テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
58,400
277
8
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「ユンナ、悪いけど北に向かってくれないか」
サイラスは短く指示を与えた。
ユンナは力強くうなずく。
「了解!」
すぐに踵を返し、駆けていった。
サイラスはゆっくりと正面を向く。
そのとき――
北門をくぐり、一騎の馬が姿を現した。
深紅のマントが風をはらむ。
その下に輝くのは、磨き上げられた銀の甲冑。
胸当てには繊細な紋様が刻まれ、陽光を受けて白く光っていた。
肩甲は流れるような曲線を描き、無駄のない美しさを持つ。
腰には細身の剣。
柄には赤い宝石がはめ込まれている。
兜は被っていない。
風になびく長い黒髪。
その中で――
ひときわ強く、気高い眼差しがサイラスを射抜いた。
スカーレット王国女王。
レイナ。
彼女の跨る馬――レッドラビットもまたただならぬ気配を放っていた。
筋肉の動きがしなやかで、呼吸ひとつに無駄がない。
戦場を駆け抜けてきたはずなのに、その姿には乱れがなかった。
レイナは馬を止める。
深紅のマントがふわりと静まった。
サイラスは一歩前に出る。
「ご無沙汰しております、女王陛下」
レイナは静かに口を開いた。
「よい」
その声は凛としていた。
「約束は果たしたぞ、軍師」
「これで我が国は、帝国の敵となったな」
レイナは、城壁の向こうに広がる夕焼けを見たまま言った。
その声音に恐れはない。だが、もはや後戻りはないという現実だけが、静かに滲んでいた。
「我が国の民を助けていただき、ありがとうございました」
サイラスが深く頭を下げる。
「かまわぬ」
短い返答。
恩を売るつもりも、礼を受けるつもりもない。
ただ必要だから動いた――そう言わんばかりの声音だった。
レイナは振り返り、まっすぐにサイラスを見た。
「帝国は再度、この城を攻めると思うか」
サイラスは首を振った。
「ございません」
「ほう」
「帝国の兵站補給は十分ではありません。ここへ再度大軍を向け、
さらに女王陛下がこの城に入られたとなれば、
敵は長期戦を覚悟せねばなりません」
彼は淡々と続ける。
「しかし、敵の目的はあくまで王都です。この城そのものではない」
「この城を落とすことに固執すれば、兵も時間も失う。
ゼイオンほどの男が、そのような損を選ぶとは思えません」
レイナは黙って聞いていた。
その横顔には、戦の匂いを嗅ぎ分ける獣の鋭さがあった。
「では、迂回するか」
「はい」
サイラスはそう言うと、机上の地図へ手を伸ばした。
細い指が、カルデル城から東へ、さらに南へと線をなぞる。
「ここです」
指先が止まる。
青野ヶ原。
その名が落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。
広い平野。
森も浅く、丘も低い。
大軍の展開に向き、騎兵の機動を殺さぬ土地。
王都へ至る街道を押さえる、最後にして最大の会戦地。
「帝国軍は、ここで決着をつけるつもりでしょう」
「カルデル城を無理に噛み砕くのではなく、進路上の軍を野で叩く」
「王都へ救援に向かう兵も、諸侯の残兵も、ここへ吸い寄せられる」
ジャスミンが息を呑む。
「……罠、ですか」
「罠というより、戦場の強制です」
サイラスの声は冷静だった。
「王都を守るためには、こちらは出ざるを得ない」
「帝国もそれを承知している」
「ゆえに次の戦いは、城ではなく野戦になります」
レイナは地図を見下ろした。
青野ヶ原。
その何の変哲もない名が、今や無数の屍の匂いを帯びて見える。
「我らが向かわねば、王都が危うい」
「向かえば、帝国と正面からぶつかる」
「はい」
「難儀な話じゃな」
「ですが、避けられぬ話でもあります」
サイラスはそこで初めて、わずかに顔を上げた。
「敵は急ぎます。補給が細く、長くは保たない」
「ゆえに決戦を望む」
「ならば――こちらも、その決戦を利用するほかありません」
レイナの口元が、かすかに吊り上がる。
「ほう。負けぬ策があるように聞こえるな、軍師」
「勝てるとは申しません」
即答だった。
「ですが、帝国に“必勝の形”で戦わせぬことはできます」
沈黙。
城の外では、勝利に沸く兵たちの声がまだ遠く響いている。
