第7話:バリアの向こう側
朝のオフィスビル。
無機質なエントランスに、ヒールの音が静かに響く。
藤崎ミユキ、34歳。
肩までの黒髪を低めの位置で束ね、灰色のパンツスーツ。整った顔立ちだが、どこか近づきにくい雰囲気があった。
それは見た目だけのせいではない。
彼女の指にあるリングのせいでもあった。
右手中指にメタルのリング。
属性:防御(バリア)/タイプ:自動展開式/出力:A-ランク
一定距離に誰かが近づくと、音も光も出さずに“空気の膜”が生まれる。
柔らかく拒むように、ぴたりと距離を保つ。
ミユキはそれを「パーソナルスペースリング」と呼んでいた。
「藤崎さんって、冷たく見えるけど……ほんとは優しいらしいよ?」
「うそ、あのリング見た?近づいたら押し返されたって」
そんな噂が、社内で時折飛び交う。
でもミユキは聞こえないふりをした。
むしろ、それでいいと思っていた。
だがその日、配属されたばかりの新人が、彼女の生活に割り込んでくる。
新入社員・田島ユウマ、24歳。
寝ぐせ気味の明るい茶髪に、緩めのネクタイ。
スーツは少し肩が合っていないが、笑顔だけはちゃんと似合っていた。
「藤崎さんって、ほんと“バリア張ってる”って感じですね!」
入社初日にそう言った彼に、ミユキは無言でバリアを強めた。
だがユウマは、それでも笑っていた。
「……言われ慣れてますよね?これ、“褒め”です、僕なりの」
ある日、エレベーター内で突発的な停電が起きた。
社内リングが一時的に無効化される、システムメンテの影響だった。
狭い空間に、ミユキとユウマ。
リングの機能が切れて、バリアが張れない。
「……近くて、すみません」
ユウマがぽつりと言った。
「いつも、藤崎さんが張ってる“あれ”、嫌いじゃないですよ。
安心してる感じがして。俺、実は人混み苦手なんで」
ミユキは少し驚いた。
バリアを“拒絶”としか思ってなかった自分にとって、その言葉は意外だった。
その週末。
彼女は自分のリングの設定画面を開いた。
“自動展開範囲:2.0m → 1.2m”
ほんの少しだけ、狭くする。
翌週の朝。
オフィスに着いたユウマがふと立ち止まった。
「……あれ?今日、なんか空気違う?」
彼の鞄がミユキの肩にほんの少し触れた。
でも、バリアは張られなかった。
ミユキは、彼をちらりと見て、こう言った。
「たまには、設定を変えるのも悪くないのよ」
その指には、いつものリングが光っていたが――
光の色が、いつもより少しだけやわらかかった。
魔法は、心の壁にもなる。
けれど、心の扉にもなる。
開くのに時間はかかるけれど、誰かがそっとノックしてくれるなら――
バリアの向こうに、少しずつ風は吹きはじめる。