2024年、11月初旬。
桜那は熊本県K町にある「リカーショップときわ」の前にいた。
遡る事一時間前、桜那は熊本駅に降り立ち、徒歩数分のホテルにチェックインした。
時刻は15時を少し過ぎた頃だ。
桜那は明日早朝からの物件探しに備えて、前日からホテルを予約していた。
移住を決めたのは、ほんの一か月前の事だ。思い立ったらすぐ行動する性格のため、仕事の挨拶回りや、事務手続きのあれやこれやを済ませて、今日この日を迎えた。
……まさか本当に、移住を決断しちゃうとはね。
我ながらこの行動力には驚くばかりだ。
桜那は今日までの出来事を、頭の中で振り返った。
桜那が芸能界を引退したのは五年前、2019年の事だった。
桜那が宏章と別れた後出演した映画「桜の宴」は、権威ある映画賞で、最優秀作品賞を受賞した。桜那は助演であったが、演技力が評価されて、その後深夜ドラマなど演技の仕事が徐々に増えていった。
映画と前後して、2013年をもってAV女優を引退した。三年でトップを取って引退する。桜那は自分自身に誓った通り、目標を達成してみせた。自分の中で迷いが完全に吹っ切れた事から、引退作は並々ならぬ気合いの入れようで、最高傑作を生み出したという自負があった。人気絶頂の最中の引退という事も手伝って、引退作は過去最高の売上を記録した。その記録は、十年以上経った今も誰にも破られていない。
宏章と別れた後、桜那はより一層仕事に邁進した。翌年の2014年には、子ども向けの戦隊モノのドラマに、重要な役どころで出演するまでになった。
徐々にドラマやバラエティに露出する様になった頃、桜那のファンを公言するファッション誌のモデルが現れた。なんとAV女優時代からのファンで、ルックスやスタイルはもとより、視線の動かし方や魅せ方等ジャンルは違えど、表現面で参考にしているとの事だった。
性的な面以外での、それも同じ女性からの評価。
桜那はその時に、改めてやってきて良かったと心から実感した。
それを皮切りに、女性ファンも増えてファッション誌で特集が組まれる程になったのだ。
どんどん新しい表現の場が増えて、沢山の人に出会えた。新しい仕事が軌道に乗ってきた頃、ファッション誌での仕事がきっかけで、桜那のセンスを活かして商品をプロデュースしてみないかと持ちかけられた。始めは面白そうだなと軽い気持ちで引き受けたが、やってみてやり甲斐と手ごたえを感じ始めた。
そのうち一から商品を生み出す面白さに目覚め、やるからには本腰を入れてやりたいと思うまでになった。
思い立ってからの行動力は素晴らしく迅速で、ついに自分の会社を立ち上げた。そして経営に専念するため、30歳の春、芸能界を引退する決断をした。
その頃には桜那の後輩だった黒澤駿が俳優として人気絶頂を迎えていた。駿のバンドは結局鳴かず飛ばずで解散したが、駿は事務所に残り、俳優としての実力を開花させた。事務所の稼ぎ頭は侑李と駿の二人となり、ファッション誌で人気だった桜那に憧れて、事務所入りした有望な後輩も育って来ていた。
事務所を退所したいと申し出ると、社長は驚くほどあっさり了承してくれた。もっとも、反対された所で桜那の意思は固く、決意が揺らぐ事はなかったが。社長はそれを理解していたのだ。
引退は一番に侑李へ伝えた。
桜那は侑李に引退を報告した日の事を思い返す。春のうららかな日、二人は侑李が手がけるいつものカフェにいた。
「侑李さん、私次にやりたい事が見つかったんです。もちろんこの仕事にもやり甲斐は感じていたし、沢山の貴重な経験も出来て、自分自身みなさんのおかげで成長できたと思っています。私、やり切りました。もう思い残す事はないです。今まで頑張ってきて良かった」
桜那は満面の笑みで、侑李にきっぱりと言い切った。
「侑李さんを超える事は出来なかったけど、近づく事は出来たのかな……」
桜那は穏やかな表情で、コーヒーを口にした。そんな桜那を見て、侑李は安堵したかの様に目を閉じ、静かに微笑んだ。
「あんたは本当にすごいよ。よくここまで頑張った。私なんかとっくに超えてるよ。私はずっと、あんたに対して負い目を感じていたの。あんたがAV女優になるって言い出した時、私が何としてでも止めていればってね。あの後、あんたにはつらい選択をさせてしまったから……。結局後にも先にも、仕事を辞めたいって言ったのは、あの時だけだったね。人間不信になってたあんたを変えてくれた、大切な彼だったのにね」