だがこの部屋だけは、もう次の戦に移っていた。
レイナはゆっくりと頷いた。
「よい」
「では次は、青野ヶ原じゃな」
「はい」
「ここで終わらせます」
サイラスは答えなかった。
だがその沈黙こそが、何よりの肯定だった。
青野ヶ原。
帝国、王国、そしてなお散り残る諸軍。
すべての思惑が、やがてその平野へ集まっていく。
次に流れる血は、城壁の下ではない。
風の吹き抜ける、広い野の上だ。
帝国軍本営には、重苦しい静けさが満ちていた。
天幕の中央には大陸地図が広げられ、いくつもの駒が置かれている。
そのうちのいくつかは、すでに倒されていた。
カルデル城攻略失敗――その報は、場にいる誰もが口にせずとも理解していた。
だが、玉座代わりの高椅子に腰かけた皇帝は、眉ひとつ動かさなかった。
敗れて戻った三将を前にしても、その声は静かだった。
「よい。勝敗は兵家の常じゃ」
責める響きはない。
むしろ、労わるような落ち着きすらあった。
その一言に、天幕内の空気がわずかに緩む。
敗軍の将たちは深く頭を垂れたまま、言葉を失っていた。
皇帝はそこで視線を巡らせる。
最後に止まったのは、黒衣の軍師――ゼイオンだった。
「ゼイオン。次の策は」
「はっ」
ゼイオンは一歩進み出ると、地図の上に細い指を置いた。
その指先が示したのは、カルデル城ではない。
さらに南東――グラツィア王都へと至る道だった。
「王国は現在、王都にて体制を立て直しております。
カルデル城の勝利により士気は上がっておりましょうが、
兵と民の意識はいま王都防衛に集中しております」
淡々とした声が、天幕の隅々まで染み渡る。
「ならばこそ、速やかに王都を攻めること。
それが何よりも優先されます。
王都を落とせば、地方の勝利も意味を失う。
戦機はすでに熟しております」
皇帝は静かに目を細めた。
「ふむ……。
つまり、カルデル城にこだわる必要はない、と」
「御意にございます」
ゼイオンは即答した。
「わが軍はカルデル城を避け、青野ヶ原を通って王都へ進軍いたします。
補給線は長くなりますが、王国が立て直しを終える前ならば間に合う。
今を逃せば、諸侯の再結集を許し、戦は長引きましょう」
その言葉に、将の一人が低く問うた。
「だが、敵も黙って見てはおりますまい。
青野ヶ原にて迎え撃ってくるのではないか」
ゼイオンはかすかに口元を動かした。
笑みとも、冷笑ともつかぬわずかな変化だった。
「当然、出てまいります」
皇帝がその先を受けるように言った。
「王都を捨てて籠もるわけにはいかぬ、ということじゃな」
「御意」
ゼイオンはうなずく。
「王国に残された選択肢は少ない。
王都の前で決戦を挑むか、あるいは青野ヶ原で我らを止めるか。
いずれにせよ、奴らは出てこざるを得ません」
天幕の中に、再び静寂が落ちた。
それは敗北の重さからくる沈黙ではない。
次なる大会戦の気配を、誰もが肌で感じ取ったがゆえの沈黙だった。
皇帝はゆっくりと立ち上がる。
その動きだけで、居並ぶ将兵たちの背筋が伸びた。
「よかろう」
低い声が、雷鳴の前触れのように響く。
「カルデルの一敗で帝国は止まらぬ。
王都を衝き、王国の息の根を止める。
青野ヶ原にて敵が出るなら、そこで踏み潰すまでよ」
皇帝は地図の上の王都を、指で軽く叩いた。
「全軍に伝えよ。
進路を青野ヶ原へ。
この戦、次が正念場じゃ」
「はっ!」
将たちの声が一斉に響く。
その中でゼイオンだけは、地図を見つめたまま微動だにしなかった。
青野ヶ原。
そこはただの平野ではない。
帝国、王国、そして他勢力までも巻き込みかねぬ、大陸の命運を決する舞台になる。
ゼイオンの瞳は冷たく澄んでいた。
――サイラス、そこで終わりだ。
王国の希望も、誇りも、覚悟も。
すべてまとめて、あの野で刈り取ってくれる。
ユンナは、言葉を失っていた。
そこは、かつて豊かな穀倉地帯だった。
どこまでも続く黄金の麦。
収穫の歌。
子どもたちの笑い声。
――そのはずだった。
だが今は違う。
畑は踏み荒らされ、まだ青い穂まで根こそぎ刈られていた
土には靴跡と血が混じっている
家々は半ば焼け落ちている。
風が吹くたび、灰が舞った。
「……これが」
かすれた声が漏れる。
「豊かだったガゼフ公の領地……?」
答える者はいない。
ただ、荒れ果てた大地が広がるだけだった。
ベンガルは、机の上に置かれていた手紙へと目を向けた。
