テラーノベル
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水曜の朝、七時四十分。
いつもなら、五階の棚から回る。今日は、二階の自分の机から始めた。
引き出しの鍵は、付箋の箱の下に置いてある。入社したときからそうしていて、変えたことがない。変える理由がなかった。
鍵を取って、いちばん下の引き出しを開けた。青いファイル。中に、白い封筒。
封筒を抜いて、鞄のいちばん奥に入れた。ファイルは、空のまま戻した。
鍵は、付箋の箱の下には戻さなかった。胸ポケットの、青いペンの隣に入れた。
鍵の場所なら知っている、と佐伯さんは言った。
知っているのは、本当だ。二年のあいだに、何度も見ている。私が机を離れるとき、付箋の箱を持ち上げて鍵を取るのを。
それが、こんなふうに使われる日が来るとは思っていなかった。
思っていなかったことが、少し悔しかった。全部覚えているはずの私が、覚えていなかった。人の癖を覚えるのは得意で、自分の癖が人に覚えられていることには、気づかなかった。
七時五十分。棚を回りに行った。五階の青いペンは、残り九本。数は、合っていた。合っていることだけが、今朝はいつもどおりだった。
昼休みに、江戸川区まで往復した。
月末で解約するアパートには、まだ段ボールが三つ残っている。その中の一つから、クリアファイルを一枚抜いた。
四月に書いた、備品・会議室運用改善メモ。手書きの原本。表計算にする前の、方眼紙に鉛筆で書いた一枚と、裏に書き損じの計算。
佐伯さんに渡したのは、これを表計算にして印刷したものだ。原本は、渡していない。渡す理由がなかったから、渡さなかった。
その一枚も、鞄のいちばん奥に入れた。白い封筒の隣に。
電車の中で、鞄を膝の上に置いて、両手で押さえていた。中に入っているものを知っている人は、私しかいない。それが、今日はいちばん安心だった。
夜、台所で専務が座るのを待って、言った。
「契約書を、家に置きたいです」
専務は、私の顔を見た。
「会社の机か」
「鍵付きの引き出しに入れていました。鍵の場所を、知っている人がいます」
「佐伯か」
「はい。昨日、六階で、氷室さんと話しているのを聞きました。書面があるはず、と」
専務は、少しのあいだ何も言わなかった。それから立ち上がって、廊下の奥に行って、戻ってきた。
手に、小さな鍵。
「書斎だ」
「……書斎」
「ここなら、誰も入らない。家政サービスにも、書斎には入れていない」
鍵を、机の上に置いた。私は、それを見た。
「俺の一通も、そこにある。同じ引き出しに入れておけ」
「いいんですか」
「契約書は二通だ。二通とも同じ場所にあるほうが、数が合う」
数が合う、と専務は言った。私の言い方で。
鍵を取って、書斎に入った。
初めて入る部屋だった。本棚と、大きな机。机の上に、青いボールペンが束で立っている。会社の机と同じだ。十本以上ある。隣に、手書きのメモが何枚か、字が見えない向きに伏せてあった。
引き出しを開けると、白い封筒が一通、入っていた。私の封筒を、その隣に置いた。
二通。並んでいる。
それから、鞄から方眼紙のクリアファイルも出した。少し迷って、封筒の下に入れた。契約書と、改善メモの原本。私が持っている紙で、人に取られたら困るものは、この二つしかない。
引き出しを閉めて、鍵をかけた。鍵は、専務に返そうとして、断られた。
「持っていろ。入るのはお前のほうが多い」
「……私は、もう入りません」
「鍵を持っている人間が、入らないと言うな」
専務はそう言って、自分の部屋に行った。扉が閉まる前に、机の上の青いペンの束を一度見た。私が見ていたのを、知っていたのだと思う。
私は書斎の鍵を、手帳の、十月六日のページの横に挟んだ。テープの隣に。癖だ。
木曜の昼、小森さんが給湯室で、いつもより小さい声で言った。
「ひよりさん。聞いちゃったんですけど、じゃなくて。見ちゃったんですけど」
「何を」
「昨日の夜、私、残業してたんです。倉庫の棚卸の続きで。八時くらいに二階に戻ってきたら」
小森さんは、言葉を探した。
「佐伯さんが、ひよりさんの机の引き出しの前に立ってました」
「……」
「忘れ物を取りに来た、って言ってましたけど。ひよりさんの机に、佐伯さんの忘れ物なんて、ないですよね」
「ない」
「付箋の箱を、持ち上げてました」
私は湯のみを置いた。
鍵は、胸ポケットにある。箱の下には、何もなかった。引き出しは閉まったまま。中のファイルは空だ。
「ありがとう。見てくれて」
「ひよりさん、何か、されてますか」
小森さんの顔は、本気だった。私は、本気の顔に嘘をつけない。だから、半分だけ言った。
「探されてる物はある。でも、もうそこにはない」
「……それ、課長に言いますか」
「言わない。見つからなかったものを、探されたとは言えない」
小森さんは、納得していない顔で、でも、うなずいた。
夕方、スマホが震えた。
佐伯さんからのメッセージだった。番号は、まだ消していない。
『ファイル、移したんだな。やっぱり何かあるんだ』
私は画面を見た。返さなかった。
コメント
1件
第13話、めっちゃ静かな緊迫感がずっと続いてて息を止めるように読んだわ……。鍵の置き場所を変えるって選択肢に気づいた時の、ひよりさんの「覚えていなかった自分が悔しい」って感覚、すごく刺さった。自分は人の癖を見る側で、見られる側になる発想がなかったんだな。専務とのやりとりで「数が合う」って言い回しが完全にひよりさんの流儀をなぞってて、ああこの人信用されてるんだってジーンときた。最後の佐伯さんのメッセージで終わるのやべえ、反応しない強さがカッコよかった。続き早く読みたい🔥
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