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終業のチャイムが鳴り響いた瞬間、寿は「お先に」と棘のある声で席を立った。
瑠璃の方を一度も振り返らなかった。
その背中を見送りながら、瑠璃は胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
更衣室の青い椅子に座り込んだまま、昼休憩が終わってからも動けなかった自分が、急に惨めになった。
(本当に……馬鹿だった)
謝罪の言葉を何度も頭の中で練りながら、瑠璃は黒木のワークデスクの前に立った。
深々と頭を下げる。
「遅れて申し訳ありませんでした」
黒木は書類から目を上げず、淡々と答えた。
「気をつけるように」
その声音に温もりは一切なかった。
瑠璃が席に戻ると、黒木は無言でピンク色の付箋を差し出した。
ホテルマイステイズプレミア金沢 603号室
指先が震えた。
黒木はすでに目を逸らし、次の書類にボールペンを走らせていた。
瑠璃は窓際の自分の席から、社屋の斜め向かいにあるラグジュアリーなホテルをぼんやりと見下ろした。
ポプラの街路樹が赤く色づき始め、ガラス張りの喫茶店が夕陽に輝いている。
以前は寿と二人でよく立ち寄り、くだらない話で笑い合った場所だった。
(もう、あの時間は二度と戻らないのかもしれない)
胸が痛い。
息をするのも苦しい。
黒木の姿は、いつの間にかデスクから消えていた。
更衣室で制服を脱ぎながら、瑠璃は二つ隣のロッカーに指を這わせた。
〈村瀬 寿〉
白いプレートに刻まれた名前を、ゆっくりとなぞる。
携帯を取り出し、LINEのトーク画面を開いた。
寿のアイコンをタップしようとして、指が止まる。
(明日……直接謝ろう)
謝っても許されないかもしれない。
拒絶されるかもしれない。
それでも、ちゃんと顔を見て話すこと。
それが、今の自分にできる精一杯の誠意だと思った。
会社のエントランスを抜け、大理石の階段を降りる。
ポプラ並木の歩道を歩き、横断歩道で青信号を待つ間も、足が重かった。
今日は、黒木との時間さえも苦痛に感じる。
寿の告白。
そして医務室で奈良を抱きかかえ、半泣きで名前を呼び続けた自分の姿を、黒木に見られてしまった負い目。
(黒木さんに……どんな顔をして会えばいいの?)
ホテルに着き、フロントで「待ち合わせをしているのですが」と告げると、黒木はすでにチェックインを済ませ、部屋で待っていると言われた。
エレベーターが上昇するにつれ、瑠璃の心は逆に下降線を描いた。
六階で降り、603号室の前に立つ。
深呼吸を一つ。
扉は、ノックを待たずに開いた。
「どうぞ」
黒木の声は低く、いつもの柔らかさが欠けていた。
差し出された手は、確かにそこにあったが、距離を感じさせた。
瑠璃がショルダーバッグをソファに下ろすと、小さな丸テーブルの上にはすでに空になったグラスと、ウイスキーの瓶が置かれていた。
紺色のカーペットの上には、白いコンビニの袋が無造作に落ちている。
部屋の中は、静かすぎるほど静かだった。
黒木は窓際に立ち、外の夜景を眺めていた。
その背中は、まるで瑠璃を拒絶しているように見えた。
瑠璃は唇を軽く噛み、ようやく小さく声を出した。
「……黒木さん」
黒木はスーツの上着を脱ぎ捨て、紺色のネクタイを乱暴に引き抜いた。
それらを木製ハンガーに掛ける動作すら、いつもの彼とはまるで違っていた。
瑠璃が言葉を失っていると、低い声が落ちた。
「脱いで」
「……え?」
「服、脱いで」
黒木はスラックスのベルトを外しながら、すでにボクサーパンツ一枚の姿でベッドに腰を下ろした。
ヘッドボードの陰になって表情は見えないが、その行動は明白だった。
瑠璃は喉が鳴るのを感じながら、スカートのチャックを下ろした。
ブラウスのボタンを外し、下着姿になると、戸惑いながらベッドに近づいた。
これまで何度も身体を重ねてきたのに、今夜の黒木は、まるで別人のようだった。
(建のことで……気分を悪くしたんだよね)
ぎしっ。
マットレスが沈むと同時に、黒木の腕が瑠璃の細い腕を掴んだ。
一瞬で組み敷かれ、両手が頭の上で押さえつけられる。
「んっ……!」
荒々しいキスが唇を塞いだ。
舌が口腔内を乱暴にかき混ぜ、息継ぎすら許さない。
いつもよりずっと強い力でマットレスに押し付けられ、瑠璃の体が小さく震えた。
「く、黒木……さん」
唇がわずかに離れた隙に、かろうじて声が出た。
しかしすぐにまた貪るように吸い付かれる。
アルコールの強い匂いがした。
「飲んでるんですか……?」
その言葉を遮るように、黒木の指が瑠璃の口元を無理やり開いた。
「黒木さん、どうしたんですか」
「瑠璃さん」
「は、はい……」
手のひらが胸元を荒く掴み、ブラジャーが喉元まで押し上げられた。
露わになった乳房を、痛いほど強く揉みしだかれる。
「い、痛い……! 黒木さん、痛いです!」
「やめて……!」
瑠璃は思わず両手で黒木の胸板を押し返した。
その瞬間、寿の声が頭の中で爆ぜた。
『私も黒木が好きなの!』
黒木は動きを止め、瑠璃の顔をじっと見下ろした。
やがて、重い沈黙のあと、くぐもった声で呟いた。
「……やっぱり、奈良がいいのか」
「え、そんな……」
「俺じゃ、駄目なのか」
「そんなことありません! 今日はたまたま建が倒れて――」
「建って呼んでるのか」
「それは……く、癖で……」
黒木はゆっくりと体を起こし、瑠璃に背中を向けてベッドの端に腰を下ろした。
肩がわずかに落ちている。
「瑠璃さん、ごめん。悪いけど」
低い声が、部屋の静けさに溶け込んだ。
「今日は、帰ってください」
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