「急にお休みをいただいてすみませんでした」
八時四十五分。
優奈は九時始業を前に、勤務先の村野工務店で頭を下げていた。
相手は社長の奥様である村野恭子。
五十五歳と聞いているが、艶やかに染められたブラウンのボブスタイルと念入りなメイクのおかげが若く見られることが多いのだとか。
職場にも高そうなブランドのワンピースやブラウスでやってくることが多い。
対して優奈は黒のスキニーにグレーのロングTシャツ、そして黒のパーカー。動きやすく、汚れにくく、そして色目を使っているとは決して言われないだろう服装を心がけるようにしていた。
「二日も休むなんてどんな生活してるのかしら、不摂生なの? 遊んでるの?」
「すみません……」
「おかげで朝子が自分のお店のお客さんを調整してこっちの仕事してくれてたのよ」
恭子はそう言って、隣のデスクに座る村野朝子を見た。
朝子は社長と夫人である恭子の一人娘。
つるつるの白く張りのある肌。少しばかりふくよかな体型、ウエストあたりにまで伸ばした髪をクルクルと指で巻いてミルクティー色の毛先を触る。
「ママ、あんまり言わないであげて〜。今日は休まず来たし、今から店行くね」
「そうね、そうね、朝子無理をさせてごめんなさいね」
村野朝子はわざとらしく「うーん、疲れたぁ」と、伸びをして立ち上がり優奈の前に立った。
目をぐるりと真っ黒に囲ったアイメイクが、優奈を見下ろす。
「ちゃんと体調管理してねぇ、瀬戸さん。朝子も暇じゃないんだからさぁ、休まれちゃ何の為に瀬戸さんこの会社に来てもらってるのかわかんないでしょ」
ニコッと笑い、わざと恭子に聞こえるように忙しさをアピールする彼女に、優奈の胃はキリキリと痛む。
「……す、すみません」
「ま、いいけど。じゃ、ママまたあとで〜」
僅か五分で出ていくのなら、なぜいたのか?
答えは簡単。優奈にニコニコと嫌味を飛ばすためだろう。
軽やかな足取りで事務所を後にする、ベビーピンクのコート姿。見送っていると、恭子は朝子がいた時よりも何トーンか声色を低くし「早く仕事初めなさいよ」と、優奈に冷たく言い放った。
(……もう大丈夫? の、一言もないのか。いや、まあ体調管理もできないで休んだ私が一番悪いんだけど)
優奈は「はい」と短く返事をし、自分のデスクに着く。
優奈の仕事のメインは経理を担当している恭子の手伝いと、設備メーカーとのメールや電話でのやり取り。そして、小さな現場の施工には今も携わっているので自社や委託の職人の予定管理。
聞くところによると、昔……現社長の父親が会社を仕切っていた頃は、設計事務所の見積もり案件に参加して受注に繋げることもあったりと、建築士の先生とも関係の深い施工メインの工務店だったらしい。
最近はハウスメーカーの下請けやリフォームが主らしく。仕事量はかなり減ったのだとか。
(まあ、よく聞く二代目ボンボン社長なのか知らないけど)
「ああ、瀬戸さん。もうお昼の用意ないから買ってきてもらえる?」
「え!? あ、はい。ただ、ごめんなさい。休みの間のメールが溜まってて返信してからでもいいですか?」
優奈に対し、恭子はわかりやすくムッとした様子で眉をしかめた。
「朝子が対応してるでしょう、今日は外が冷えるからって言い訳してないで早く行きなさいな」
「……はい」
確かに急ぎのメールを見ている様子はあるのだが、その中でも明らかに納期に関わりそうなものだけを抜粋している。
中には今日の午前に終わらせなければ間に合わないものもあった。
優奈とは別に朝子が仕事を持っているならば、もちろんそれだけで有り難く、そして申し訳ない気持ちになるのだろう。
しかしそうではない。
迷惑をかけたのは事実だが、それならばいつも仕事に来てくれない朝子にも言えることではないのか?
引き継ぎくらいしてくれてもいいんじゃないのか?
浮かんで浮かんでどうしようもない愚痴を優奈はグッと飲み込む。
「何件かだけ、終わらせてから急いで買いに行きますので」
「……やだわ、朝子が何もしてないみたいな言い方するのね」
(そのとおりなんだってば!)
力強くキーボードを叩き、FAXを送り、電話をする。その目の前で恭子はコーヒーを飲みながらスマホを触る。朝子は閉店休業中のマッサージ店へ向かうと言いながら今頃何をしているやら。
(なんで、私だけこんな忙しいのよ!? しかも、お昼の用意ってさぁ、昭和かっつーの!!)
優奈の仕事は、まだあって、お昼に戻ってくる職人や社長に味噌汁を作ることだ。
昔からの習慣らしいのだが、事務所の二階に上がり、野菜を切って己の仕事時間を削って作る味噌汁。
しかも、具材が少ないと恭子からチクチクと嫌味を言われるのだ。
(……やっぱ私にはこの生活なんだよなぁ)
雅人との再会が夢のように霞んでいく。
容赦なく、日常は戻ってきた。
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