侑李は申し訳なさそうに桜那へ語りかけた。
「侑李さん、私がまた人を信じられるようになれたのは、もちろん宏章のおかげでもあるけど……。一番は、侑李さんが私を信じて、守ってくれたからですよ。侑李さんがいてくれたから……、侑李さんには感謝してもしきれません。本当にありがとうございました」
桜那はしっかりと侑李の目を見つめて、はっきりとした口調で言い切った。
侑李もまた、そんな桜那へ穏やかに微笑んだ。
「そう言ってもらえて、少し肩の荷が下りたよ。桜那、幸せになってね」
桜那の目から、一筋の涙が溢れる。
「はい……」
静かに返事をすると、桜那は目を閉じて微笑んだ。
……あれから五年か。
引退してから、今日までの五年間はあっという間だった。
特にコロナ禍によって、世界中が混沌としていた2020年からは、時間が物凄いスピードで過ぎて行くように感じた。コロナ禍でも、桜那の会社は幸い経営に影響を及ぼす事なく、順調に売上を伸ばしていた。
ステイホーム中にも可愛くて、気分が上がる様なリラックスウェアなどアイディアはどんどん浮かんだ。
桜那は窮地に立たされる程燃え、逆境でこそ強く輝けるのだ。
途中リモートワークを余儀なくされ、移動や人との接触を制限された事で桜那は思い立った。
……そうだ!熊本へ移住しよう!
桜那は宏章と別れた後、オフの度に幾度となく熊本へ一人で訪れていた。初めは有名な観光地から始まり、そのうちただ何もせずに街をぶらぶらする様になった。
東京にいる時と同じように、ふらっと一人ランチをしたり、カフェでお茶したり……時にはカフェで仕事をする事もあった。食べ物や空気がよく合い、心地よく自然と溶け込む。いつしかここに住んでみたいと思う様になった。
コロナ禍が訪れ、なかなか行くのが難しくなり悶々としていたが、仕事はリモートワークでも出来る事が証明されたし、徐々に様々な制限が解除された事で、必要に応じて東京と往復すれば良い。だったら思い切って住んでしまおう!桜那の決断は早かった。
ただ宏章の生まれた町……K町にはどうしても勇気が出ず、未だ行けずにいた。
ずっと見てみたいと願っていた、宏章の生まれ育った町。
……宏章はどうしているだろう。
桜那はずっと、それだけが気掛かりだった。
……宏章は優しいから、きっと今頃結婚して、子どももいて幸せに暮らしているんだろうな。
そう考えると未だに胸の奥がちくりと痛むが、安堵する自分もいた。
……それを見届けられたら、私も前に進めるのかな?
……会う事はもう、叶わなくても……。もう一度あの空気を感じる事が出来たら。
桜那は熊本に移住すると決めた時、ふと今なら行けるかもしれないと思い立った。
ホテルに荷物を置いて、フロントでタクシーを呼ぶ。
「お客さん、どちらまで?」
「K町までお願いします!」
桜那はにっこりと笑って、はっきりした口調で行き先を告げた。
車中では、運転手と身の上話に花を咲かせた。
「へぇ、東京からきたの!」
「そうなの!こっちには仕事でね」
桜那は得意の営業スマイルで、愛想良く振る舞う。窓の外を眺めると、無機質な工業団地を抜けて、だんだんと住宅街が近づいてきた。
「そろそろK町に入るけど、駅まででいいのかな?」
「運転手さん、挨拶回り用のお酒を買いたいんだけど、この辺でおすすめのお店ある?」
桜那は運転手に笑顔で尋ねた。
「お酒ねぇ……それならこの通りを少し行った所に、ときわって店があるんだけど。小さい店なんだけどね、種類も豊富だしいいんじゃないかな?」
……まさか宏章の実家じゃないだろう。酒屋なんて沢山あるだろうしね。
自分に言い聞かせるように心で呟いたが、どこかで淡い期待もしていた。
「じゃあ、そこで降ろして下さい」
桜那は周辺の大通りで下車した。
少し住宅街の中に入るとの事で、道順を教えてもらった。桜那はヒールを鳴らし、ゆっくりと歩き出す。
……ここが宏章の生まれ育った町。
なんの変哲もない住宅街だったが、静かで穏やかな空気が流れていた。宏章が纏っていた空気感そのものだ。
