テラーノベル
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荒涼たる西幽(せいゆう)の国境地帯。切り立った岩山を、激しい豪雨が容赦なく叩きつけていた。街道沿いにひっそりと佇む、荒れ果てた廃寺。その古びた軒下に、泥にまみれた巨大な影が駆け込んできた。男の名は、極不壊(ゴクフカイ)。背中には、並の武芸者では持ち上げることすら叶わぬ、刃を持たぬ鉄塊の大剣『万鈞(ばんきん)』を背負っている。「ちっ、ひどい泥雨だ。これでは一歩も進めん」極不壊が濡れた前髪を払い、堂内へ足を踏み入れると、暗がりの奥に先客がいた。仏像の蓮華座に腰掛け、優雅に片膝を立てている男。白い装束に身を包み、見事な銀髪をなびかせたその男は、手にした朱塗りの煙管(キセル)から、紫煙をゆったりとくゆらせていた。その顔には、すべてを見透かしたような薄気味悪い微笑が張り付いている。男の名は、白霧幻(ハクムゲン)。人は彼を『幻煙霧散(げんえんむさん)』と呼ぶ。「おや、これは妙な珍客だ。この嵐の中、そんな物騒な鉄屑を背負って旅とは。君も物好きだねぇ」白霧幻の声は、絹のように滑らかで、どこか人を食ったような響きを帯びていた。「……ただの流れ者だ。雨が上がるまで、隅を借りるぞ」極不壊は警戒を隠さず、男から距離を置いて座り込んだ。この男、ただ者ではない。気配があまりに希薄で、まるでそこに実体がないかのような錯覚さえ覚える。「まあ、そう硬くなりなさんな。一期一会もまた江湖(こうこ)の妙。私は白霧幻。ただのしがない骨董吹きさ。……して、君が背負うその大剣。なかなかに凄まじい怨念を吸い込んでいるようだ。……例えば、君を追ってこの寺を包囲している、西幽の暗殺集団『血連宗(けつれんしゅう)』の刺客たちのようにね」白霧幻が煙管でトントンと床を叩いた瞬間、寺の障子が一斉に破られた。「見つけたぞ、極不壊! 我が宗派の秘宝『九瑠璃の杯(くるりのさかずき)』を盗み出した大罪人め!」漆黒の衣をまとった十数人の暗殺者が、一斉に堂内へ躍り出た。極不壊は重いため息をつくと、背中の大剣を一息に引き抜いた。地響きのような風圧が巻き起こり、雨粒が弾け飛ぶ。「……盗んだのではない。お前たちの頭目が、罪なき村を焼き払って奪ったものを、元の持ち主に返しただけだ」「理屈は冥府で言え! 殺せ!」「ハァァァッ!」という極不壊の気合一閃、大剣が唸りを上げて横一閃に振るわれる。それは剣というより、嵐そのものだった。三人の暗殺者が武器ごと吹き飛び、壁を突き破って外の泥水へと転がっていく。実直で、剛直。一切の欺瞞がない、あまりに純粋な武の力。蓮華座の上で、白霧幻は煙管をくわえたまま、その光景を愉しそうに眺めていた。「ほう、見事な剛剣。しかし、少々愚直に過ぎる。武の道とは、力尽く押し通るだけでは、いずれ泥沼に足をとられるものだよ?」「うるさい! 貴様は下がっていろ!」極不壊は大剣を振るい、次々と敵を叩き伏せていく。だが、暗殺者の首領が一歩前に出た。首領の手には、怪しく緑色に光る仕込み針が握られている。「死ね、極不壊!」首領が放った針は、極不壊の死角――背後からその首筋へと迫った。極不壊は前の敵を斬った直後で、体勢を戻せない。「しまっ――」ガキィィン!鋭い金属音が響いた。極不壊の首筋すれすれで、首領の毒針を弾き飛ばしたのは――なんと、白霧幻が投げ放った、ただの煙管の「吸い口」だった。「な、何者だ!?」 首領が驚愕する。白霧幻はいつの間にか、極不壊の背後に音もなく立っていた。その手には、白く輝く一本の薄刃の長剣が握られている。いつの間に抜いたのかすら、誰の目にも見えなかった。「おっと、すまないね。私は美しいお宝が傷つくのは耐えられるが、泥まみれの悪党が、分不相応な『奇策』で勝利を気取る姿を見るのは、もっと耐え難いのだよ」白霧幻の瞳が、妖しく細められる。「貴様ァ! 纏めて細切れにしてくれる!」