荒れた部屋の中で、その封だけが不思議なくらい整って見えた。
「……先生から?」
かすかに目を細める。
差出人の名を見た瞬間、彼の意識は過ぎ去った王都の日々へと引き戻された。
まだ学生だった頃。
石造りの講堂。
眠たげな空気の漂う午後の授業。
そこへふらりと現れた、一人の客員講師。
自分たちより若い少年のような顔の片腕の男だった。
場違いにも見えたその男は、しかし、誰よりも鮮やかに時代の先を語ってみせた。
――お金の流通が進めば、土地を媒介とした王と諸侯の関係はいずれ変わる。
――忠誠も支配も、血筋と領地だけでは縛れなくなる。
――新しい時代が来る。
確か、そんな話だった。
あの頃のベンガルには、半分も理解できなかった。
だが、その言葉だけは妙に胸に残った。
古い世界が終わり、何か新しいものが始まるのだと、そう信じたくなる響きがあったからだ。
「……元気ですか……」
封を切り、最初の一文を目で追ったところで、ベンガルは小さく笑った。
乾いた、どうしようもない笑いだった。
先生。
元気なわけ、ありませんよ。
公爵が帝国に降伏してからというもの、この地は地獄になった。
人は怯え、兵は荒れ、昨日まで隣人だった者が今日には奪う側へ回る。
正義も秩序も、腹を満たしてくれはしない。
未来などという言葉は、とうの昔に泥にまみれていた。
手紙の続きを読む。
もし、人々が危険に巻き込まれるようなことが起きたら、
君が止めてくれ。
ベンガルの指先が、紙の端をわずかに強くつまんだ。
買いかぶりですよ、先生。
俺は、そんな立派な人間じゃない。
さらに次の一文へ視線を落とす。
ユンナという女の子をそちらへ行かせる。
きみの助けとなるだろう。
「ユンナ……?」
聞き覚えのない名だった。
だが、先生がわざわざ自分に託す以上、ただの娘ではあるまい。
厄介ごとの匂いがした。
それも、とびきり大きな。
最後の一文を読んだとき、ベンガルはしばらく動かなかった。
願わくば、この手紙が北の新しい未来の一助になることを祈っております。
北の、新しい未来。
その言葉は、あまりにも遠かった。
窓の外に広がるのは、希望ではなく、疲弊と沈黙に覆われた街だ。
それでも――
「……先生」
ベンガルは手紙を静かに畳んだ。
かつて王都の講堂で、新しい時代を語った片腕の男。
その人が、今なお未来を諦めていないというのなら。
せめて自分も、もう少しだけ足掻いてみるべきなのかもしれなかった。
「ユンナ、か……」
呟きは、人気のない部屋に小さく落ちた。
その名が、この北の運命を揺らすことになるとは、まだ彼は知らない
あの先生には、未来が見えるのだろうか。
――こんな有様でも。
そして、希望なんてものまで、まだ見えているのだろうか。
帝国の憲兵と人々の言い争いが、街のあちこちで続いていた。
怒号。
押し合い。
わずかな火種が、いつ爆ぜてもおかしくない空気だった。
その雑踏の中で、僕は一人の少女に出会った。
「あなたがベンガル?」
振り返ると、そこに立っていたのは、場違いなほど落ち着いた目をした少女だった。
年はまだ若い。
だが、その視線だけが妙に重い。
「……そうだけど」
「ユンナよ」
名乗ると同時に、彼女は周囲の騒ぎを一瞥した。
「近いうちに、大きな暴動が起きるわ」
言い切った。
迷いはなかった。
僕は思わず苦笑する。
「そりゃあ、見りゃわかるさ」
「違う」
即座に否定された。
「“起きそう”じゃない。起きるの」
その一言に、妙な確信があった。
ただの予測ではない、決まっている未来を告げるような口調。
「だから、その前に動いて」
ユンナは一歩、こちらへ踏み出した。
「あなたが中心になって、自警団のような組織を作るの。
街の人たちを安心させて、導くのよ」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
「誰がそんなことを――」
「軍師サイラス・イシス」
その名を聞いた瞬間、言葉が止まった。
軍師……?
いや、待て。
胸の奥で、ひとつの像がゆっくりと形を結ぶ。
王都。
講堂。
片腕の、あの男。
「……そうか。あの人が」
思わず、苦い笑みが浮かんだ。
「で、その軍師様は、俺に何を期待してるって?」
ユンナは、まっすぐに僕を見た。
「あなたならできるって」
「買いかぶりだよ」
肩をすくめる。
「俺はただの――」
言いかけて、言葉が途切れた。
ただの、なんだ?