あれから12年も経ったのに、未だにはっきりとその雰囲気を思い出す事が出来る。
そうして、店の前にたどり着いた。
2
住宅街の一角にあるその店は、木造の小さな三角屋根の建物で、ガラス張りの正面からは、店奥にずらりと数多くの日本酒が並べられているのが見える。店舗兼自宅なのだろうか?奥の母屋はリフォームされたばかりなのか、まだ新しく綺麗だった。
桜那は緊張から、ゴクリと唾を飲み込んだ。
……って何緊張してんだろ私。宏章の実家じゃないかもしれないじゃん。
桜那は思わず自分にツッコミを入れた。
……てゆーか、これじゃ私まるでストーカーみたい。
桜那は自分に呆れて苦笑いをすると、意を決して進み出した。
「いらっしゃいませー!」
自動ドアが開くと同時に、元気な声が響いた。店奥のレジに、屈託のない笑顔の若い男の子が店番をしていた。大学生くらいだろうか?今流行りのマッシュヘアで、くりくりとした大きな目の可愛らしい子だった。
男の子と目が合うと、桜那は得意の営業スマイルで「こんにちは」と挨拶をした。
男の子は驚いた顔をした後、桜那に見惚れていた。男性のそんな反応には慣れっこなので、そんな男の子をよそに、桜那はきょろきょろと店舗を見渡した。桜那のお目当ては決まっていた。だがしかし一向に見当たらない。
男の子と目が合い、桜那はにこやかに尋ねた。
「すみません、桜花ありますか?」
「あっ!奥にあるんで……、今出しますね!」
男の子はハッと我に返り、店舗奥からケースごと運んできた。
「わざわざありがとう。これが一番好きなんだ」
「いえ!大丈夫っす!ご自宅用ですか?」
笑顔の桜那に、男の子は惚れ惚れとしながら尋ねた。
「自分用に一本と、あと贈り物用に二本お願いします」
「はい!今用意しますね!」
男の子は元気よく答えて、桜花を包み出した。
男の子は手を動かしながら、ちらりと桜那を見て尋ねた。
「この辺の方ですか?」
「ううん、東京から来たの。今日は仕事で」
「へぇ〜東京から!」
男の子はなるほどといった様子で、桜那の言葉に納得していた。
「うん、そのうち拠点もこっちに移そうと思って」
「え!熊本に?何でまた?」
「昔付き合ってた彼がこっちの人でね、熊本はいい所だって教えてくれたの。それで遊びに行くうちに気に入っちゃって。それならいっそ移住しちゃおうかなって」
「へぇ〜、でも東京で仕事してるんですよね?」
「うん、でも仕事はリモートでも出来るし。しばらくは東京と往復するようになると思うけど」
男の子はまるで違う世界の人を見ている様な、不思議な顔をした。
無理もない、地元を一度も出た事のない若い子ならごく普通の反応だ。
「じゃあまたうちに来て下さい!色々いいの入ったら教えますよ!」
「うん、また来るね!今度また色々おすすめ教えてね」
男の子が人懐っこい笑顔を見せると、桜那は大人の余裕たっぷりに笑顔を振りまいた。
会計を済ませて店を出ようとしたが、ふと足を止めて振り向いた。
「ちょっと散策してから帰りたいんだけど、駅はどっち?」
「あ、大通りに出て、右に曲がって10分くらい歩くと見えてきますよ!」
「ありがとう。じゃあまたね」
桜那はまばゆいばかりの笑顔でお礼を言って、手を振る。
店を出て立ち止まり、ふと空を見上げた。
がっかりした様な、ホッとした様な複雑な気分だった。
……やっぱり、会えるわけないか。
そして駅に向かって、ひとり歩き出した。
「うおおおお!めっちゃ綺麗な人だった!」
桜那を見送ったあと、アルバイトの海音は思わず大きな声を上げた。そのタイミングで勢いよく自動ドアが開き、ただいまー!と大きな声がした。
宏章がちょうど入れ違いで、配達から帰って来たのだ。
「海音、遅くなって悪かったな!もう上がっていいよ」
「店長!聞いて下さいよ!今めっちゃ綺麗な女の人が来たんすよ!」
宏章は、え?と驚く。
「俺、あんな綺麗な人初めて見た!まだドキドキが止まんないっす!」
驚く宏章をよそに、海音は興奮しながら大きな声で捲し立てた。
「そんなに?それは残念、俺も見たかったな」
宏章は軽く笑って海音をあしらった。
「なんか仕事で東京から来たらしくて、なんでもこっちに移住するらしいんですよ!また来ないかなぁ」
