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ドアのすぐそば、数十センチの距離で、遥は立ち尽くしていた。
蓮司の声が、木の板一枚を隔てた向こう側から、粘つくように響いてくる。
笑っていた。からかうように、軽く、けれど──確信的に何かを奪いながら。
「……声も、震えも、熱も、涙も──」
その一語ごとが、遥の胸を、まるで刃物のように削いでいった。
手が震える。息が詰まる。喉の奥が焼けるように痛い。
──違う、そんなふうに泣いたんじゃない。
──泣いたのは、あいつのせいじゃない。
けれど、その言い訳が、もう自分自身の耳にすら届かない。
あの夜、崩れた。身体も、言葉も、感情も、どうしようもなく反応してしまった。
蓮司の言葉が、嘘ではないと思えてしまうほどに。
「……おまえもさ、壊れる準備ぐらいしといた方がいいよ」
耳が、きゅう、と痛くなる。頭の中に、誰かの声が入り込んできた。
――どうせ、おまえは誰かに抱かれてる顔しか、価値ないんでしょ。
――泣くのが似合うって言われたとき、少しだけ嬉しかったんじゃないの?
――汚い子。ほんとに、気持ち悪い。
違う、そんなこと……思ってなんか、ない。
思ってたかもしれない。でも違うって、思いたい。でも。
足が、自然と後ずさる。
息が、詰まる前に、何かが切れていた。
遥は走った。
音を立てないように、できるだけ静かに、それでも必死に。
まるで、今ここにいる自分自身から逃げるように。
階段を駆け上がることも、下りることもできず、
教室を一つ一つ避けるように通り抜け、人気のない廊下を、影のように滑っていく。
屋上へ行く勇気もなかった。
人とすれ違うのも怖かった。
──どこか、誰にも届かない場所に。
でもそんな場所なんて、この学校には、どこにもない。
どこにも、最初からなかった。
――全部見られてる。
――誰かが見てる。
――笑ってる。あいつも。あいつも。日下部も──
走り続けながら、遥の視界はぶれていた。
涙ではない。ただの混濁した何か。
過去の映像と、現在の言葉と、耳鳴りのような罪悪感が、脳内をひたすらに濁らせる。
止まったのは、非常階段の踊り場だった。
錆びた鉄の匂い。鉄柵の冷たさ。空の青さ。
遥は、崩れるように座り込んだ。
そのまま、膝を抱えて、顔を埋める。
声は漏れない。ただ、震えだけが延々と続いていた。
自分がどうして泣いているのか。
どうして、逃げてきたのか。
どうして、こんなにも苦しいのか。
わかっているようで、何もわからなかった。
──でも確かにわかっているのは、ひとつだけ。
「自分は、汚い」
その言葉だけが、静かに、深く、遥のなかに沈んでいた。