首領が斬りかかるが、白霧幻はまるで風に舞う木の葉のように、その刃をすべて紙一重でかわしていく。「風を紡ぎ、霞を喰らう。我が剣に映るは、ただ虚妄の月影のみ――」白霧幻が静かに呟いた瞬間、彼の姿がブレた。次の瞬間、首領の周囲に無数の銀光が走る。「――『臨風吐霞(りんぷうとか)』」「が、あァァッ!?」首領の四肢の腱が、正確無比に、そして一瞬にして断ち切られた。首領は武器を落とし、その場に崩れ落ちる。残された暗殺者たちは恐怖し、負傷した首領を担いで嵐の中へと逃げ去っていった。静寂が戻った堂内。極不壊は大剣を鞘に納め、白霧幻に向き直った。「……助かった。感謝する、白霧幻。貴様がこれほどの達人とはな」「いやいや、お礼など滅相もない。私はただ、自分の愉しみのために動いただけさ」白霧幻は長剣を鮮やかに鞘へ収めると、再び煙管を拾い上げ、何事もなかったかのように煙を吸い始めた。「だが、極不壊。君が命懸けで守った『九瑠璃の杯』……それは今、君の懐にはないね?」極不壊はハッとして、己の懐を確かめた。ない。確かにしまっていたはずの、翡翠の美しい杯が消えている。「な、何故だ!? いつ落とした!?」狼狽する極不壊を見て、白霧幻はククク、と腹の底から愉しそうに笑い声を漏らした。「落としてなどいないさ。君が外の泥水へ叩き落とした暗殺者のひとりが、最初の手合わせの瞬間に、君の懐から見事に盗み出していたのさ。君の剣は強大だが、前しか見ていない。彼らは最初から、君の命ではなく、その杯だけが目的だったのだよ」「なんだと……!? では、奴らは目的を果たして逃げたというのか!」極不壊が今すぐ雨の中に飛び出そうとした時、白霧幻がその肩を優しく叩いた。「まあ待ちたまえ。話には続きがある。その暗殺者が杯を盗み出した瞬間……実はね、私が彼の懐から、さらにその杯を『掠め取って』おいたのさ」白霧幻がひらひらと手を振ると、彼の袖口から、緑色に輝く見事な翡翠の杯――『九瑠璃の杯』が現れた。「貴様……!!」 極不壊は怒りで顔を真っ赤にし、大剣の柄に手をかけた。「俺を騙していたのか! 結局、貴様もその杯が目的の悪党だったというわけか!」「おや、人聞きが悪い。私はただの骨董好きだよ」白霧幻は微笑みながら、ぽんと杯を極不壊の足元へ投げ出した。杯は床を転がり、極不壊の靴に当たって止まる。「え……?」 極不壊は呆然とした。「私が欲しいのは、そんな金目の玩具じゃない。私が愛してやまないのはねぇ……」白霧幻は煙管を深く吸い込み、堂内を真っ白な煙で満たしていく。「己の知略と武を過信し、他者を嵌めたと信じ切っていた悪党が、実は最初から私の手のひらの上で踊らされていたと気付いた瞬間の――あの、絶望に歪んだ顔さ。先ほどの首領の顔、実に見事な傑作だった。あの一瞬の愉悦に比べれば、こんな杯など、路傍の石ころも同然だよ」白霧幻の姿が、濃くなる白い煙の中に溶けていく。「な、貴様、何者なんだ……!?」極不壊が煙をかき分けた時には、すでに蓮華座の上には誰もいなかった。ただ、夜風と共に、風流で、しかし底冷えするような笑い声だけが響いていた。「また縁があれば会おう、実直なる剣士よ。その時まで、その頑固な首を他人に刈られないよう、気をつけることだねぇ……」雨は、いつの間にか上がっていた。雲の切れ間から差し込む月光が、極不壊の手元にある杯と、残された微かな紫煙の香りを、静かに照らし出していた。
#隠し子
コメント
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ああ、これは面白い導入でしたね。極不壊の愚直なまでの剛剣と、白霧幻の掴みどころのない智略の対比が鮮やかで、しかも白霧幻はただの助太刀に留まらず、最初からすべてを見透かした上で自分の愉悦のために動いている――その「悪党を絶望に叩き落とす瞬間こそが宝物」という価値観が、非常に癖のあるキャラクターを生み出しています。江湖の空気感がしっかり滲んでいて、続きが気になる仕掛けでした。