うっとりしながら話す海音をよそに、宏章は話半分で聞いていたが、ふと足元に桜花のケースがある事に気付いた。
「あれ?桜花出したの?」
「ああ!さっきのお客さんに。これが一番好きなんですって」
宏章は咄嗟に桜那の顔が思い浮かんだ。
「てゆーか!あれ絶対芸能人ですよ!」
「こんな田舎に、芸能人なんか来るわけないだろ」
いきなり海音が突拍子もない事を言い出すものだから、宏章は半ば呆れながら笑って返すが、海音は必死に訴えかけた。
「いや絶対そうですって!あの人に似てるんだよなぁ……。ほら、昔よく深夜のバラエティとか、戦隊モノに出てた!……名前なんだっけな〜」
海音が言いかけたその時、宏章は桜花に伸ばしかけた腕をピタッと止めて振り向いた。
「……その人、どっち行った?」
宏章がいきなり深刻そうに尋ねてきたので、海音は思わずたじろいだ。
「え?駅までの道聞かれたので、大通り出て右にって……」
「悪い!海音、もうちょっと店番してて!」
宏章は大きな声でそう言うと、勢いよく店を飛び出して行った。
宏章は全速力で追いかけた。
大通りに出て右へ曲がるが、人がまばらに歩いているだけだった。息を切らし、その場にへたり込む。
……そんなわけないか。
宏章はため息をついて、体を起こした。
その時反対車線側に、今まさにタクシーへ乗り込もうとする人影が見えた。ネイビーのトレンチコートを着て、ブラックのストラップヒールを履いた小柄で華奢な女性。
「桜那‼︎」
宏章は咄嗟に大きな声で名前を呼んだ。
その声に驚いて、桜那は顔を上げた。
……宏章だ!
桜那は困惑して、その場に立ち尽くす。
横断歩道が青になり、宏章は桜那の方へ駆けて行った。
「お客さん!乗らないの?」
タクシー運転手の声で、桜那は我に返った。
「あっ!ごめんなさい!キャンセルで」
バタンと勢いよくドアが閉まり、タクシーが走り去って行った。
横断歩道を渡り終えて、桜那の前に息を切らした宏章が立ち止まる。
桜那は気まずそうに振り返り、一言「久しぶり……」と呟いた。
宏章は12年前と打って変わって、長めの黒髪を後ろに束ね、口髭を生やしていた。細めのフレームの眼鏡とラフな格好は相変わらずだったが。
……まさか本当に会えるなんて。
驚きと困惑で言葉を失っていると、宏章の方から声をかけて来た。
「……桜那、なんでここに?」
「あ、こっちには仕事で……、今からホテルに帰る所だったんだけど……」
「そうなの?呼び止めてごめん!もう東京に帰るの?」
宏章は慌てて尋ねた。
「ううん、出張で……、しばらくこっちに滞在する予定なんだけど……」
「じゃあこの後時間あるか⁈」
「え?うん……」
「ちょっと話そう!俺、店閉めてくるから!もう少しまっすぐ行くと、通り沿いにファミレスがあるから、そこに入って待ってて!すぐ行くから!」
宏章は桜那の返事を待たずに、勢いよく戻って行った。
桜那は驚きからしばらく動けずにいたが、深呼吸して心を落ち着かせ、通り沿いのファミレスへ向けて歩き出した。
3
宏章が店に戻ると、海音が片付けをして待っていた。
「あっ!店長!どこ行ってたんですか?てか、あの人店長の知り合いなんですか?」
海音は訳も分からず放置され、困惑して宏章へ矢継ぎ早に尋ねた。
「あ!あぁ……、ごめん。東京にいたときの知り合いなんだ。とりあえず今日はもう店閉めるから、悪いけど戸締りしといてくれるか?」
宏章は壁に掛けていたスタジャンに袖を通して、車のキーを取り出した。
宏章の慌て振りに、海音は二人はただならぬ関係に違いないと睨んだ。
「じゃあ俺出てくるから、後よろしくな!」
宏章は海音をひとり取り残し、急いで出て行った。
海音はぽかんとして、宏章を見送った。
桜那は大通りを少し歩いたところにあるファミレスへ入店して、窓側の席に腰掛けた。コーヒーを注文して、窓の外を眺める。
まさか宏章に会えるなんて、これっぽっちも思っていなかったので、困惑と緊張でどうしていいか分からなかった。
コーヒーが運ばれて来たので、心を落ち着けようと口を付けた瞬間「ごめん!待たせて!」と言って、宏章が息を切らしながら桜那の向かいに座った。宏章もコーヒーを注文して、ふーっと長く一息ついてから改めて桜那へ向き直った。