敗残者か。
生き残りか。
それとも――何も選ばなかった人間か。
「できるのか、僕に、」
無意識にこぼれた言葉だった。
ユンナは、少しだけ柔らかい表情になった。
「軍師は言ってたわ」
一拍置いて、静かに続ける。
「“あの時の学生の中で、未来の話をただ聞いて終わらせなかったのは、あいつだけだ”って」
「“どうすれば実現できるかを考えていたのは、ベンガルだけだ”って」
ざわめく街の音が、遠くなる。
あの講堂で。
確かに僕は、あの話を――ただの夢物語で終わらせたくなかった。
けれど。
「……そんなの、昔の話だ」
吐き捨てるように言った。
ユンナは首を振る。
「いいえ」
そして、はっきりと言い切った。
「今なのよ」
風が吹いた。
遠くで怒号がひときわ大きくなる。
暴動は、もうすぐそこまで来ていた。
ベンガルは村へ戻った。
荒れた街を背に、土の匂いのする道を歩きながら、胸の奥に残る言葉を何度も反芻する。
――やるのか、本当に。
答えは、まだ出ていなかった。
だが、足は止まらなかった。
村に着くと、彼はすぐに人を集めた。
同年代の若者たち。
顔なじみの大人たち。
そして村長。
不安と疑いの混じった視線が、一斉に向けられる。
ベンガルは、それを正面から受け止めた。
「……帝国のやり方、もう見ただろ」
静かに切り出す。
「このままだと、次は俺たちだ」
ざわめきが広がる。
誰もが、心のどこかで理解していた現実だった。
「だから戦う――でも、ただ暴れるんじゃない」
一歩、前に出る。
「バラバラに怒りをぶつけても、踏み潰されるだけだ」
拳を握る。
「俺たちの村を、街を、取り戻すなら――」
そして、はっきりと言い切った。
「みんなで助け合って、生き延びるしかない」
その言葉は、叫びではなかった。
だが、不思議と人の胸に落ちた。
怒りに任せて動こうとしていた者たちが、わずかに足を止める。
恐怖に押し潰されていた者たちが、顔を上げる。
「……どうするんだ」
誰かが問うた。
ベンガルは答える。
「見張りを立てる。食料を分け合う。
情報を回す。誰かが襲われたら、みんなで助けに行く」
「小さくていい。できることからだ」
「でも、一人じゃやらない。必ず、みんなでやる」
沈黙。
やがて、ひとりが頷いた。
次にもうひとり。
それが、波のように広がっていく。
その日、村は“ただの群れ”から、ひとつの意思を持つ集まりへと変わった。
その動きは、静かに広がっていった。
暴動寸前だった街で、
怒号の代わりに見張りが立ち、
略奪の代わりに分配が始まる。
誰かが言った。
「ベンガルのやり方だ」と。
噂は道を伝い、村から村へ、街から街へと渡っていく。
そして――その中心には、常にひとりの少女がいた。
ユンナ。
彼女は風のように駆けた。
ある村で火を灯し、次の街へと走る。
言葉を伝え、人を繋ぎ、また消える。
やがて、それらは点ではなく、線になり、
線は網となって広がっていった。
気づけば、それはひとつの組織と呼べる規模になっていた。
誰が言い出したのかは、もう分からない。
だが、人々はそれをこう呼び始めた。
――ラムゼー自警団。
ガゼフ公の居城がある、あの街の名を取って。
その名はやがて、恐怖ではなく、希望として語られるようになる。
まだ小さな火だ。
だが確かに、それはこの北に灯った。
北方三公の領地は、静かに壊れ始めていた。
城には帝国の執政官が居座り、
領主の名は残れど、その実権はすでに失われている。
村々には徴発隊が巡り、
穀物も、家畜も、若者も、容赦なく奪われていった。
やがて――限界は破られる。
最初は、小さな衝突だった。
倉を守ろうとした老人が突き飛ばされ、
それを見た若者が石を投げた。
血が流れた。
そして、火がついた。
この日、恐れていた最初の暴動は起こった。
怒りは、瞬く間に広がる。
村から村へ。
街道を伝い、町へ。
徴発隊は襲われ、
兵は討たれ、
倉は破られ、
炎が上がる。
それは、もう止められなかった。
北方三公の領地全土に、
暴動は燃え広がっていった。
#