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黒木の悲しげで乾いた声が、瑠璃の胸を鋭く刺した。
「今日は、帰ってください」
その言葉に追い立てられるように、瑠璃はベッドから起き上がった。
ソファに腰を下ろし、前屈みになってブラジャーの布の中に胸を押し込み、パンティの位置を直し、ストッキングを履く。
身体の奥はまだ熱く濡れていたのに、心はからからに乾いていた。
指先が震えてブラウスのボタンがなかなか留まらない。
スカートのチャックを上げようとして、何度も引っかけた。
ギィ……。
ユニットバスの洗面台で乱れた髪を整え、ショルダーバッグを肩に掛ける。
「黒木さん」
「はい」
力のない、感情の欠片も感じられない返事が返ってきた。
「おやすみなさい」
「はい」
ドアをそっと閉めると、自動施錠の軽い音が、二人の間に冷たい線を引いた。エレベーターホールで下降ボタンを押しながら、瑠璃は思った。
今ならまだ引き返せる。
もう一度603号室の扉を叩いて、謝れば――
(……謝る?)
何を、どう謝ればいい?
セックスを拒んだ理由が、寿の告白を聞いて動揺したからだと言えるのか。
それとも、建に対してまだほんの一欠片でも情が残っていると、本当に言い切れるのか。
足元から力が抜け、瑠璃は壁に寄りかかった。
(このまま、黒木さんとも……終わってしまうの?)
エレベーターを降り、眩しいエントランスを抜けると、外気が冷たく瑠璃を現実へ引き戻した。
ホテルを見上げ、大通りの排気ガスにむせ返りながら、街灯が灯り始めた歩道をトボトボと歩く。
バス停のベンチに腰を下ろしたとき、ふと視線を感じて顔を上げた。
「よぉ、瑠璃」
ベンチの端に、奈良建が座っていた。
落ち窪んだ目、頰のこけ方。こんなにやつれているなんて、瑠璃は胸が痛んだ。
無言で隣に腰を下ろすと、ベンチがぎしっと鳴った。
辺りはすっかり暗くなり、通り過ぎる車のヘッドライトが二人を交互に照らす。
何便かのバスが来ては去っていったが、二人は「乗りません」と首を振ってやり過ごした。
どれくらい時間が経っただろうか。
奈良が、重い口を開いた。
「瑠璃、俺……仕事辞めるわ」
「え……」
「もう、無理だ」
「やっぱり、辛いの?」
「うん」
「そう……」
「ごめん。俺が悪かった。本当に、ごめん」
瑠璃はただ小さく頷き、立ち上がった。
そのまま踵を返し、早足になり、やがて小走りになった。
パンプスの音が、オレンジ色の街灯の下、暗がりへと消えていく。
奈良は膝に肘をつき、額に手を当てて深く項垂れた。
――その夜、営業部グループLINEは静かに騒いでいた。
瑠璃と黒木の距離感を敏感に感じ取ったメンバーたちの間で、様々な憶測が飛び交う。
「奈良と瑠璃ちゃん、医務室で二人きりだったらしいよ」
「ホテルから寂しげに出てくる瑠璃さんを目撃したって……」
「まさか、別れるんじゃないか?」そしてその中に、ひっそりと、私のせいかもと寿が呟いた。
どうしたどうした
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瑠璃と喧嘩したの
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ちょっと
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謝れよ、一発解決
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女子は男みたいに単純じゃないの!
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こぇーーー
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そんな中、翌日の営業部フロアがざわついた。
奈良建が黒木のワークデスクの前に立ち、一言二言交わしたあと、二人が隣の会議室へ入っていったからだ。
皆が息を潜め、耳をそばだてた。
会議室の中。
「良いのか?」
「……はい」
「営業部の居心地が悪いなら、部署異動も可能だ」
「いえ、私は営業の仕事が向いているので」
「他の支社に行くこともできる」
「もう、この会社には……」
「辛いのか」
「はい」
「満島の事か」
奈良の顔が引き攣った。
まさかこの場所で瑠璃の名前が出るとは思っていなかった。
「……はい」
「そうか」
「申し訳ありませんでした」
黒木は淡々と続けた。
「退職願は預かっておく。課長には今日中に渡す。退職は一ヶ月後、10月末日付で。それでいいか?」
「はい」「残りの有給はなるべく消化するように」
「ありがとうございます」
黒木は大きく息を吸い、奈良の顔をまっすぐ見た。
「奈良くん、ここからはプライベートな話だが」
「は、はい」
「私が満島を幸せにする」
奈良の目が見開かれた。
「だから、気に病むな」
「……はい」
「行ってよし」
奈良は力なく立ち上がり、パイプ椅子を長机の下にしまい、お辞儀をして会議室を出た。
ドアが閉まったあと、黒木は一人、静かに目を伏せた。
上司としてあるまじき行為だった。
それでも、自分はこう言うしかなかった。