宏章のすべてを見透かす様な深い眼差しが桜那を捉える。
心を丸裸にされるような感覚は、昔と少しも変わっていなかった。
桜那は照れや困惑から一瞬目を逸らすが、悟られない様静かにカップを置いて、上目遣いで宏章を見つめた。
「……びっくりしたよ、まさかここで桜那に会えるとは思わなかった」
宏章が静かに切り出した。
「私もだよ……」
桜那もまた、静かに答える。
「こっちには仕事で来たんだっけ?」
「あ、うん……仕事っていうか、物件探しに……」
「物件⁈」
宏章は驚いて、運ばれてきたコーヒーに口を付けた。
「うん!実はこっちに移住しようと思ってるの」
桜那は顔を上げて、にっこりと元気よく答えた。
「移住⁈なんでまた……」
宏章はまたも驚かされて、静かにコーヒーカップを置いた。
今ここに桜那がいるだけでも驚きなのに、物件やら移住やら宏章は思考が追いつかなかった。
……そういえば、さっき海音が移住がどうのって言ってたっけ。
「しかも仕事って、今何してるんだ?五年前に芸能界引退したんだろ?」
宏章は頭を抱えて、困惑気味に畳み掛けた。
「ああ、今はね会社経営してるの」
桜那はニコニコしながら、鞄から名刺を取り出して宏章の前に差し出す。
[arriere gout 代表取締役 岡田さくら]
何やらフランス語らしき会社名の後に、桜那の肩書と本名が書かれていた。
「え?代表取締役?」
名刺を凝視し、すぐさま桜那を見上げた。
「うん!そうなの。事務所辞めるちょっと前に会社立ち上げてね。ランジェリーとかルームウェアとかプロデュースしてるの。そしたらそっちの方が面白くなっちゃって。経営に専念するために芸能界引退したってわけ」
桜那はあっけらかんと言ってのけた。
宏章が呆気に取られていると、桜那は宏章の反応がなんだか面白くて、クスクスと笑った。
「熊本にはね、宏章と別れた後よく来てたの。最初は仕事で来て、その後プライベートでも行く様になって……。そしたらなんだか気に入っちゃって……、でもコロナになって中々行けなくなっちゃったでしょ。それでずっと悶々としてたんだけど……。ふと、行けないならいっその事移住しちゃおうかって思い立ったの」
宏章は桜那の行動力にただただ関心して聞き入っていた。
「それにね、逆にコロナのおかげでリモートワークでもやれるって分かったから。まあ最初のうちは、東京と往復するようになると思うけど」
12年ぶりに会う桜那は、以前よりも逞しくなっていた。それでいて、まるで憑き物が落ちたかのように穏やかだった。
宏章はそんな桜那の様子に心から安堵した。
「そっか……、桜那が芸能界引退してから、全く情報が追えなかったからずっと心配してたんだ。だけど元気そうで良かった。安心したよ」
宏章は穏やかな表情を浮かべて、またコーヒーに口を付けた。
そんな宏章を見て、桜那も穏やかに微笑んだ。
「そうだね。私SNSも一切やらないし、完全に表舞台から退いたから。これからは穏やかに、ひっそり暮らすよ」
12年前、絶たれた夢を取り戻す為だけに、脇目も振らずに走り続けた。その裏で本心から望んでいたのは「普通」になる事だった。普通の穏やかさを手に入れる事……自分には縁がないと思っていたが、ようやくその願いを叶えられそうだ。
桜那はセカンドライフに心躍らせていた。
「で、物件は目星がついてるのか?」
「ううん。まだこれからだけど、とりあえず熊本市で探そうかなって。ひとまず賃貸で探すけど、そのうちマンションでも買おうかな」
「マンション⁈」
宏章は話のスケールの大きさにまた驚いた。
「うん、私それなりには稼いだから。それに株で資産運用もしてるし。後は家かなって」
笑顔でさらりと言う桜那に、宏章はただただ関心した。
「桜那は逞しいな。そういうとこ本当に尊敬するよ」
桜那はあははと声を上げて、無邪気に笑った。無邪気な笑顔は昔と変わらなくて、宏章は懐かしさで胸が一杯だった。
桜那も最初の緊張が嘘のように自然体でいられた。昔お互いが感じていた心地よい空気を、また再びそれぞれが感じ取っていたのだ。
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