐらかされて……。仕事が忙しいのも、今はお父さんの事で大変な事も分かってる、でも……」
未玖は宏章の本心を見抜いていた。
それでも気付かない振りをして、今は大変な時だからと宏章のタイミングを待っていた。
「宏章、前の彼女の事が忘れられないみたい……」
亜希は驚いて「そんな訳ないじゃない。別れてからだいぶ経ってるし……」と言うが、未玖は首を横に振った。
「ううん、私には分かるんだよ。前から薄々は感じてたの。宏章、その娘の事は絶対に話してくれないの。私も初めは嫌な思い出なのかと思ってた。でもそうじゃない。多分大事すぎて、誰にも触れてほしくないんだと思う……」
そう言って未玖はまた泣き出した。
亜希は何も言えずに、ただ未玖を抱きしめる事しか出来なかった。
しばらくして慎也がリビングへ戻ると、未玖はだいぶ落ち着きを取り戻していた。ひとしきり泣いて思いを吐き出したらすっきりしたのか、亜希に笑顔も見せていた。
「慎也さん、突然訪ねてごめんなさい」
「気にすんなよ、何かあったらいつでも来いよ」
済まなそうに謝る未玖を気遣い、夜も遅いので二人でアパートまで送り届けた。
未玖を送り届けて自宅へ戻るなり、「宏章と何かあったの?」と慎也は亜希に尋ねた。
亜希はため息をついてから、険しい表情で話し始めた。
「宏章くん、結婚に前向きじゃないみたい。実家継いだばかりだし、今お父さんの事で大変なのは未玖も分かっているんだけど……。未玖が、宏章くんは前の彼女の事が忘れられないんじゃないかって言うの。私もそれは無いんじゃないのって言ったんだけど……」
慎也は、え?と驚いた。
「前の彼女って……、だって別れてからもうだいぶ経ったろ?」
「そうなんだけどね……。前の彼女の事、全然話してくれないんだって。それは今だに引きずってるからなんだって言うの。慎也は宏章くんから、本当に何も聞いてないの?」
亜希が尋ねると、慎也は思い返して考え込んだ。
「俺も詳しくは知らないんだよ。あいつ、前の彼女の事は俺にも教えてくれなかったし……。ただ、別れたくて別れた訳じゃないみたいなんだよな。なんか色々事情があったみたいで……、やっぱりまだ引きずってんのかな……」
亜希はみるみる不機嫌な表情になり、怒り出した。
「そんなの未玖が可哀想だよ!未玖に対して不誠実じゃない!」
慎也は未玖に宏章を紹介した手前、責任を感じていた。ため息をついてから、「俺、宏章と話してみるよ」と言って亜希を宥めた。
4
数日後、宏章は慎也に呼び出された。
未玖の事だろうとすぐに察しがついた。
あの日以降、未玖は電話にも出ず、LINEも既読が付かなかった。
駅前の居酒屋で待ち合わせて、先に着いたので飲みながら待っていると、仕事を終えた慎也がやって来た。
「久しぶり、急に呼び出して悪かったな」
慎也は向かいに座り、ビールを注文した。
「いや、俺も慎也に話したい事あったし……」
宏章もまた、未玖の事で慎也に相談しようと思っていた所だった。
「親父さん、大丈夫か?」
慎也は本題へ入る前に、宏章を気遣った。
「ああ、うん……。とりあえず峠は越したよ。ただ小康状態が続いてるから、安心は出来ないけど」
宏章が静かに答えると、慎也は「そっか……」と呟いた。そこでビールが運ばれて来たので、慎也はビールを口にしてから早速本題を切り出した。
「こないだ未玖がうちに来たよ」
宏章が驚いて顔を上げると、慎也はため息混じりに宏章へ話し出した。
「これは二人の問題だし、俺が口出す事じゃないけど……。お前、もうちょっと未玖の事考えてやれよ。今は親父さんの事もあるし、大変なのは分かるよ。それは未玖も分かってる。でも未玖が気にしてるのはそこじゃない。お前、本当は前の彼女が忘れられないんじゃないのか?」
慎也に言い当てられて、宏章は言葉を詰まらせた。
なんとか絞り出して、「違うよ……、そんな訳ないだろ」と否定するので精一杯だったが、宏章の態度から慎也は悟った。
「俺が紹介しといてこんな事言うのもあれだけど……。その気がないなら、ちゃんとケジメつけろよ。お前の都合で、未玖を振り回すな」
宏章は返す言葉がなかった。
だが慎也の言葉で、宏章は決心がついた。
「……そうだな。心配かけて悪かった。ちゃんと考えるよ」
