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消毒液の匂いが鼻をつく。病院の深夜特有の、静まり返った廊下を抜けて、私たちは高橋さんが入院されている病室の前にいた。
ガラス越しに見える彼は、多くの管に繋がれ、規則正しい心拍音を刻むモニターの中で、死の淵を彷徨っているように見えた。
「……まだ、意識は戻らないそうです」
私が小声で伝えると、柊さんは「ふむ」と短く応じ、許可も得ずに病室の扉を開けて中へ滑り込んだ。
「ちょっと、柊さん! まずはお医者さんの許可を……」
「静かに。寝ている人の邪魔をしちゃいけないよ」
柊さんはそう言いながら、高橋さんの枕元に置いてある備品や、サイドテーブルの上の私物を物色し始めた。引き出しを次々と開け、何かを探している。
「何を探しているんですか。証拠品なら鑑識がもう……」
「注射針だよ。……いや、見当たらないか。それなら仕方ない」
柊さんは残念そうに肩をすくめると、胸ポケットから一本のボールペンを取り出した。
「な、何を……」
止める間もなかった。柊さんは高橋さんの掛け布団を無造作にめくると、太ももの内側を、そのボールペンの先で思い切り突き刺した。
「なっ、何してるんですか!」
私は反射的に柊さんの腕を掴んだ。重傷を負って横たわっている人間に、なんてことを。
だが、柊さんは私の怒りを意に介さず、今度は高橋さんの足の裏を執拗に指先でくすぐり始める。
「やめてください! 暴行にあたりますよ、これ!」
「落ち着きなよ、南さん。……どうやら本当に意識不明らしいね」
柊さんの瞳は、モニターに映る心拍波形をじっと見つめていた。
「太ももの内側は痛みを感じやすいはずだから、寝たふりは無理だろう。本当は一番痛みを与えやすいのは歯の神経だが、さすがに抜歯は可哀そうだし……」
柊さんはそう言い捨てると、今度は高橋さんの顎を掴み、その唇を強引に押し上げた。
「何を……」
怒鳴ろうとした私の言葉が、高橋さんの口元を見た瞬間に凍りついた。
無機質な照明の下で、彼の歯が白く、あまりにも不自然なほど綺麗に輝いていた。
「見てごらん。このインプラントを」
柊さんの声から、先ほどまでの遊び心が一掃されていた。
「ただのインプラントじゃない。最新式のジルコニア、それも一本数十万はする特注品だ。医療費も合わせれば、高級車が一台買えるくらいの金額になるだろうね」
「……え? でも、彼は……」
私は、さっき確認した高橋さんの素性を思い返した。
「彼は四十二歳。これまで定職に就かず、派遣やアルバイトを転々としてきた、冴えない人生を送ってきた男のはずです」
「それは恋人の黒沢さんが言ってたのか?」
「いえ、さっきお店でも言いましたがまだ情緒が安定してなくて、聞き取りはできてないです。これは甥から聞きました」
「ふむ、冴えない、ね」
柊さんは鼻で笑い、高橋さんの唇を元に戻した。
「フリータなら年収三百万にも満たない生活だろう。そんな男が、どうやって数百万円もする最新のインプラントを手に入れるんだい? 借金をしてまで歯を整える必要が、彼にあると思うか?」
「それは……」
「ないね。だが、入れたばかりの歯でもない。甥っ子の話を聞く感じだと、付き合ったのは最近。別に彼女にお金を出してもらったわけでもないだろう」
病室の扉を静かに開ける柊さん。
「もし彼が自分自身の顔を商品にする人間だったら話は別だ。……詐欺師にとって、歯並びと肌の美しさは、獲物を安心させるための最も重要な初期投資なんだよ」
柊さんは私の耳元に顔を寄せ、凍りつくような低い声で囁いた。
「この男は、ただの宝石店員じゃない。……心を盗んで金に変える、プロの結婚詐欺師だ。高橋というのは、おそらく偽名だろうね」
頭を殴られたような衝撃だった。
強盗に襲われた悲劇の婚約者が、実は叔母を騙している詐欺師?
「……でも、それならどうして彼は刺されたんですか? 自分を殺しかけるような強盗を呼び込むなんて、リスクが高すぎます」
「だから言っただろう。便乗犯か、あるいは裏切りかだと。……彼は黒沢さんを落とすために演じようとした。だが、そこに彼も計算に入れていなかった毒が混ざった。……面白いことになってきたね」
柊さんはわざとらしく大きく溜息をついた。
「さて、黒沢さんの話を聞きに行こう。彼女が、彼の本当の過去をどこまで知っているのか。……あるいは、彼女もまた、この舞台の共演者なのか」
病室を出る間際、私は振り返って高橋さんを見た。
モニターの心拍音は、先ほどと変わらず規則正しく鳴り響いている。
だが、その冷たいリズムが、今は獲物を狙う爬虫類の鼓動のように聞こえて、私は背筋に走る戦慄を抑えることができなかった。