テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「佐伯さんが、契約が偽物だと知っている、と言いました」
金曜の夜、玄関で革靴を脱いでいる専務に、私は言った。待てなかった。
専務は、靴を一段目に置く手を止めて、顔を上げた。
「いつ」
「今日の夕方、エレベーターで」
「証拠は」
「ありません。私の性格を知っているだけです。嘘が下手だと」
専務は、しばらく黙っていた。それから、立ち上がって、言った。
「契約、と言ったか」
「はい。専務との契約が偽物だと」
「……兄さんに、契約だ、と言った。あれが回ったか」
専務は廊下を歩いて、台所の椅子に座った。私はついていった。
「知っているのは、佐伯と兄さんだけだ。知っているのと、証明できるのは違う」
「はい」
「証拠を、作らせなければいい」
専務の目が、私の左手に落ちた。
「それは、緩いままだな」
テープを巻いた指輪。回らない。でも、見る人が見れば分かる。氷室さんは給湯室で、ちょっと大きくない、と言った。
「直しに出す。外せ」
「……はい」
外した。半年持てばいいと思っていたテープを、爪で剥がした。
捨てようとして、手が止まった。
癖だ。何でも取っておく。私は鞄から手帳を出して、十月六日のページに、剥がしたテープを貼った。契約の日付の横に。
専務は、それを見ていた。何も言わなかった。
「月曜に、高梨に出させる。戻るのは二週間ほどだ」
「それまで、指輪なしですか」
「直しに出していると言えばいい。嘘じゃない」
嘘じゃない、と専務は言った。
私は左手を見た。指輪がないと、自分の手が、少し知らない手に見えた。
月曜の朝、課長が、資料を一冊持って私の机まで来た。
「水瀬さん。これ」
金曜の報告会の資料の修正版だった。表紙の「協力:総務部」は、そのままだった。
課長が、数字の頁を開いた。六ページ。会議室の稼働率。表の下に、小さな一行。
作成:総務部 水瀬ひより
「載ってるよ。水瀬さんの名前」
課長は、私よりフロアに向けて、資料を掲げていた。
「専務のご指示だって。全部門、数字には作成者を書けって。佐伯くんのところが最初に直してきた」
小森さんが走ってきて、資料を覗いて、それからスマホを両手で持った。
「ひよりさん。これ、見てください」
社内チャットの、雑談のところ。
『あの数字、総務の水瀬さんのだったんだ』
『会議室Fって、水瀬さんが一人で管理してたの?』
『うちの部の付箋の数まで知ってるらしい』
その下に、二週間前の一文はもう流れて見えなかった。
「ひよりさん」
小森さんが、声を落とした。
「名前、載りましたね」
「……載った」
私は資料の一行を、もう一度読んだ。自分の名前が、自分の数字の下に、印刷された字で書いてある。
四月に書いた一枚には、私の名前はなかった。名前を書く欄がなかった。欄がなかったから、書かなかった。
今は、ある。
昼、廊下で営業の人とすれ違った。
「水瀬さん。お疲れさまです」
顔は知っていた。四階の、付箋を五十冊使う部の人だ。名前を呼ばれるのは、初めてだった。
「お疲れさまです」
#年の差
当麻月菜
1,226
星キラリ

1,535
#略奪
秘翠ミツキ
1,891
美並ナナ
1,572
それだけ返して、私は棚の補充に向かった。
夜、台所で湯を沸かしていると、専務が帰ってきた。
革靴を一段目に置いて、台所の入口に立って、言った。
「載ったな」
「はい」
「見たか」
「見ました。課長が、フロアに向けて掲げていました」
専務は、椅子に座った。座ってから、しばらく机の上の台帳を見ていた。
「水瀬」
「はい」
「台帳を、読んでいた」
湯が沸いた。私は火を止めた。
「半年前からだ」
振り返った。
専務は台帳を見たまま、続けた。
「決裁を突き返すたびに、台帳の数字が付いてくるのを待っていた。付いてくれば、親父の方針に逆らわずに通せる。付いてこなければ、俺が通す理由がなかった」
「……それで、根拠を添えて、と」
「そうだ」
「お前が机に開いたままにして、棚を回りに行くときに。朝、誰もいない時間に。何度か」
「……机で、ですか」
「机でだ」
何度か、と専務は言った。七階から二階まで、人に運ばせる人が、朝の誰もいない総務に、何度か。
私は、湯のみを二つ出した。手が、動いた。震えてはいなかった。
「言ってくれれば」
「言えば、お前は出す」
専務が、私を見た。
「出させたくなかった。自分で出すのを、待っていた」
濃い茶を、専務の前に置いた。専務はすぐには飲まなかった。湯気を見ていた。
「半年、ですか」
「半年だ」
「……私、三回、同じ紙を出しました」
「知っている」
「腹が立った、と言いました」
「立った」
専務は、茶を飲んだ。一口、二口。
「お前が出した四回目を見たとき、腹が立ったのは、別のことだ」
「何にですか」
専務は、答えなかった。湯のみを置いて、立ち上がって、台所を出ていった。
入口で、止まった。
「名前が載って、よかった」
それだけ言って、部屋に入った。
私は、自分の茶を飲んだ。濃くしすぎていた。
火曜の午後、六階に上がった。
会議室Fの扉に貼った予約表は、月の半分で一枚目が埋まる。二枚目を貼り替えるのは、私の仕事だ。
階段を上がりきったところで、足が止まった。
扉が、閉まっていた。予約表には、この時間、何も書いていない。
中から、声がした。
「書面があるはずよ」
氷室さんの声だった。
「あの人、何でも書面にするもの。受領印まで持ってるのよ、家に」
少しの間があって、答えた声は、二人のときの声だった。
「鍵の場所なら、知ってる」
コメント
1件
この回、めっちゃ良かった…!「名前が載る」って行為ひとつでここまで空気変わるんだなって。専務が「自分で出すのを待っていた」って言ったところ、地味なのにグッと来たわ。最後の氷室さん+二人のときの声、あれ絶対佐伯さんだよね? 鍵の話とか不穏すぎて次回が待てない🔥