宏章ははっきりとした口調で答えた。
「いや、俺の方こそこんな大変な時に悪かった。仕事の方も、あんまり根詰めすぎるなよ」
慎也は未玖と同様に宏章の事も心配していた。宏章は慎也が未玖と自分の間で板挟みにされている事は分かっていた。だからこそせめて誠実でいる事が、自分が未玖に出来る最後の事だと悟った。
……未玖と別れよう。
宏章はようやく決心がついた。
慎也と会った翌日、宏章はまた未玖に電話した。しばらくコールを鳴らすが、なかなか出ないので改めようとした瞬間、未玖がやっと電話に出た。
「はい……」
未玖の声は落ち着いていた。
宏章の心に緊張が走る。
一呼吸置いてから、意を決して話し出した。
「未玖、こないだは本当にごめん。話したい事があるから、都合の良い時会えないか?」
宏章もまた、落ち着いていた。
未玖はその語り口で全てを悟った。
「じゃあ今日がいい。仕事が終わったら、いつものファミレスで待ってる」
未玖はそう言って、電話を切った。
宏章が店の片付けを終えて急いでファミレスへ向かうと、未玖はもう既に着いて待っていた。
「待たせてごめん!」
宏章は息を切らしながら、未玖の向かいに腰掛けた。
「ううん、私も今来たとこ」
二人の間にしばらく沈黙が流れていたが、注文したコーヒーが運ばれて来たタイミングで、宏章が静かに切り出した。
「未玖、別れよう。俺、今は正直結婚の事は考えられないし、未玖の期待には応えられない」
宏章はそう告げると、ぎゅっと目を閉じて俯いた。
「未玖の事は好きだし、大事だって思ってる。でも……」
宏章が言いかけると、未玖は遮る様に静かに言い放った。
「嘘つき。そういう言い訳はいらないよ」
宏章は返す言葉がなく、俯いたまま未玖の言葉を受け止めていた。
未玖はふっとため息をついて、悲しげに笑った。
「今度はその娘以上に、好きになれる人が現れるといいね。……さよなら」
未玖は静かに立ち上がり、宏章を残して一人店を後にした。
宏章は微動だにせず、俯いたままずっと座っていた。
「お客様、ラストオーダーのお時間ですが……」
店員の声掛けでハッと我に返った。
「あ、もう出ます……」
済まなそうに答えて立ち上がると、宏章も店を後にした。
……未玖、ごめん。
宏章は心の中で何度も呟いた。
それでも罪悪感だけが心に重くのしかかり、消え去る事は無かった。
未玖と別れてすぐ、親父が亡くなった。
悲しみに暮れる間もなく慌ただしく過ごしていた最中、今度は震災に見舞われた。店も自宅も半壊して、店を建て直す為、自分を奮い立たせて銀行やら工務店やらと駆けずり回った。
そんな中、慎也から未玖が結婚したと聞いた。
相手は職場の後輩で、長年未玖に想いを寄せていたらしく、未玖はその想いを受け入れたそうだ。
未玖は夫の転勤に伴って、福岡に引っ越した。
良かったと心から安堵した。
この感情が心からの祝福なのか、罪悪感からくるものなのかは分からなかったが、未玖の幸せを願った。
生活が少し落ち着いた頃、独り身の自分を案じた商店会の世話焼きのおばちゃんやら先輩達が、お見合いや紹介の話を持ってきたが、頑なに断り続けた。
もう桜那を無理に忘れようとするのをやめよう。忘れる事など、きっと出来ない。ならばせめて、受け入れようと思った。
そして2019年に、桜那が突然芸能界を引退した。
そこからはもう、どんなに調べても情報を追えなくなった。
桜那のファンでいる。別れる時に交わした約束を、守る事すら出来なくなった。
そのタイミングで、桜那のビデオや作品を手放した。手放しても思い出が消える訳じゃない。自分の中に、死ぬまで残り続ける。そう思ったら、なんだか自分の中で一区切りついた気がした。
そして今度は、世の中がコロナ禍に見舞われた。
その最中、桜那と熱愛の噂があった例の俳優が芸能界をひっそりと引退した。桜那と共演した戦隊モノで主演を務めたが、その後はあまり名前を聞く事もなく、引退もネットニュースで小さく報じられただけだった。改めて、桜那がいた芸能界の厳しさを垣間見た気がした。
「宏章……」
目を閉じると、今でも俺の名前を呼ぶ愛らしい笑顔の桜那が鮮明に浮かび上がってくる。
……どんな形でもいい、どうか幸せでいてくれ。
宏章は今日もまた、祈り続けていた。